❏いつまで日本人は余裕カマしているのか
そう思ってきた。それほど、日本は大人が大人でない。仕事が仕事でない。子供に顔向けできない。それが、いよいよ後がなくなってきた。いつまでも冗談をカマしていると、漫画チックに言えば、神の間引きに合う・・そんな気もする。東北の海岸では「わたしは死んだのでしょうか?」という幽霊の目撃談が続く。私は家族とタイ、英国と転々としてきたから日本人が捨ててしまった不思議をタイ人も英国人も保持している事実を経験で知る。彼らはスピリチュアルを否定しない。私も科学者の端くれであるが、だからこそ未知の存在を否定していない。霊魂もSTAP細胞もUFOも、私は否定しない(ネッシーは生産構造を考えると論理的に無理)。要するに闇雲に存在を否定することはしない。なぜ? 簡単なこと。ホンモノの科学者は常に答えのない問いに立ち向かう存在だからだ。当然である。頭から否定して掛かるような人は、研究を知らないか、海外を知らないはずだ。英国で錬金術や招霊術が流行ったのも魔女狩りがあったのも、科学が確立する以前のことだからだ。だが、科学的な基盤が整備されても、彼らは問答無用で否定するような姿勢は取らないことは確かな事実である。


↑西洋の魔女狩り(英国で見た本から)

「人間、死んだらオシマイ。」そう軽々しく口にする人たちがいる。なまじっか科学を囓った人たちに目立つ。一方、人生の生死を間近に経験してきたような厚みのある人、答えのない問いに挑戦してきたような人たち(起業家、芸術家を含む)は、軽々しく口は利かない。見事に二分されると思う。要するに、知識としての「科学」を知ることと「科学する」ことを知ることとは、似て非なる世界。いま、時代は急速に「知識」の価値を色褪せさせてきているのだ。学びの「急旋回」が直に始まる。振り落とされないように、心して欲しい。これが、時代を生きるってことなんだよ。

❏新しい人事制度のあり方が始まる予兆
変わるのは教育だけではない。さまざまな社会制度が老朽化して、歪みが生じているのだ。リニアに変われば有り難いのだが、そんな物分かりの良い人間ばかりではないので、曲がるべき角を過ぎてしばらくオーバーランした後、「急旋回」を余儀なくされる。だから勘の良い人は備えることができる。だから私は気づいた今の段階で警告しておくのだ。ただし、耳に入らないことであろう。それも仕方ない。しかし、私には語るべき責務がある。かつ語るだけでなく実行していく役目もある。現実社会に対して行動を起こせる当事者であるからだ。

先が見えない人生の中で、我々は考えや行動が正しいか否か、お知らせを戴くことができる。私はそういう仕組みがあるのではないかと感じている。それが、1つであれば偶然かも知れない。しかし、2つも揃うと格段に確度が高くなる。無論、科学論文ではないので、2つも揃えば先が見えない人生を考えていく上では十分なヒントだと私は判断している。私の縁のあった2人は、ともに分野や立場が異なるが、私が実力者と判断している有為な人材である。それが、揃いも揃って同時期に一度は不採用になりならがも、敗者復活戦を果たした。これまでの人事はポストが先に決まっていて公募して集まった候補者の中から適否を判定してきた。これからの採用人事は人が先行し、その人にどんな仕事を任せるかでポストが生まれていく。旧体制が手詰まり状態にある証拠で、ゆえに新しい時代の夜明けは間近だ(竹内)。

追記:これからの日本の学校が果たすべき役割は、労働力の提供ではない。日本人の生徒一人にどんな適性があるのかを発見し、どのように対処したら成長していくのか、そのノウハウを蓄積していくことである。そのような教育へのヒントを私は国立高専時代に手探りで実験してきた。しかし、国立の学校であるがゆえ、仮に校長職になっても変えることは不可能であった。大阪校は教育特区に作られた通信制の一条校で認可を得ている。片や梅田という一等地に立地するので通学コースも自由にデザインできる。これだけ制約のない高校は、恐らく日本に比類がない。弱みは知名度がないこと、予算がないことだ。