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Silent Separation

作者:顧漫

中国小説「何以笙箫默」(マイ・サンシャイン)の
日本語解釈文です。
ドラマとは若干異なっています。

Part.9 第5章 回想


その後、数日続けてモーションは屋外ロケに出かけたため、取材の件にはノータッチだったし、すでにゴジイさんと配置換えの話を済ませていたから、もう関わりないものと認識していた。

この日、比較的順調に撮影が終了し、モーションは早々に雑誌社に帰って来た。トイレで手を洗っていると、アーメイと女性同僚たちのゴシップに引きずり込まれた。

「モーション、あのエリートさんの特集はお蔵入りになるかも」

「どうして?」

「タオ・イージンったら、本人との面会すら叶わずに、ことごとく拒否されてるんだって。超ウケる。最初に豪勢な啖呵を切ったくせに、今じゃ恥さらしもいいとこよね」 アーメイの口調はどことなく他人の不幸を喜んでいるように聞こえる。

「そうよ。聞いた話だと、あの子が事務所に何度電話をかけても、電話口に出るのはアシスタントらしい。ホー先生の病気にかこつけられてんの」

「病気?」 モーションは出て行きかけていたが、その言葉を聞いて足が止まる。 「その話、本当?」

「仮病に決まってる。だって私、昨日テレビで見たもん」

こういう類いの番組は事前に収録されるのが一般的だ。イーチェン、本当に病気なんだろうか?

オフィスで座っていてもやはり不安が拭えないが、そんな自分自身に失笑する。チャオ・モーション、今のあなたに何の権利があって、彼を気にかけてるの?もうあなたの出番はないのよ。

「モーション君、電話!」 ゴジイさんが電話を彼女に転送する。 「朝にも2回掛けてきたみたいだよ」

「はい、出ます」 モーションは受話器を取る。 「もしもし、こんにちは」

「チャオ・モーションかい?」 電話越しに男の穏やかな声が伝ってくる。 「シアン・ホンだ」

シアン・ホンと待ち合わせた場所は町の東にある「静寂な世界」という名の喫茶店。

型通りの挨拶を交わした後、シアン・ホンが言う。 「君を見つけるのは簡単じゃなかったけど、幸いなことにイーチェンが一度、君は出版社でカメラマンをやってると話したことがあったもんでね」

モーションが目を見張って見返す様子を目にして、シアン・ホンはうっすら笑う。 「なんだその顔は。イーチェンが君の話題に触れたことは妙か?」 確かにイーチェンが何か言うなどありえない。しかし、うちにはゴシップ好きなおじさん、ユエンさんがいるから、重箱の隅までほじくり返せる。

ウエイターがやって来てメニューを手渡す。

ドリンクを注文して、シアン・ホンは本題に入る。 「おそらく俺が訪ねて来たことに引っかかってるんだろうな」

確かにとても奇怪だ。目の前にいる端整で上品な男をモーションは知っているが、べつに付き合いはない。長きにわたり彼に対する印象は「イーチェンのルームメートの1人」でしかなく、名前すらよく知らなかった。かつて彼のルームメイトたちに連れられて火鍋を食べに行った時、初めてその名を知った。その時はパートナー同伴が参加条件だったのだが、結果シアン・ホンだけが置いてけぼりを食らった上、嫌みを言う人すらいた。 「シアン・ホンよ、ホー・イーチェンでさえ、ちゃんと切り抜けたのに、お前はどこまで彼女いない歴を延ばす気だ?」

シアン・ホンため息をついて言う。 「お前はお気楽に言うがな、どこに行けば勇敢で根性のすわったチャオ・モーションが見つかって、うまい具合にいくのか教えてくれよ?」 言葉の端々に当てこすりがうかがえる。

あろうことかイーチェンまで揚げ足を取って、頭が痛そうに言う。 「お前が欲しいっていう話なら、やってもいいんだぞ。こっちは心静かに過ごせて好都合だ」

その時、傍らにいる彼女には何もやましい所はなく、だんまりを決め込んでいたのに流れ弾に当たった。この法学部の連中ときたら、誰かれの区別なく辛辣なことを言う。

しかし、それ以降シアン・ホンをしっかり頭に叩き込んだ。

モーションが少しぼんやりするのを見て、シアン・ホンはいきなり口を開く。 「実を言うと、俺はずっと腑に落ちなかった。大学の時、どうして君がイーチェンの彼女になれたのか。あの頃、イーチェンを好きな女子がたくさんいたことは知ってるよな。君より美人で賢くて優秀な学生はいくらでもいたのにさ」

