❏ 日本人の足枷となってきた「受験英語」

私は英語論文を「読み書き」することができる。2000年の渡英前、1998-99年にJICA専門家(水質科学)として タイ国下水道研修センター(TCSW)プロジェクトへ派遣されたことがあるが、派遣前のJICA英語検定で私が叩き出したスコアは、担当のJICA職員曰く、「派遣中の2年間に記録が破られませんでした。」であった。いいえ。決して自分の英語力を自慢する気ではない。それくらい英語が実用に使える技術者が日本で育ちにくかったということである。

 

実際、英語サイトを見たり、英文報告書を読んだりする時に使う時と、たまに生徒の英語の問題を見てやろうとすると、脳の活動部位が全く異なることが自覚できる。日本で英語の問題を解く活動は、決して英語を使う脳の部位ではなく、英語力の育成に繋がらないと断定できる。その証拠には実際、日本人で英語を実用レベルで使えるようになった人で多くはないだろう。仮に英語も使えて、試験問題もできる「二刀流」の者がいたとして、他に専門分野は持っているのだろうか? 英語教員は英語の「専門家」かも知れないが、英語を何の目的で使うのかだ。 結局、日本国民の大多数は英語教員になることがゴールではなく、英語を他の目的に使う立場のはずである。日本の英語教育の実相は、「日本仕様」の日本人の英語科教員を「再生産」するという教育デザインだったのだ。完全な、かつ初歩的な設計ミスである。

 

    ↑ダリル・アンカが伝えるバシャールのメッセージの音声性

 

❏ 英語が備える「メッセージ性」を教えるバシャール

バシャールは、知る人ぞ知る世界だろう。私はそのメッセージ内容そのものより、その話者が聴衆に気持ちを届けたいというメッセージ性を知って貰うためバシャールを用いることにした。そもそも言語メッセージとは、上層に言葉、中層に意味、下層に感情が、それぞれ搭載され、三位一体の多重構造のパケット(情報伝達単位)を構成してコミュニケーションしていると私は見る。これは、かつて聾唖者の彼女との意思疎通を通して私が体得した世界観である。つまり上層の言葉が欠落したコミュニケーションが成立したことから、この構造性を見つけ、この理解から、英語という外国語をどう学ぶべきかの指針を、私は発見できたと感じている。

 

バシャールのメッセージの特徴は、その聴衆に伝えたいとする話者(ダリル・アンカ)の力強いリズムやイントネーションである。無論、標準的な英語教材としては誇張の程度が過ぎる。が、考えてみて欲しい。我々は本来、正常な言語メッセージであるべき英語を学校の「教科」として学ぶことを強いられ、パケットの上層だけを切り出して試験問題とし、正誤を問われてきたのだ。これこそ、帰国子女やミックス(旧ハーフ)の英語話者が日本で英語教育を強いることで英語が使えなくさせてきた根本原因である。それゆえ普通の日本人学生が英語が使えるようになったら、それこそ奇跡である。唯一の例外があるとしたら、英語科の教員だろう。が、彼らは「英語のプロ」であっても、英語以外の何か専門が教えられるのか? 畢竟、日本の英語教育は「日本仕様の英語教員」を再生産する教育デザインになっていたのだ(竹内)。

 

追記: 日本国民を皆、英語教員にして、どうする気なのだろう? 国が潰れてしまう。これが、私の高校1年生の頃、抱いた疑問であった。以来、日本の英語教育との私の「40年戦争」であった。ハロルド・パーマー博士の戦前の著書を手にしたのが16歳。東京・神保町の古書店であった。その記述は今も忘れ得ない。「日本で英語が使えるようになった者は例外なく、学校で身につけたのではなく、自分で工夫して身につけた成果であった。」 パーマー博士の遺志を私は私なりに継いできた。だから私から英語学習法を教わる者は、初代・文部省英語教育顧問を務めた英国人・パーマー博士直系の伝承であることを鑑み、私を信頼して欲しい。「学校英語」で汚されていない「英語難民」を救済することこそ持ち場なのだ!