「遊び」という言葉について

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私が小さい頃は「遊ぶ」というと友達と野球やサッカーをしたり、雑木林で昆虫採集をしたり、あるいは家でゲーム(いわゆるテレビゲームやボードゲーム等いろいろ)をしたり、それなりに具体的に「これをする!」というものがあったのですが、年齢を重ね、大人になると「遊ぼうよ」という話になっても、そんなに「これ!」というものはなくなったように思います。例えば、街中を歩いたり、あるいは観光をしたりというのも「遊び」という言葉の中に含まれて、その実態はほとんど「何もしていない」こともあるのです。
そこでふと思います。「遊ぶってなんだ?」

平安時代であれば、「遊び」という単語は「詩歌を吟じたり、管弦楽器を弾いたりすること」をも指していました。つまり、平安貴族にとっての「遊び」とは短歌や漢詩を作って詠んだり、音楽に興じることだったわけです。また、「物見遊山」という言葉のある通り、観光も「遊び」の典型だといえるのかもしれません。
また、視点を変えると、例えば「ブレーキの遊び部分」という言葉があり、これはブレーキが効き始めるまでの余裕のある範囲・部分をいいます。自転車や車でも急ブレーキにならないように、ブレーキのかからない範囲があるのです。

これらを通覧した時、「遊び」という言葉にはある共通点を見出すことができます。それは「余裕」です。平安貴族が詩歌管弦に興じられていたというのは、朝廷からのお呼び出しなどの仕事がない、つまり時間的に余裕のある間です。また、観光も、そのための時間が必要で、それは日常の義務的な時間の費消とは別です。余裕を感じられるというのは、いわば仕事などの義務的な時間の使い方(いわば日課)以外の部分においてです。ブレーキの遊び部分に関してはもはやいうまでもありません。
そうすると、大人になっても、「遊び」は存在します。子供のころは、学校での授業や宿題といったもの、あるいは習い事以外での時間の使い方はなんであれ「遊び」であり得たわけで、大人であれ「仕事」から離れれば、それは「遊び」の時間だということになりそうです。その時間をどう使うかというのはあまり本質的ではないのかもしれません。ただ、昼寝なんかを「遊び」というのには若干の躊躇がありますが、本質論から言えばそうなのかもしれません。

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