❏ 時は昭和43-45年、東京都江戸川区

私の中学3年間の真ん中、1969年、アポロ宇宙船(11号)が月面に着陸し、人類が初めて地球外の天体に足跡を残した年。その翌年が「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博。そして私は今、大阪の通信制の通学コースという100%自由に研究に当てられる高校の理科室で、科学教育を「探究学習」に着手して3年目の年を迎えた。科学教育センターは江戸川区でも、東京・立川にも小学校の科学教育センターが存続しているらしいので応援したい。

 

       ↑当時(1970年)『理科研究物集録』の巻頭言から

 

戦争に対する反省から戦後、スタートしたのだろうと思う。実験・観察に基づく理科教育が私の中学時代まで温存されてきた。が、卒業する頃、偏差値教育が導入され、生徒向け実験書のような良書は「あっ」という間に受験参考書に駆逐されて行った。そして学校は答えを教え(teaching)、答えを覚えて正解するというカンニング(cheating)と大差ない学びが人生を勝ち抜くコツとなっていった。教育が変貌して行くに連れ組織の上層に入っていく人物像も変わっていったと思われる。私は都庁に勤めていたが、「上と下を入れ替えれば都庁は良くなる」との指摘を聞いたことがある。暗記学習が「良い子」を蔓延させてきたことは間違いないだろう。

 

※広中克彦(1997)『お役人さま!―都庁出入り業者の30年間の悪夢』 (講談社、文庫版)

 

❏ 中学時代の「自由研究」が「博士論文」と相似形

私は科学の方法を身につけていったプロセスをシッカリと覚えている。最初、文京区からきた東京教育大学を出た春日昭雄先生が空中落下細菌を肉から煮出して寒天培地を作るところから指導してくれたことを覚えている。春日先生は後に山田卓三先生の下で、細胞性粘菌の研究に従事される。2年目には私は、『わかる顕微鏡下で見る生物』という当時、横浜市大にいた福島博先生が30代に書かれた(先生の先生である印東弘玄東京教育大学名誉教授談)実験指導書を参考に自力で原生動物を培養する実験を始めた。今も私も同じようなコトをしているが、それはカマキリの子が親カマキリとソックリなように相似形なのだ。そして中学の3年目には、部長に立候補して下級生の研究指導をした。充実した3年間であった。だから研究を仕事にしたいと願った(研究とて、理研騒動に垣間見えるよう上等でなかったのだが)。

 

私が高校へあがってからは既に偏差値教育が徹底していて、ホンモノの学びの味を覚えた身には辛くて仕方なかった。高校課程はスキップしたかったが、科学者を志すためには大学・大学院への進学は必要な訓練であるので自分自身を守りながら学んだ。今だったら、さっさとルネサンス大阪高校のスーパーサイエンスコースを選ぶだろう。だが、そんな夢の学校は日本になかった。だから私は、それを実現させるべく国立高専の教授(兼国際交流室長、兼分野代表と呼ばれる学科長)の地位を捨て、大阪校の開校と同時に来た。不毛だった私の高校時代は、実験ができなかったので、いずれは科学する時に必要となる英語を実用レベルに持って行けるように音声教材(当時、カセットテープへの移行期)を活用して学んだ。英文を語順通り、前から後へ理解するコツが掴めるために・・であった。この時の学びが後に都庁から海外研修で英国へ(1993-94年)、同様にJICA専門家としてタイ国へ(1998-99年)、英国移民(2000-2006年)へ繋がった。私は一度、日本を見限った人間ではあるが、得てきた経験全てを日本へ伝えていきたいと願っている。どうか私の「想い」の全てを受け取って欲しい(竹内)。

 

付記:私が今、担当している大阪校のスーパーサイエンスコースは、高校生だった頃の私が当時、欲していた「夢の学校」を今に再現しようとしている。そして偏差値漬けの教育の果て、手負いの深い傷(私は「福島原発事故」を指す)を負ってしまった日本人社会にとっても特効薬だと、私は固く信じている。