モーションは彼がなぜ突然過去の事を蒸し返すのかわからなくて、口をつぐんでしゃべらず、ただ彼の話に耳を傾ける。

彼は昔に思いを馳せる素振りを見せる。 「あの頃、俺たち寮生の娯楽の1つは最終的にイーチェンをモノにできるのはどの女子かって賭けることだった。ある夜、消灯後にいつもの如く騒いだ末に賭けを始めたことがあってね。うちの学部の花に賭ける奴がいれば、イーチェンと一緒にディベート大会に参加した才媛に賭ける奴もいたな。俺が賭けたのは外国語学部の女子だったと思う」

彼は微かに笑い、若くておチャラけていた頃を思い出す。 「イーチェンは俺たちのこういう行為に対して、それまでずっと‘三不’政策をとってきた。つまり、賛成せず、取り合わず、参加せず。騒ぎ立てる俺たちを尻目に、読書したり寝たりしてた。ところがあの夜、俺たちが順々に賭けていった後、突然あいつが言ったんだ――‘僕はチャオ・モーションに賭ける’」 シアン・ホンは彼女を見る。 「その時、初めて君の名前を耳にした」

どおりでその後、誰かが彼のカノジョは私だと言い広めたわけね。これまでイーチェンがそれを話題にしたことはなかった。

「俺たちが君にどれだけ興味をもったか想像がつくだろ。その後、君に会って尚のこと驚いたよ。イーチェンはずっとどこか年齢のわりに落ち着いて冷静だったから、奴の彼女も大人びた物分かりのいい子に違いないとイメージしてたんだ。ところが、君は」 シアン・ホンは意味深に言う。 「完ぺきに俺たちの予想を裏切った」

「正直言って俺は最初、君たちがうまくいくとは決して思ってなかった。だけど、イーチェンはだんだんごく当たり前な20歳の大学生らしくなっていって、しばしば君のせいで怒りを露にしたもんだ。かと思えば、ある時はご機嫌で俺たちに言われるがまま、寮生全員の洋服を洗濯して回ったこともあったな。そう、あいつの誕生日だ……」

そんな事がイーチェンの身に起こったの?ちょっとピンとこない。

彼の誕生日のその日、彼女は街じゅう駆けずり回っても、満足のいく誕生日プレゼントが買えなかった。その結果、夜10時過ぎにくたくたに疲れて彼の寮の階下に姿を見せ、手ぶらで‘誕生日おめでとう’と言うことしかできなかった。

イーチェンは険しい顔をして彼女に尋ねる。 「今日はどこへ行ってた?プレゼントは?」

当然ながら彼女は出せない。イーチェンはしばらくギロリと彼女を見やり、最後に根負けして言う。 「もういい!目を閉じて」

彼女は目を閉じる。すると、彼が頭を下げて彼女にキスをした。それが2人のファーストキスだった。

その時、目を開けた後、ポカンとして彼に言った言葉をいまだに覚えている。 「イーチェン、今日は私の誕生日じゃないのよ」

コーヒーがカップの中で少し揺れ、「ガチャン」と音を立ててテーブルに戻す。

この人はなぜ過去の話をこんなに長々としたがるのだろう?‘いい加減にして’と言ってはいけないだろうか?

「その話を私に聞かせにいらしたんですか?」 彼女は彼をさえぎる。

シアン・ホンは話を止め、何とも言いようのない表情で長い時間彼女を見てから、ゆっくり頭を振って言う。 「チャオ・モーション、君は本当に残酷だ」

そう、誰に対しても残酷な女。

シアン・ホンはもう余計なことは言わず、紙とペンを取り出すと2行ほど書き留めて彼女に手渡した。モーションは受け取るが、そこには病院名と病棟番号が書かれている。

これは何?

「あんな働き方をしてたら、早死にしてもちっとも不思議じゃない。ましてや‘ごく僅か’に胃から出血するのは当然の結果だ」 シアン・ホンのずっと和やかだった声が素っ気なくなる。 「病院の住所を一応伝えておくが、行く行かないは君に任せる。君たちの間に何が起こったのか、俺は知らないが、チャオ・モーション!」 彼の口調は厳しい非難をたっぷり含んでいる。 「身勝手にも程があるぞ!」

彼は話し終えると会計して立ち去る。モーションは坐ったまま、この一報に体がすくんだ。メモは手でぎゅっと握られて丸まっている。長くない爪が肉に食い込んで激痛が走っているのに、力を緩めることまで頭が回らなかった。胃の出血、病院、イーチェン……私のせい?あろうことか私のせいなの?

