直近の(内容のある)更新が7月17日で止まり,約1か月ぶりの更新になってしまいました。何とか生きています。

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自らの立場をやたらと「(政治的または思想的に)中立」だとしようとする人がいます。

以前に私自身でも「『中立』とは何か」という小稿を起こし,「中立」の意義について考えてみました。そこでは,批判的検討との関係でその意味内容に迫ろうと考えました。今回はそれとは毛色を変え,なぜ「自らは中立だ」という立場を採りたがろうとするのかについての,若干の検討をしてみたいと思います。

 

中立だと自負ないし自称する人たちは,イコールで「偏っているといわれたくない」と考えているのではないかと思われます。つまり,「偏り(偏向)」というものが極めてネガティブなラベルであることを示しています。

では,なぜ,「偏り(偏向)」がネガティブなラベルであるのか。その理由は判然としません。「偏り」が,時には,その人の頑迷さや狭矮〔キョウワイ〕さを示しているということはあるかもしれません。つまり,「他人の意見を聞き入れない」ものだと。しかし,この点も詰めて考えてみるとやや物足りなさを感じます。既に前掲拙稿で示したように,一定の結論を取ることと「中立」であることは無関係です。そして同時に「他人の意見を聞き入れない」という言葉の背後には,「自分のいうことを(ほぼ全部)承認して欲しい」という,ある種の独善すら含まれていることが少なくありません。そうであるが故に,「自分に同調しない」から「頑迷」であり,故に「偏っている」という評価を下しているのではないかと疑われるのです。

 

この理屈でいえば,およそ意見を異にする「他人」は,「偏った」存在になってしまいます。同時に,我々はいつも何らかの「態度決定」を迫られています。お昼ご飯に牛丼にするか,うどんにするかすら「態度決定」であることには違いありません(拙稿「比較衡量の難しさ」も参照)。もし,何らかの「態度決定」をすること自体が「偏向」なのであれば,我々はいつもすべてを(暫定的な決定すらできず)留保しなければならなくなります。

こう考えてくると「偏っている」という非難は,れっきとした証拠に基づいて判断していないことへの非難か,実質的に見て「お前の意見が気に食わない」以上の意味を持つことがないという,両極端などちらかになるということが言えます。そして,同時に「私は中立だ」という人は,自分の立ち位置を非常に主観的に捉えている蓋然性があるとも言えます。真に(政治的・思想的に)中立であれば,口をつぐむべきであり,少なくともチープな「どっちもどっち」論を展開することはなし得ません(拙稿「『どっちもどっち』論の落とし穴」参照)。裏返せば,双方への十分な批判的検討なくなされる「どっちもどっち」論は,実はその人が特定の立場を(実はかなり強固に)支持していることすら示します。

 

ただ,気をつけなければならない点があります。それは,放送法4条1項2~4号を根拠にされる「中立」性です。これはあくまで,「放送」という,それこそ多種多様な見解を持つ人々に「視覚的に」広く届けられる性質に着目したものであり,いわば,放送が特定の政治集団(当然,政権与党も含みます)や利益集団の「手放しの味方」や「手放しの敵対」をすることを否定するものです(その意味で,本条項では3号こその事実をねじ負けないことこそが命脈です)。したがって,一個人に放送法を援用する形で「中立」性を求めるのは,そもそもに誤解があります(新聞や雑誌などの紙媒体のメディアですら放送法の適用は受け得ません)。

 

もちろん,自らの立場を常に反省し,独善に陥っていないかの不断の検証は,称賛されるべきです。その意味で「中立」たろうとすることは,一定の価値を有しています。しかし,それは,自省の下でなされるものであり,少なくとも「中立」を自負・自称するようなことはできません。逆に言えば,「中立」を自負・自称することの方が,自らの頑迷さ=偏りを糊塗しており,態度として不誠実だとすら言えそうです。


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