民事裁判にせよ,刑事裁判にせよ,敗訴当事者には,控訴権が認められています。それは,単に日本が三審制を採っているからという単純なものではありません。世界には,(特定の裁判所だけであれ)一審制や二審制を採用するところもあります。それにもかかわらず,日本は三審制を採用しました。その判断は極めて「政治的」でもあります。しかし,同時に,「法的」でもあるのです。つまり,裁判所が人のなす営みであり,かつそれが極めて厳粛な形での公権力の行使であるという点です。そこでは,常に違法な(つまり権利侵害的な)公権力の行使が行われる可能性が残されているのです。公法にとってこれを予防・防止するのは生命線です。その意味でも,上訴審が残されているのは,重要なのです。

 

しかし,裁判も,社会全体から見れば,1ピースに過ぎません。いつも裁判は人々の感情評価の対象になりかねないのです。

先日,性被害を受けた女性が起こした民事訴訟において一審判決が下され,それに対して控訴の意思を示した被告男性に対して,さも控訴自体が不当であるかのような反応がみられました。これはもはや裁判を魔女裁判に変えてしまう契機ですらあります。

過去には,「隣人訴訟」と呼ばれたものがあります。これは,原告の子供を隣人である被告に預けていた際,被告が目を離したすきに被告の子と原告の子が近くのため池に遊びに出てしまい,当該ため池に原告の子が転落し,死亡したという事案で,子を預けていた原告は,被告の監督不行き届きを過失として民事裁判を立てたというものです。この事件で重要なのは,裁判それよりも,これが新聞で取り上げられ,まず原告に対して「子を預けておきながら,善意で預かったご近所を訴えるとは何事か」という趣旨を含む多数の誹謗中傷が押し寄せ,原告は訴えを取り下げる事態になりました。それだけでなく,被告が控訴の意思を見せたため,「人の子を殺しておきながら控訴するとは何事か」という趣旨を含む多数の誹謗中傷が押し寄せたのです(これについては,事態を重く受け止めた法務省から,憲法32条の裁判を受ける権利を侵害している恐れがあると声明が出されました)。

 

この死亡事故が起きたのが1977年,一審判決が出たのが1983年です。我々の社会は,35年以上経ってもなお,「裁判」を,否「法」を何かその時の場当たり的な(ましてや当事者でない者の)感情で左右することに対する嫌悪感をもつには至っていないようです。


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