私自身は,(法学の分野としても)「表現」についての「専門家」ではありません。しかし,最近は表現にまつわることを多く書いているような気がします。それは,とりわけネット上で,ヘイトスピーチをはじめとする,(私に言わせれば)よく考えられていない「表現」が多すぎ,それに対して「もっとよく考えてみて」というささやかなメッセージを送らざるを得ないと思われるからなのですが…(拙稿「委縮すべき表現」参照)。

 

ヘイトスピーチ解消推進法制定の時にも「どこからがヘイトなのか分からない」という議論はありました。この議論は別にヘイトに始まったわけではなく,最高裁で取り上げられたとも言えるものではわいせつ表現があります(昭和58年3月8日最高裁判決参照。とりわけ伊藤補足意見を参照)。ここではいわゆるハードコアポルノ論と呼ばれるものが議論され,規制のど真ん中のものを「ハードコア」としています。それを処罰するに際しては,あまり疑念が向けられないかのような感もありそうです。

 

そしてそれが受け入れられるとき,「ハードコアなのが悪いのはわかるけれど,その周縁が不明瞭だ」というのは,これまたよくある議論です。そして,この議論は「だからハードコアの規制は(も)不当だ」と用いられることが少なくありません。このような流れで用いられたのが,広島市暴走族追放条例事件と呼ばれる平成19年9月18日最高裁判決でした。この事件では,広島市の条例で「公共の場所において,当該場所の所有者又は管理者の承諾又は許可を得ないで,公衆に不安又は恐怖を覚えさせるようない集又は集
会を行うこと」を禁じ,具体的には,「市の管理する公共の場所において,特異な服装をし,顔面の全部若しくは一部を覆い隠し,円陣を組み,又は旗を立てる等威勢を示すことにより行われたとき
は,……当該行為者に対し,当該行為の中止又は当該場所からの退去を命ずることができる」とされ,この退去命令に反したら処罰されるとされていたのです。これで起訴された暴走族であった被告人側が,この条例は,暴走族の集会を処罰しようとしたものかもしれないが,条例の文言が過度に広すぎ,処罰範囲が明確ではないと上告したのでした。

これに対して最高裁は「このような本条例の全体から読み取ることができる趣旨,さらには本条例施行規則の規定等を総合すれば,本条例が規制の対象としている『暴走族』は,…暴走行為を目的として結成された集団である本来的な意味における暴走族の外には,服装,旗,言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られる」としたのでした(なお,行政法学者であった藤田宙靖判事の反対意見が付いています)。

そうすると,表現規制のハードコアの部分の害悪さにコンセンサスが取れている場合には,その規制を否定することは実際上困難になっています。

 

そもそも,規制というのは,ある程度一般性をもたざるを得ないため,その規定もある程度の抽象さ・曖昧さを免れません。ただ,その規定を見て,ある程度の共通了解を呼び起こすことができるかどうかこそが問題であり,それがあまりに区々になるような場合には,過度に広範ゆえに無効ということが言えるかもしれません。しかし,その「イメージの呼び起こし」すら,法の「文脈(コンテクスト)」からは逃れられず,スポット的にしか物事を見られないような人には,「規制」を理解することができないという事態を容易に想定できます。そうすると,外縁の不明瞭性というのは,文脈を理解することのできる力の有無や程度によっても左右されることにならざるを得ません。


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