前回、母の精神状態が私が家出した1年半前から変化がなくて驚いたと書いた。
でも、私もずっとそうだった。
毎年毎年同じ司法試験の勉強している。
司法試験受験生なので、家族以外の人との交流は絶つようにと言われてそれを守っていた。
大学卒業後、年賀状を書いていたら、「そんなもの書くひまがあるのか!?余裕だな」と教祖に怒られたのをきっかけに、年賀状は自分から書かなくなってしまった。
来た年賀状に返信するだけだった。
それなのに、ずっと年賀状送ってくださる数人の友、先生にはいつも感謝していた。
今考えると、暴力が始まったりして明らかに教祖がおかしくなってきたのは5年くらい前からだが、年賀状ひとつとっても、おかしい。
人との付き合いを止められるっておかしい。
ただ、自分も本気で司法試験合格して弁護士になりたかったので、とにかく色々なもの全部絶って、死にものぐるいでやらなきゃ受からない!というイメージがあったので、教祖のスパルタは当たり前と感じてあまり疑問を持たなかった。
年賀状は本当は出したかったけど。
それと、本当はずっと母の実家、香川県に祖母に会いに行きたかった。
小さい頃から祖母のことが大好きだったから。
でも、人付き合いや勉強以外の読書や携帯持つことまで禁止されている私が、祖母に会いに行きたいなんてとてもじゃないけど言えなかった。
たまに、何でもかんでも禁止されてて辛いと母に言うと、「いつまでも受からないあなたがいけないんでしょ!」と言われ、ぐうの音も出ない。
家出して3ヶ月後、祖母が亡くなった。
3ヶ月ぶりに香川県で会った母は、剣もほろろだった。
どうやら教祖が私が家出したことが祖母の死に影響していると母に話したらしい。
どうやら教祖が私が家出したことが祖母の死に影響していると母に話したらしい。
「よくものうのうとここに来られたわね‼あんたなんか、ここに来る資格ないわよ‼」と言われた。
でも、母はずっとそういう感じではなくて、時々頭で考えると私にきつい言葉をかけるのだが、母の本当の心は静かに祖母を悼んでいて、私と共鳴していた。
祖母と私達母娘の歴史があった。
私は悲しくてたまらなかった。
祖母の死を母とこんな形で迎えることになるなんて。
悪夢を見ているみたいだった。
9月に入って父から祖母の具合が悪いと聞いていて、母が会いに行ったら少し元気になったと聞いて安心していた。
でも本当は10月くらいに祖母が私を思ってくれている気持ち、悲しみと会いに来てほしいと願う気持ち感じていたのに。
家出している状況を考えると、会いに行けなかった。
会いに行けばよかった。
何も考えずに。
祖母のお葬式で久しぶりに会った従姉妹には、母とケンカして家出したと話し、私と母の仲良しぶりを知っていた従姉妹は驚いていた。
お葬式が終わり、「あなたはさっさと帰りなさい‼」と言われた私は従姉妹に車で駅まで送ってもらい、少しお茶をして、祖父と祖母の思い出話しをしたり、母とのケンカについて聞いてもらった。教祖の話抜きで。
私より一回り年下で、祖母のことが大好きな従姉妹は、「おばあちゃんが潤子お姉ちゃんを見守ってくれるよ」と言い、後日私の1人暮らしのアパートに、祖母の遺影を送ってくれた。
祖母の遺影を部屋に置いた時、やっと1人ぼっちではない感じがした。
それからは、ずっと祖母に話しかけて1人暮らしをしていた。
おはようございます。
行ってきます。
ただいま。
いただきます。
ごちそうさまでした。
と、祖母に話しかけていた。
祖母は今の私の置かれている状況をまるごと受けとめて応援してくれている感じがした。
私は相変わらず自分責めしていたけれど、祖母が私を責めている感じがしなくて、やはり従姉妹が言う通り、応援してくれている感じがした。
私の何とも言えない苦しみをまるごと分かって応援してくれている、母と私のすれ違いを悲しみ、ただ母と私の幸せを願ってくれている感じがした。
そして、それは亡くなった祖父も父方の祖父母もみんなそうだと私は感じた。
家出中、ずっと何か見えない存在に応援してもらっている感じがしていた。
それは亡くなったご先祖さまや私の守護霊さまではないかと今は思う。
今も目に見えないけれど私を応援してくれている存在を感じるから、私は元気に生きていられる。
そんな目に見えない存在への感謝が悲しみや恐怖を超えるようになってきて、私は安心できるようになってきている。
