何かと何かが関わることを通じて生を得ているのかもしれない、私というものも、この世界というものも。
踊りを作っては壊し、そんなことを思ううち旧友から突然連絡があり、久々に何か一緒にやらないか、もちろん、ということになり対話を重ねている、重ねながら対話というもの自体の良さをあらためて感じている、言葉というもの自体の広さも感じ直している。公演時期が近づいている。そんな中で、秋に見た舞台の一つを思い出した。イザベル・ユペールさんの一人芝居のことだ。今年というより、少なくともこの10年近くの中で僕にとっては特別に胸打たれた舞台鑑賞の一つになった。その時の日記を、、、。
奇跡の女優が東京で一人芝居をしていると知り、慌てて千秋楽に行ったのだが、これが凄まじいもので、心の底を揺るがされる体験を得た。演出家ロバート・ウィルソンと組んだ『Mary Said What She Said』(10/12東京芸劇)である。圧倒的な美しさが落雷のように胸に落下した。ロバート・ウィルソンの演出作をナマで観るのはヴォイツェク以来23年ぶりだったが、これが最後と思うと、亡くなられたことが本当に悔やまれる。舞台というのは命と共にしか存在しないのだから「この1回」というのがどれほど貴重な出来事になるか、いまさら思い知る。
歌うように話せたら、とか、話すように歌えたら、とか、そんなことを思ったことが何回かある、そのことを思い出した。彼女は確かに話しているのだけれど、歌っているようにも感じてしまうのだった。つまり彼女は言葉を話しているのだけれど、とても遠くの言葉なのだ。話せば話すほど遠ざかってゆくような遠くの言葉だ、それがまた良い。物語もあるし翻訳もあるのだから意味は知らされる、だがやはりそれらはあくまで意味なのだから現に耳に届いている息の震えとは違う、喉の振動とは違う、遠くの体温とは違う、ため息が出る。言葉を聴きながら距離が遠ざかってゆく、それゆえ響きが冴え、つき刺さる。残酷や悲しみの深さに満たされた詩が次々に発音され、時に機関銃のように錯乱するなかで、言葉というものそれ自体の美を突きつけられる、そんな気がするのだった。
ひとり、ということの豊かさに気づかされるような深い舞台だった。モノローグなのに対話感がすごい。登場人物としてのさまざまな存在との対話はもちろん、もっとダイレクトに感じたのは亡くなった演出家のロバート・ウィルソンと対話しているように思えたことだった。死者との対話を通じて自分自身とも対話しているようにも想像した。言葉がわからないのに人間の感情が非常に皮膚に触り臓腑に入ってくるような経験があった。ただ一人のマリーによる4人のマリーの物語から、存在することを拒むことによってこそ存在し得た5人目のマリーを妄想し幻視してしまった。一人の人間、一つの肉体、かつ、どこにもないいまだない一つの存在、それらが、ただひとりの人間が展開するひとりだけの対話から、ありありと生きる姿を垣間見せるのだった。演劇はやはり魔法なのかと思った。
★NEXT PERFORMANCE ★
2026.1/11(日)
大南匠(Pf,Org)×櫻井郁也(Dance)デュオ公演
「ひびきをめぐる---- 音と身体のための〈連 句 雑 俎〉 頌』
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