パリを囲む城壁の門 ― 歴史探訪⑤

 

 欧州では古代から中世にかけて大概の都市は外敵から守るための城壁が周りを囲んでいた。1841年から1844年にかけて造られたパリ全域約80平方キロメートルを取り囲むティエールの城壁も例外ではない。

 

 このティエールの城壁は現在のペリフェリック(パリを環状に取り囲む都市高速道路)の内側にあった。ペリフェリックからの間隔は平均150m。19世紀末以降、城壁は特に普仏戦争時の1871年ドイツ軍の大砲の射程が伸びたことによって無用化し、1882年から城壁の解体が検討された。20世紀初頭になると城壁の周囲に貧困地域が形成され、次第に数万人の人々によって不法占有が横行するようになった。そして、この城壁は1919年から1929年までの間に徐々に解体された。

 

ティエールの城壁

 

 又、ティエールの城壁の建設前には、その内側 (今の1~11区を囲むメトロ2番線と6番線が通っている辺り)に、1784年から1791年にかけて徴税請負人の協働によって建設されたフェルミエージェネローという長さ24km、高さ約3.24mが城壁があった。これには61カ所の城門に関税徴収所があり、物品入市税を支払わなければならなかった。徴税請負人の卑しいまでの税の取り立ては増すばかりで市民の中には城壁の下にトンネルなどを掘って税金逃れを試みる人もいたが、不満は頂点に達しフランス革命が勃発する。

 

 時の国王はルイ16世であり、王妃はマリー・アントワネットであったが、数年後、コンコルド広場でギロチンの露と消え去ったことは周知の事実である。その後、フェルミエージェネローの城壁はパリ拡張のため1860年に取り壊されたが、四つの関税徴収所が撤去されることもなく今も残っている。下の絵は当時のもので、税金が廃止された日の様子を描いている。

 

ダンフェール・ロシュロー広場の「地獄の関税徴収所」