コーヒーはすでに冷めきっていた。モーションは喫茶店のドアを開けるが、外ではいつ降り始めたのか雨が降っている。こんな時にどうして雨が降るのよ?その中でもこの雨はしとしと切れ間がない。

思いのほか簡単にタクシーはつかまったが、運転手が過剰なほど手厚くもてなし、目的地を聞いた後、絶えず質問し始める。

「お客さん、お友達が病気なんですか?」

「お客さんは学生さん、それともOLさんかな?」

「お客さん……」

「お客さん……」

モーションは 「ええ」 とか 「ああ」とだけ答え、目は窓の外を見ている。運転手の言葉は一語一句耳に届いていたが、一つとして耳に入っていなかった。外の風景が一様に目の前をさっと通過して行くが、何を見たのかわからない。途中、意外にも赤信号がなかったため、かなり早く病院に到着し、労せずしてイーチェンの病棟を見つけた。しかし、ドアの前に立ったものの、その手はとてつもなく重たくて、どうやっても持ち上げてノックすることができない。

ならば、帰るべき?しかし、この足もとてつもなく重たくて、どうやっても一歩も動かすことができない。

一瞬の出来事なのに、彼女は実際これがいつまでも続きそうな気がした。近づく勇気はないが、離れがたくもある。たとえ天変地異が起きても、永遠に彼の病室の前に立っているだろう。

しかし、永遠などあるはずもない!来ることになっているものはどっちみち来るだろうし、いかに避けようとしても避けられない。ドアは内側から引っ張られ、彼女は身をかわす間もなく、真っ向から顔を突き合わせてしまった。

イーメイ。

世の中にはどうしても出会わざるを得ない宿命の人がいるようで、しかも、それが一貫して同じ要因によるもの。例えばイーメイと私。

モーションは後になっていつも考えていた。この水のようにしなやかで詩のようにたおやかな女の子はあの時、愛してる男の子から自分が赤の他人に 「この子は僕の妹」 と紹介されるのを聞いて、どんな気分だったのだろうか?かつての私が悪びれる風もなく、彼女に 「私はお兄さんの彼女よ」 と自己紹介をしたばかりか、イーチェンも反論しなかった時、心にどれほどの苦痛を抱いたのだろうか?

今、彼女が私を見る。ふっと優しく微笑んだ時、その笑顔の中には隠された悲しみがどれほどあるのだろうか?

まあ!イーメイ、イーメイ、お久しぶり。

「モーション、やっとあなたに再会できた」

そうね、やっと。

「イーチェンの面会に?」 イーメイは尋ねる。 「たった今、寝たとこなの。時間があったら、一緒に彼の家まで行ってくれないかしら?日用品を取りに帰らなきゃならないのよ」

モーションはしばらくためらってから、うなずく。 「いいわ」

「彼……大丈夫なの?」

「大丈夫。お医者さんの話だと、しっかり休んで、食事に気をつけさえすればいいそうよ」

「よかった」 モーションは低い声で言う。

帰りがてらおしゃべりするも、近況をいくつか話す域を出ない。イーメイは言う。 「正直、もっと早くあなたに会いたかったんだけど、会社から突然異動を命じられたもんで、忙しくて頭がパンク寸前だったの。やっとのことでいっぺん戻って来たと思ったら、イーチェンが突然病気だっていうじゃない。ああ、曲がりなりにもキャリアウーマンの苦労を身に染みて感じたわ」

モーションは言う。 「あなたがそんなタフな女性になるとはこれっぽちも思ってなかった」

「あなたもじゃないの?あの頃、いつだって授業は二の次で、カメラ片手に無闇やたら撮りまくってたわよね。そんなあなたがプロのカメラマンだなんて」

モーションは笑い出す。 「今だって行き当たりばったりよ」

イーメイは思わず笑う。 「お宅の上司がその言葉を聞いたら、きっと怒り出すわよ……着いたわ、ここよ」 彼女は足を止めて、鍵を取り出しドアを開ける。モーションの足もしばし止まり、彼女について入る。

イーチェン宅は市の西側に位置する高級住宅地の12階にある。家はとても大きいが、いかにも殺風景で、余計なものは一切ない。コーヒーテーブルの上に開いたまま置かれた数冊の雑誌だけがこの家に住人がいることを示していた。

「ここ数年、みんな忙しくて、たまに顔を合わせる程度だったの」 イーメイは荷造りをしながら話し、冷蔵庫を開けると無念そうに頭を振る。 「やっぱり何もない。おそらく彼は世界で一番自分のことに気を配らない人でしょうね。この前来た時、インスタントラーメンを食べてる姿を見てほっとけなくて、彼をスーパーまで引っ張って行ったんだけど、まさかそこであなたと逢うとはね」

