少し前、改憲論議に付随して、「芦部憲法くらいは読んだんだろ?」という形で、改憲をもくろむ政治家を批判していた方がいました。それに対して、一部からは「憲法は学者のものじゃない」とか、「芦部説は通説ではない」というような反論がなされました。しかし、私からすれば、この反論は不適切だと思われます。本稿では改めてこのことについて考えるとともに、改憲論と憲法学説の関係を考えてみたいと思います。

芦部憲法とは芦部信喜『憲法』(岩波書店)の通称です。現在は第5版(2011)となり、第3版からは現明治大学(元東京大学)の高橋和之教授が補訂を行っています。本書は出版時から、司法試験受験生をはじめ、多くの学部の憲法の教科書として利用されてきたのみならず、今や憲法学説の最低限の知識として理解されています。言い換えれば、芦部説すら知らないと憲法を勉強したとは言えないという状況なのです。確かに、芦部説の全てが必ずしも通説と呼ばれるものではない上、誤りだと思われる部分もあります。しかし、それであっても、芦部説がスタートになっているという事実は厳然として存在しています。その意味で、上に掲げた「芦部説は通説ではない」というのは、「芦部憲法すら読んでいない」ことの正当化にはならないのです。通説だから読むべきだとか、少数説だから無視していいというのは、受験生ならまだしも(それでも問題だとは思いますが)、憲法理論を理解する姿勢としては明らかに誤りです。

さらに「憲法は学者のものではない」という反論ですが、これもある種の誤解に陥っています。確かに文字通りの意味ではその通りです。しかし、憲法が法の一形式として存在している以上、例えば裁判になったり疑義が生じれば、感情ではなく、理論に基づいて検討されなければなりません。そしてその憲法理論の構築は裁判所や政府をはじめとする憲法実務と憲法学説による協同作業なのです。裁判所や政府が個別具体的な事件等を基礎に憲法理論を展開し、また学説も自ら憲法理論を構築しながら、同時に裁判所等の出した理論を分析・批判等を続け、よりよい憲法理論を模索しているのです。
さらに、例えば民法や刑法の改正においては民法学者や刑法学者が立案に参加しています。だからといって民法や刑法が国民のものではなく学者のものだなどという人はいないでしょう。それに対してなぜ憲法だけがそのような「学者のものではない」などという批判を浴びるのか理解に苦しみます。憲法が重要な法だからでしょうか?しかし、憲法よりも個別の法令の方が明らかに国民の生活に直結します。その意味では実生活においては憲法なんかより個別の法令の方がずっと重要です。会社で働く人にとって実際に重要なのは憲法ではなくむしろ(実質的意義における)商法や労働法などのはずで、学校で勉強する学生には教育諸法令の方がよっぽど重要なはずです。そう考えると、重要な法形式である憲法だからこそ、より積極的に、慎重な判断をするために憲法学者の見識に触れるべきだとすら言えそうなのです。

ただ、こうは言っても、私は「芦部憲法を読め」とは言いません。上記の理解からすれば、「芦部憲法」に限る必要はないのです。憲法の教科書・概説書というのは今やたくさん存在しています。例えば私の座右の書の1冊である長谷部恭男『憲法』(新世社)や、佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂)、渋谷秀樹『憲法』(有斐閣)、渋谷・赤坂『憲法1・2』(有斐閣)、野中・中村・高橋・高見『憲法Ⅰ・Ⅱ』(有斐閣)、大石眞『憲法講義Ⅰ・Ⅱ』(有斐閣)、樋口陽一『憲法』(創文社)、辻村みよ子『憲法』(日本評論社)、浦部法穂『全訂憲法学教室』(日本評論社)、松井茂記『日本国憲法』(有斐閣)…などキリがありません。これらの定評のある概説書の1つくらいは読むべきだと思うのです。その中で「芦部憲法」は400ページ弱の比較的薄い概説書である上に、上記のように、ほとんどの学部の憲法の講義の教科書ないし参考書として挙げられているであろうことからすれば、どれがいいか悩むくらいなら芦部憲法を読めばいいと思うのです。大事なことは、どこの馬の骨ともわからないようなジャーナリスト(もどき)の書いた憲法の本は(少なくとも初めには)読むべきではないと思われます。改憲論議が高まりつつある昨今、この手の本は結論先行的で、イデオロギーにまみれているからです。まさに芦部先生が初版のはしがきで書いておられるように、「短絡的にゴールを急ぐと、明快ではあっても、浅薄な立論に終わるおそれが生じる」のです。そして、多くのその手の本はまさにこの恐れを実現してしまっているように思われます。
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