国会の答弁を聞いていると、発言者は「大の大人」なのに白々しい言葉を口に平気で口にします。ホントに血の通った人間なのかな?・・と不遜ながら、訝しく思わざるを得ません。

 

大阪で市営の地下鉄やバスが民営化される広報を頻繁に目にします。明治期に路面電車で開業して以来、110年目の節目だと聞きます。その土地には、どれだけの人が通り過ぎて行ったのでしょうか? 白々しい言葉を口にできる人たちは、そういう悠久の時の流れの中に我が身を置く感覚など、欠片もないのではないかと、申し訳ないことですが、疑ってしまいます。

 

古い町並みを留めた写真を見ると、私の意識はすっと遠い時代へ戻って行きます。無論、東京生まれの東京育ちですから、私は大阪の昔を知りません。それでも、大阪で生きていた筈の人々の存在を感じることはできます。

 

←地下鉄御堂筋線の駅で

 

終戦前の日本各地で大空襲があったそうです。私は昭和30年の生まれなので、イイ歳になってから「自分が生まれたのは日本が焦土となった高々、10年後だったんだ」と自覚しました。まったく戦争の影を感じないで育った世代ですが、僅かに小学校の遠足でバスで移動する最中、バスガイドさんが「あの鉄道の高架橋の石垣が黒いシミになっていますが、あれは戦争中に人が焼けてできた跡なのですよ。」と説明してくれたことが、「ドキッ」としながらも何処か遠い国の物語でも聞くような感覚で耳に残っています。

 

私の父親は東京の下町で空襲で焼け出された身なので記憶はある筈ですが、多くを語ってくれませんでした。ある日、『東京大空襲の記録』と題された文庫本を手に帰宅した時、滅多に本を読まない父親が手に取り、「貸して欲しい」と言われ、そのまま置いてきました。記憶に残っているのでしょうが、口に出すのも辛くて、本土で起こった戦争の悲惨さが日本の国では遠ざけられてきたのでしょう。

 

仕方ありませんが、その現実を直視できない精神構造が、今の直言を避ける日本の文化を形成して、日本人の脆弱さを助長させてきた気がします。最近になってようやく、『未来に残す 戦争の記憶』サイト(2018年~)が立ち上がり、古い記憶に基づく証言が文字や動画として、未来へアーカイブされるようになりました。

 

当然、今を生きる人たちは、過去に生きた人たちを感じる感性を持たねば、未来へ託す次世代の教育など到底、無理なコトです。否、私は正直に言えば、53歳で初の教壇に立った時から過去から未来へ繋ぐ橋渡しの位置にある自分を自覚したのが順番として正しいです。そう、未来の大人社会を担うことになる生徒諸君を相手にするようになって初めて、この時間軸を手に入れました。

 

私は大阪へ来る前は、広島の呉で暮らしていました。アニメ『この世界の片隅に』(こうの史代・原作)で一躍、知られることになった土地です。戦後、広島県は英軍が進駐し、呉に拠点が置かれました。私が勤務していた呉高専の直ぐ隣は今でも『虹村』と呼ばれ、英連邦から来た兵士の一家が一つのコミュニティーを形成していたとも聞きました。呉は英国から多くを学んだ海軍からの軍港があり、今も海上自衛隊の潜水艦基地でもあります。英国移民を撤回し日本へ帰ってきた私が、この土地へ呼ばれたのも偶然とは思えませんでした。呉の市街地もまた、激しい空襲を受けたとの証言(呉空襲)が残されています(竹内)。

 

付記:東京大空襲当時、防空壕へ逃げ込む決まりを破って、私の父は妹の手を引いて地上を逃げ切ったそうです。これは後に、父の妹(叔母さん)から初めて聞かされました。妙に私の中で納得したことは、私が承知してルール破りをできる自分のルーツに気づかされたことです。言いつけ通りに防空壕に逃げ込んだ人々は死んでしまったそうです*から、私は父から「掟破り」の遺伝子を受け継いだことになります。父が自分の勘を頼りにせず忠実にルール遵守する人だったなら、私はこうして世に存在していないことになります。だから私には、固定化されたルールに捕らわれないで「ホンネで生きる」コトを後世に伝えていく役割を担っていると感じました。それが今まで顧みられることのなかった日本の学校教育システムに対し、反旗を翻す力の根源になっているようです。

* 言いつけ(ルール)通りにしていて、大失敗した悲劇は今も繰り返されています(ここにいたら死ぬよ:児童の訴えに)。