イーチェンったら、ずっとそうなんだ。モーションが知らないはずはない。常に食べる事より重要な事がある人なのよ。そういう人に有効な手は「あなたが食べないなら私も食べない」 と言うしかない。

「あっ、そうだ」 イーメイは突然言う。 「私、もうすぐ結婚するの。知ってる?フィアンセは私の直属の上司で、なかなかのシンデレラストーリーなんだから」

モーションは愕然と彼女を眺める。 「結婚するの?」

「ええ、そう遠くない時期に」 彼女は笑ってうなずき、ひとつ息を吐く。 「以前は世間知らずだったのね、だからこそ、あなたにあんなことを言えたんでしょうね。後になってやっとわかったの、勝負するだけ無駄なものがあると。イーチェンのことはとうの昔にあきらめたわ」

「どうして?」

「たぶん私は彼を待てないから。彼はほとんど望みがない状況に置かれても1年また1年と待ち続けられるけど、私には無理」 イーメイは少し黙りこくってから言う。 「3、4年くらい前、イーチェンが大きな訴訟に勝ってね、事務所の人たちと一緒に祝杯を挙げに行ったことがあったの。彼ってば酔いつぶれちゃって、私が連れて帰って来たんだけど、吐いてドロドロになった彼をきれいにしてあげてたら、いきなり私に抱きついて来て、繰り返し問いかけるのよ。 ‘君はどうして帰って来ない?僕はすべてを捨てる準備ができてるのに、どうして君は帰って来ようとしないんだ?’って」

イーメイは言葉を止めて苦笑する。 「これでもまだ私が吹っ切った説明に足りないって言うなら……一緒に来て」

彼女はモーションを引き連れて書斎へ行き、無作為に本を一冊抜き取ると、特定ページを開いて手渡す。 「たまたま見つけたの。この本だけじゃない……」

モーションは本のページに雑然と書き殴られた詩句を呆然と見る。そのぞんざいな筆跡から、書き手の当時の心情がどれほど苛立ち、落胆しているか想像できた。

「パン」と本を閉じる。イーメイがまだ何か話しているが、すでに彼女の耳に入っていなかった。

脳裏に少女の元気な笑い声がまるで遠い時空から伝ってきたような気がした。 「ホー・イーチェン、あなたはまだ私の名前を知らないでしょ?私はチャオ・モーションって言うの。チャオは名字の趙で、モーは沈黙の黙、ションは楽器の笙。私の名前の由来は故事にあってね、徐志摩の詩から来てる……」

静寂、それは別れの笙と簫、沈黙、それは今宵のケンブリッジ。

「小さい頃、イーチェンのお母さんが私を抱いてよく言ってたものよ、‘娘がいればよかったのに’って。すると、母が横から ‘お互いの子供を交換しましょうか’って答えるの。イーチェンは子供の頃から利口で物わかりがいいから、母のお気に入りだった。たぶん私より何倍もね」 病院へ戻る途中、イーメイは昔の事をいくつか話し始める。 「今でもおばさんの顔をはっきり覚えてるわ。残念なことに……」

「……ご両親はどうして亡くなったの?」

イーメイは頭を振って言う。 「私もよく知らないの。当時、私はたかだか9歳だったもの。事故だったみたい。おじさんは4階から足を踏み外して転落したの。おばさんは元々体調がよくなかった上に、深い悲しみのせいもあって間もなく亡くなった」 イーメイは何かを思い出したようにちょっと押し黙り、また話し出す。 「一度だけ母がぽろっと漏らしたのが聞こえたんだけど、おばさんが亡くなった後、引き出しの中から飲まなきゃいけない薬が手つかず状態のまま見つかったって。なんて言うか、どうも自殺らしいわ」

「自殺?!」 モーションはショックを受ける。その時、イーチェンもわずか10歳。胸がふさがる思いだ!

イーメイはうなずく。 「おばさんはたぶんおじさんを愛してたんでしょうね」 何か考えている様子で弱々しく言う。 「実際、イーチェンはおばさんにすごく似てる……」

話しているうちに2人は病院に着き、廊下でイーメイと顔見知りの看護師に出くわす。看護師さんはご親切にも彼女に伝える。 「彼氏さんの点滴をちょうど換えてきたところなの。今、また眠っているわ」

