所有権概念について | とある法学徒の社会探訪

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このブログでは、一法学徒から見た社会の様子をつらつらと書きつづっていきたいと思います。
それと同時に日本に足りない「法教育」の足しにでもなれば…
※本ブログの趣旨等について「はじめまして」(カテゴリー:ブログ・2012年1月17日付)をご覧ください


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被害に遭われたすべての方に衷心よりお見舞い申し上げます。

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民法(民事実体法)の3原則と呼ばれるものがあります。すなわち,権利能力の平等,私的自治,そして所有権の絶対です。もっとも,「所有権の絶対」については,憲法29条3項が「私有財産は,正当な保障の下に,これを公共のために用ひることができる。」と定め,「絶対」などというような強力な権利でないことはもはや当然の前提となっています。

 

そもそも「所有権の絶対」という概念は,「物権法定主義」と呼ばれる原則と無関係ではありません。

物権法定主義とは,民法175条のいう「物権は,この法律その他の法律に定めるもののほか,総説することができない。」という原則ですが,これは「慣習物権の否定」,さらには「公示できない物権の否定」を導きます。それは,物権に強力な権利性があるというところがミソとなっています。つまり,「対世的権利」である,簡単に言えば「誰に対しても主張し得る」という性質です。

これらは要は「簡単に取り上げられない」ということを法が保障しているのだと説明されます。それは,封建時代,土地などは「領主」によって「下賜」されるものであり,また領主の都合により「収奪」され得るものだったものを,個人の権利として保障しよう,つまり財産分野での「封建制度」の否定を意味していたのです(もっとも,日本においては,743年に墾田永年私財法が成立していることは特筆すべきでしょう。もっとも,班田収授法がその時には既に存在していたことにも注意が必要でしょう)。

 

所有権は,「物に対する,使用収益・利用処分の無欠の権利」として理解されてきました。つまり,どう使おうが,どう処分しようが,所有権者の自由(ここではむしろ「勝手」)である,と。

しかし,果たしてそうなのかというのは問い直す余地がありそうです。というのも,不動産を典型として,財産の対象となる物は,実は「有限」です。だからこそ,何としても公共のために必要な場合には収用が可能なのです(無限にあるのなら,収用せずに,余っているものを使えばいいのです)。そうすると,「どう使おうが,どう処分しようが所有権者の勝手」とは言いにくくなってきます。つまり,その物の価値を大きく毀損するような利用処分の方法は採れないという内在的制約を持っているのだという理解も可能になるのです(なお,物の処分は,日常用語では「捨てる」ことを意味するでしょうが,法学では通常,「所有権の放棄」を意味しており,「捨てる」だけではなく,誰かに譲り渡す場合も「処分」に当てはまります)。でなければ,現世に存在する経済的価値が一個人の勝手によって減殺されてしまうという社会的損失を生むのです。

 

しかし,このような「社会的制約」を推し進めると,今度は社会(ないし世間)という怪物がどこからともなくやって来ます。それを押し止めるのが「財産権の保障」,その標語としての「所有権の絶対」だとも考え得るのかもしれません。


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