❏❏❏ 回顧録:2007年4月7日 東京

 

床屋さん

抗がん剤全身化学療法の入院前に、私は行きつけの床屋に行った。

 

店主の田中さんが、毎月髪を切ってくれるのだが、3ヶ月ぶりだ。

 

長く骨折で入院していたから。お店に現れると

「ありゃぁ~、どうしちゃったんですか?」

 

いつもの、明るさで歓迎してくれる。

 

私は、松葉杖で店内に入っていく。

体調も良くない。

今日はロキソニンが効いている。

 

 

「練習中に骨折しちゃったんですよ。それで暫く来れなくて・・」

 

「そうですかぁ。でも、そうなると、当分、走れなくて残念ですねぇ・・」

 

彼は、私がマラソンに夢中で取り組んでいる事を知っている。

 

床屋には、毎月行く。

だから、彼は私の人生を長い期間知っている。

 

行きつけの床屋さんとは、そういう存在だ。

 

同情的な田中さんに、かばんを預けながら

 

「実は、今、がんを患っているんです」

 

「・・・えっ」

 

「精巣腫瘍と言う癌で、先月手術したんですよ。そして今、癌が転移しているので、明後日から抗癌剤治療を受けるんです。その前にさっぱり髪を切ってもらおうと思って」

 

「・・・・・・」

 

田中さんの表情から笑みが消え、私と目を合わせない。

 

合わせられないのだろう。

 

「・・・まっ、とりあえず、こちらの席へどうぞ」

 

いつもとは反対の全然ちがう椅子に案内される。

 

この7年間、座った事のない椅子だ。

 

気の毒に、明らかに動揺されている。

私は申し訳ない気分になった。

 

そこに座ると、どう言った種類の癌なのか?

どういう治療をするのか?と質問される。

 

説明すると、こう言われた。

 

「でも、発見が早くて良かったですね。骨折していなかったら、遅かったかもしれないですよね。良かったです。早期発見で」

 

私は、自分の闘病期間中、色々な方から、この「良かったです。早期発見で、」という言葉を言われる。

 

しかし、実際には、最終ステージまで進行しているとお話している。

 

この日もそうだった。

 

「早期発見じゃないんですよ・・最終ステージまで転移しているので」

 

田中さんは、ただただ困ったような感じで、「あたり障りの無い会話」を続けた。

 

彼に限らないが、私が「早期発見では、ないのですよ」と説明した方は、何十人にも及ぶ。

 

しかし、皆さん“早期発見だ”ととられるのは、「大事に至らない」とか、「大丈夫だ」という結論を、会話の中に欲しているからだろう。

 

だから、誰とでもそういう会話になる。

 

ここが、患者と健常者の会話の難しい所だと思う。

 

私は髪の毛がなくなるので、短くスポーツ刈りにしてもらった。

 

この日、田中さんは一生懸命、私のために何かをしたいと思っていた。

 

帰り際に“よい香りのシャンプー”を一瓶プレゼントしてくれる。

 

と同時に彼が言う。

 

「しまった。髪の毛がなくなるのに、必要ないですよね・・僕は、何をしているんだろう」

 

その優しさに心から感謝した。

 

いよいよ2日後が、抗がん剤治療入院となる。