イーメイはお礼を言ってから笑顔で補足する。 「私の兄よ」

ドアの前まで来ると、イーメイは突然手にした荷物をすべてモーションに押しつける。 「あなたが持って入って。私は入らないから」

大して多い荷物ではないが、モーションは手にしたものにこれ以上ないほどの重みを感じる。

「モーション」 イーメイは弱々しく言う。 「別にあなたに負けたわけじゃない。彼に負けたの」

モーションはイーメイがどんどん遠ざかる姿を見るのみで、引き止める言葉を何ひとつ言えなかった。

ドアには鍵がかかっていないため、手で押すとすぐに開いた。この病室は2人部屋で、1つのベッドは空いていて、イーチェンのベッドは窓側。ドアの開閉音で目覚めることはなく、彼は点滴を打ちながら、今なお眠っている。

心がまるで目に見えない1本の線でぐるぐる巻きにされているようだ。一歩彼に近づくごとに、その線はほんの少しずつ締めつける。

彼はベッドに横たわっている。顔は青白く痩せこけており、眠っているのに眉をひそめている。再会後、彼女は実際に彼の顔つきをじっくり見る機会がなかったが、今ようやく見られた。指が無意識のうちにぎゅっとしかめた眉間を掻き撫でた後、まつ毛をすっと払う。もしその持ち主がしっかり目覚めていたら、この目はきっと聡明且つ冷ややかであり、時にはかすかな嘲りの色を浮かべることもあろうと想像した。

最後に、少し青白い唇の上で止まる。こういう唇を持つ人はたいてい薄情だと言われてるのに、イーチェン、イーチェン、あなたはどうして違うの?まさかわかってないなんてことないでしょ、私たちはもう昔には戻れないのよ。7年の時間が、何もかも変えてしまった……

その後、自分が何をしているか気づかないうちに、唇が指に取って代わっていた。彼女の唇は外気のせいでまだ冷たかったが、彼の唇は思いも寄らず温かい。しかし、この温もりが彼女を不意に悲しくさせたかと思うと、どういうわけか涙が一滴一滴落ち始め、もう止まらない。

その瞬間、手首が思い切り掴まれる。

イーチェン!

目が覚めたの?

モーションの頭の中はたちまち真っ白になり、目が涙で反射してぼやけているせいで、彼の姿ははっきり見えないが、いきり立った声は耳に入ってくる。

「何をやってる?」 イーチェンは怒りを露にして言う。 「チャオ・モーション、いったいどういう意味だ!」

「私は……」 彼女は言葉を失い、ありとあらゆる思考が頭の中から飛んでいった。しばらくの間、彼女はどうしたらよいかわからず、ぼやけた彼の姿を眺めることしかできない。手首を掴む力が、まるでこの手首をひねり潰さないと気がすまないかのように、だんだん強くなるのを感じる。彼女は涙を抑えたいのに、もはやコントロールがきかず、しかもより一層どんどんこぼれ落ちる。

どうしてなの?彼女は心の中に堅固に築いていたものが粉々に壊される音をはっきり耳にした。その粉砕音は彼女を怖がらせ、うろたえさせる。さらに、イーチェンの痛烈な語気と形相に怖気づいて、彼女も自分が何をしているのかわからない。私は過去を完全に断ち切り、合わせて彼のことすらも排除するつもりじゃなかったの?そのくせして私ったらさっき、いったい何をしていたの?彼女は完全に混乱していた。

逃げ出そう!この考えが頭に浮かんだ途端、自らの行動に指令を下した。自分のどこからそんな大きな力が生まれてきたのかわからないが、いきなり彼女はがしっと掴む彼の手を振り払い、ドアへ向かって駆け出す。

イーチェンは厳しい声で言う。 「チャオ・モーション、逃げられると思ってるのか!」

畜生め!

イーチェンは彼女がドアを開けるのを見て、左腕に刺している点滴をぐっと抜き、ベッドから下りて彼女を引き止めに行こうとする。しかし、彼は病人で、ベッドに長時間横になっていたせいで足元がおぼつかず、早々によろめいて無様にもベッドサイドへ転げ落ちてしまう。

そんなことは一切、当然ながらモーションは知らない。

彼女は茫然とした状態でエレベーターに乗り込む一団について行く。エレベーターの中の人たちは彼女をちらりと見やるが、見慣れた光景で珍しくも何ともないので、また頭を下げて各自物思いに耽る。この病院の中では、毎日永遠の別れが繰り広げられており、こんな風に涙を流している人が1人や2人いることなど、日常茶飯事なのだ。

閉鎖的なエレベーターから出ると、たちまちホールの中の騒々しい声が彼女の耳をつんざく。人が行き交う中、モーションは突然どうすべきかわからなくなる。

どこへ行ける?

とっくにわかってたんじゃないの。この世界はすごく大きくても、イーチェンがいない場所なんて1つもないのよ。