そろそろ受験シーズンも本格化し、お正月もそれどころではなかったという人も多いかもしれません。
以前、「法的思考に学ぶ」という稿を起こし、その中でIRACというものをご紹介しました(詳しくは前掲拙稿をご覧ください)。方法論上のものについては、この前掲拙稿と、拙稿「読書感想文実践講座」をご覧いただければいいと思うのですが、ここでは「小論文試験」で試験者側が何の力を計ろうとしているのかというお話をしたいと思います。

一番見たいとされているのは、「日本語が書ける」ということです。また、資料が添付されている場合には、その資料を正しく読み取ることができるかという能力も試されています。
そもそも、小論文に唯一無二の正解はないのです。それにも拘らず、それを点数化しないといけないとなると、結局は「(資料をちゃんと読んで)正しい日本語が書けているか」ということに基準を置かざるを得ません。ここでいう「正しい日本語」というのは、「論理的な日本語」と言い換えてもいいかもしれません。接続詞の用法は当然、個々の単語も適切に使えているかも問われているわけです(これは要するに、その言葉の意味をちゃんと理解しているかに結びつきます)。

良質な文章を大量に読むことが、正しい日本語を書くために一人でできる最も効果的な手段です。法律学者であれば、例えば、小野清一郎、団藤重光、平野龍一、三ケ月章、新堂幸司など諸先生方が名文家として知られており、私は小野先生の文章は本当に名文だなぁと、最近改めて感じています(なお、団藤先生や三ケ月先生はエッセイ集を出しており、もしかしたら学校の図書室や近くの図書館などに収められているかもしれません)。
もし可能であれば、友達や先生に読んでもらって、添削をしてもらうのが効果的です。自分で書いたものは、自分ではわかっているつもりでも、意外とわかってもらえないということがわかります(私も結構、これでがっくりきてしまいます…が、そこは謙虚に受けましょう(自戒を込めて))。それが叶わないときは、書いたものを一晩寝かせて、自ら音読して違和感がないかをチェックするというのも1つの手段です(これは、学部時代からの憲法の恩師に、ゼミ後の懇親会で教えていただいたものです)。

現在、大学の様々なところから、学生の日本語能力の低下が嘆かれています。それは「言葉は変遷するものだ」とかいうようなものではおよそなく、論理的思考ができないとか、論理的に言語表現できないという趣旨のものです。昔、国家試験の考査委員の先生から「たまに国家試験の答案で箇条書きみたいな答案を見ることがある。あんなのは問答無用でダメ。もちろん、試験である以上、中身も読むけど、そういうのはやっぱり中身もダメ」と聞かされたことを思い出します。
よく「試験とは試験者と受験者の手紙みたいなものだ」と言われます。小論文の試験というのは、この最たるものだと思って差し支えないでしょう。