我々は,これまで「人は真実と論理の前には納得せざるを得ない,ひれ伏さざるにはいられない」ということを前提に教育を受け,そして生活してきたはずです。しかし,このことは,少なくとも私の幻想だったのではないかと思われてきました。

 

中世ヨーロッパでは「この世は神の創り給うた世界であり,人(ないしは地球)を中心にして創られた。だから太陽は地球の周りを回っている」と理解されていたところ,コペルニクスやガリレオの「計算」と「観察」によって,本当は地球が太陽の周りを回っているのだということがわかったと,我々は教わるのです。これは(学術的な担保を持った)事実と理論が(教条的な)思い込みに勝ることを学ぶストーリーとして用いられます。

もちろん,このことすら,一朝一夕に出来上がったわけではありません。事実,ガリレオは異端審問を受け,有罪判決により軟禁状態に置かれました。つまり,地動説が正しかったことの証明は,その後の研究者によりなされたのです。それまでは,真実は地動であったとしても,人々は(ある種頑なに)天動という教条を守ってきたのです。

 

こう考えてくると,少なくとも短期的な視点では,事実も論理も人を動かす力を持っていません。事実や論理は時間をかけて「社会」を動かすにすぎないのです。

しかも,現在は「オルタナ・ファクト(alternative fact:また別の事実)」の時代とも言われ始めています。つまり,「事実」の持つ感銘力が小さくなっているのです。ひとつには,科学技術の発展の副作用という面もあるのでしょう。写真や動画を思い浮かべるだけでもわかるように,あらゆるものが「捏造」できてしまう時代であり,1つの事実の真実性を検証するのにも,膨大な時間や資源が必要になってきてしまいました。つまり,短期的な真実発見が困難になってしまい,「それは真実ではない(かもしれない)」という抗弁を簡単に許すようになってきているように見えるのです。

 

そうすると,「納得」や「説得(力)」というのは,もはや論理や事実ではなし得ないという,最近の実感に重なってきます。そこにあるのは,当事者の世界観との合致や,趣味嗜好,好悪や価値観といった,非常に主観的で不安定かつ多様なものに多元的に依拠しているということです。論理や事実を真に納得や説得力の根拠としている人のみが論理や事実のみを大事にするのであり,それよりも自らの世界観や価値観,好悪のようなものを重視している人にとってはなお,事実も論理もクリティカルなものとしては役立たず,ただ世間での無視できない数の人たちが「事実(ソース)」などを要求しているという部分を真似て,都合よく(つまみ食い的に)それらを利用しているにすぎないというのが実態であるように見えます。


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