最近やたらと「誤認逮捕」という言葉が世間を賑わせています。しかし、法律学の世界に身を置いていると、ここには一種の文化的な側面の方が強く出ているように見えます。本稿ではこれを機会に拙稿「刑事手続きの基礎Ⅰ 」を補いたいと思います。


刑事訴訟法197条1項は「捜査については、その目的を達するため必要な取調をすることができる。但し、強制の処分は、この法律に特別の定のある場合でなければ、これをすることができない。」と規定しています(ここでの「取調」は捜査方法一般を指します。事情聴取に限られません。)。この但書きの規定がいわゆる「強制処分(強制捜査)法定主義」というものです。そして、この但書きが存在することにより、任意処分(任意捜査)が原則であり、かつ特別の法律上の規定はいらない(裏返せば、刑訴法197条1項本文が根拠規定となる)という風に理解されています。


この条文については、極めて重要な判例があります。これは(法律学習を始めた学生は必携とされている)「判例百選」(有斐閣)シリーズの「刑事訴訟法判例百選」〔第9版〕の1番事件とされ、他の刑訴法の判例集(ただし最高裁判所刑事判例集(いわゆる刑集)等の公刊判例集は除く)にもたいてい1番初めに乗っているものです。それが昭和51年3月16日の最高裁判所決定です。

事案は次のようなものです。すなわち、飲酒運転で物損事故を起こした被告人が警察署に任意同行され、呼気検査を求められたのですが、それを言を左右にし拒否していました。そして、「マッチを取ってくる」と言って小走りに取調室から出ようとしたため、警察官が「風船(呼気検査のこと)をやってからでいいではないか」といって被告人の左手首を両手でつかんだところ、被告人はそれを振り払い、その警察官の左肩や襟首を右手でつかんで左肩腕章を引きちぎり、警察官の顔面を1回殴打したため、公務執行妨害罪で現行犯逮捕されたというものです。

最高裁判所はこのような事案下で極めて重要な判示をしています。つまり

「(刑訴法197条1項但書きの)強制手段とは、有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠がなければ許容することが相当でない手段を意味する」。「右の程度に至らない有形力の行使は、任意捜査においても許容される場合があるといわなければならない。ただ、強制手段に当たらない有形力の行使であっても、何らかの法益を侵害し、又は侵害する恐れがあるのであるから状況のいかんを問わずに常に許容されるものと解するのは相当ではなく、必要性、緊急性などをも考慮したうえ、具体的状況の下で相当と認められる限度において許容されるものと解すべきである。」と。

そして、結局、この手をつかんだ警察官の行為は強制処分ではなく、任意捜査としても相当な範囲であり、適法であるとしたのです。


この51年決定は強制処分の定義と任意捜査の限界という極めて重要な2つの判断をしているのです。この判例からわかることは、①法律に定められていなくとも、「強制処分」に当たり得るものがあるということ、②任意処分(中の有形力の行使)は比例原則が妥当するということ、さらには③「任意」とは「(対象者の)自由な意思に基づく」ではなく「意思の制圧を伴う、強制(処分)ではない」という程度の意味しかないということ(つまり、「完全な自由意思」である必要はなく、対象者が仕方なく応じたとかでも、意思の制圧がない限り、「任意で」ということになるということ)です。なお、通信傍受法成立前は通信傍受は「法律の定めのない強制処分」とされ、一律に違法だと考えられていました。


逮捕に関しては、これが強制処分であることは疑われていません。そして、実際に刑訴法199条以下が通常逮捕について、210条と211条が緊急逮捕について、212条以下が現行犯逮捕について定めています。現行犯逮捕については憲法33条により逮捕状という令状は必要とされていませんが、通常逮捕は逮捕前に、緊急逮捕は逮捕後に逮捕状の発付(発布でも発行でもありません)が必要です。このように、法律に定めのある強制処分には裁判官の審査した令状が必要だという考えを「令状主義」と呼んでおり、憲法上の要請だと理解されています。その実質においては51年決定が示したように、強制処分が「意思を制圧し、重要な権利を制約して行う処分」であるため、裁判官の司法審査を得ることで、その権利制約を合理的な範囲にとどめようとする思想があります。


通常逮捕について定めた199条1項は「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは」としています。そのため、通常逮捕されたからと言って、その者が犯人だとは限りません。単に「疑いが(ある程度)ある」のみです。もちろん、「相当な理由」が必要ですから、刑事訴訟規則という最高裁判所規則の143条は「逮捕状を請求するには、逮捕の理由(括弧略)及び逮捕の必要があることを認めるべき資料を提供しなければならない。」と定めており、この資料を「疎明資料」と呼んでいます。つまり、疎明資料が適法に収集されたものである限り、事後的に被逮捕者が釈放、不起訴(起訴猶予を含む)、無罪判決を得た等しても、逮捕行為自体が違法になることはありません。これが法のつくりなのです。だとすれば、誤認逮捕というのは、法律上は「逮捕状に被逮捕者として掲げられていない者を逮捕した場合」だと理解すべきことになるのです。


しかし、世間で「誤認逮捕」が言われるのは、従来の捜査実務の判断の厳格さが一種の「誤解」を招いた面があるのだろうと思われます。つまり、逮捕に至るまでに非常に慎重な捜査をし、有罪判決がとれる見込みがかなりあるような場合に至ってはじめて逮捕(さらには勾留)に及んでいるということです。これは、捜査機関側からすると、身柄拘束に伴う法益制約(とりわけ身体の自由)というものを大事にしているからに他ならないのです。しかし、それが故に、「逮捕されれば有罪になる。だから逮捕されたやつがほぼ間違いなく犯人だ。」と市民に理解され、そこから社会的制裁を加えようとしていると思われるのです。しかし、逮捕は(特定の事件について特定の者を起訴すべきか否かを決し、起訴するとしたら公判で検察官(及び時には弁護人)が立証活動をするための証拠収集手段である捜査手段の1つであり、その目的はあくまで「被疑者の逃亡及び罪証隠滅を防止し、他の捜査活動の円滑化を図る」というものです。したがって、極端なことをいえば、被疑者が確実に逃亡・罪証隠滅をしないのであれば例え殺人犯であれ逮捕できないのです(逮捕の必要性に欠けるといわれます)。逮捕は決して刑罰や制裁ではないのです。しかし、それが社会に理解されていないばかりか、報道機関(厳密にはニュース等のコメンテーター等)ですらそういう誤解に陥っているのではないかということです。

逮捕をしなければ「逮捕しろ」といわれ、法律上の手続きに即して逮捕してもその者が真犯人でないことが判明すればバッシングされる。これは明らかに法律の意図を無視するものです。


最近の「誤認逮捕」という話題は、いかに正しい法律上の理解が必要かということを非常に痛感させてくれる好例だと思われます。



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