汝自身を知れ 度を越すなかれ~アマレスの天皇が歩んだ回り道~/本田多聞【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第195回 汝自身を知れ 度を越すなかれ~アマレスの天皇
が歩んだ回り道~/本田多聞

 

 

「人は心(しん)、花は芯」

 

これは東京オリンピック・カヌー日本代表で神奈川県三浦市で「マホロバ・ホンダカヌースクール」の代表を務める本田大三郎氏の座右の銘である。人は心とは、誰にも動かされないものを持てという意味だ、花は芯とは、アスリート(花)に大切なのものは見た目(花弁)ではなく芯の部分なのだという。「芯はいつか実を結ぶ。ゆえに、しっかり芯を固めよ」というメッセージがこの座右の銘には込められている。ちなみに本田氏の兄の孫がサッカー界のスーパースター本田圭佑。

 

本田氏の息子はレスリングで三度の出場経験を持つオリンピアン。「アマレスの天皇」と呼ばれたスポーツエリートである彼が第二の人生に選んだのがプロレスだった。188cm 127kgの巨体を引っ提げて、プロレス入りすると、野性的な見た目から「原人」や「赤鬼」と呼ばれた一方で、冷静沈着で知性派という一面を持つ彼は「リングの哲学者」とも呼ばれた。野性と知性のあいだに生きた「アマレスの天皇」が歩んだプロレス人生とは…。今回は、カヌー界の大御所・本田大三郎氏の息子であり、サッカー本田圭佑と親戚関係である本田多聞のレスラー人生を追う。

 

本田多聞は1963年8月15日神奈川県横浜市に生まれた。多聞はリングネームではなく本名だ。多聞は、大日本帝国海軍軍人で第二航空戦隊司令官を務めてミッドウェー海戦で戦没した山口多聞中将から由来しているという。東京五輪カヌー日本代表だった父のDNAを継いだ本田は恵まれた運動神経を小学4年生から始めたレスリングにぶつけた。父は息子をレスリングで五輪金メダリストに育てようとあらゆる英才教育を施した。中学の時には体幹を鍛えるためにタイヤを引いて通学させたり、鰯を大量におやつ時に食べさせた。また、「もしレスリングで優勝できなかったら大相撲入門」とプレッシャーも与えた。

 

本田は必死にレスリングの練習に打ち込んだ。自衛隊への出稽古でスキルとレベルも磨いた。その結果、中学3年でジュニア世界選手権で銀メダルを獲得。土浦日大高校に進学すると、なんと高校一年で国体優勝。その後、国体三連覇を達成する。フリースタイル重量級の若手有望株として期待された。

 

日本大学に進学すると1983年のアジア選手権フリースタイル100kg級優勝。大学在学中の1984年ロサンゼルス五輪フリースタイル100kg級の日本代表に選出され、5位入賞を果たした。

 

「五輪を目標にレスリングを始めたので、やっとたどりついたという感じでしたね。一番苦労したのは減量。ふだんなら1カ月で落としていくところを、このときは時間がなくて、2週間で約15キロ落としたよ。アマチュアのころの増減のトータルは100キロは超えています」
【五輪の記憶(5)本田多聞-プロレス界では「アマレスの神様」/サンケイスポーツ アテネ五輪特集】

 

大学卒業後、自衛隊学校に特待生として入学し、レスリングに打ち込む環境が整っていた自衛隊に所属して五輪の金メダリストを目指した。

 

自衛隊では「兵隊やくざ」という物騒な異名をもらっていた本田は、1988年ソウル五輪フリースタイル100kg級日本代表、1992年バルセロナ五輪フリースタイル130kg日本代表に選出されるも成績は振るわない。国内では無敵だった本田。しかも天才肌でテクニシャンでもあった。「アマレスの神様」、「アマレスの天皇」と言われ、全日本選手権8度優勝を果たす日本最強の実力者でも打ち崩せない世界の壁があった。

 

バルセロナ五輪終了後、彼に転機が訪れた。

 

「ソウルで3等陸尉、その後、2等陸尉になり、バルセロナが終わったら1等陸尉に昇進してレスリングをやめ、原隊復帰せよって辞令が下りることになってました」
【あの人は今こうしている 本田圭佑とは親戚…レスリングで活躍した本田多聞さんは今/日刊ゲンダイ 2014年5月25日】

 

レスラーとして引退をしたくないという気持ちが去来する。すると本田の視界にはプロレスの世界が見えてきた。

 

「ワタシはまだ引退したくはなく、当時はプロレスリング業界も盛り上がってたため、自分がどのくらいできるのか、挑戦しようと思いましてね。29歳と年齢的にはいってましたが、93年、ジャイアント馬場さんの全日本プロレスのお世話になることにしました」
【あの人は今こうしている 本田圭佑とは親戚…レスリングで活躍した本田多聞さんは今/日刊ゲンダイ 2014年5月25日】

 

こうして本田は1993年5月に全日本プロレスに入門することになり、試合会場で新入団選手として紹介された。彼は若手に交じって合宿所生活を送ることになる。

 

「ただ、待遇面では他の選手より良かったみたいです。馬場さんの付け人をやり、食費はほとんど面倒見ていただきました、ハハハ」

【あの人は今こうしている 本田圭佑とは親戚…レスリングで活躍した本田多聞さんは今/日刊ゲンダイ 2014年5月25日】

 
1993年10月8日大分県立荷揚町体育館大会でテッド・デビアス相手にデビューした本田は元々130kgあった体重を110kgに落とした。これには理由がある。「プロレスとアマレスとは違う」という考えが彼にはあったのだ。そのためには体が技を覚えるために減量したのだ。
 
「同じラケットを使う競技でも、テニスとバドミントンみたいに違う」
 
これが本田のプロレス観だった。
プロレスラーに転向した限りはまずはプロレス技で勝負する。プロレスについてもっと分からなければいけないと思ったのだ。だからアマレス技術を使わずに、ヘッドバット、ニードロップといった打撃技を多用し、レスリングの実力者らしく勝負所でスープレックスを披露する試合運びが新人時代の本田だった。またアマレス時代はスポーツ刈りだったが、プロレス転向後は長髪にモデルチェンジし、その風貌とゴツゴツとしたファイトスタイルから「原人」と呼ばれていた。
 
そんな本田に「昔の自分を見ているようだ。素朴でいい」と一目置いていたのが川田利明。初めて対戦したタッグマッチでも、川田はプロレスラー本田のスキルを引き出した上で叩き潰し、シングル初対決では、高校時代、アマレスで国体優勝という実績を持つ川田はアマレス技術という引き出しを開けることで、アマレスの神様と呼ばれた頃の本田の実力を引き出すことに成功し、好勝負を展開した。
 
ちなみに1995年、年末の風物詩・世界最強タッグ決定リーグ戦に初出場した本田は師匠・ジャイアント馬場と組んでエントリーする。世界の巨人と呼ばれたレジェンドと組んだことは彼にとっての財産となった。そして、本田とのコンビが馬場にとって最後の最強タッグ出場となったのである。
 
シングル戦線で脚光を浴びたのは1996年の若手最強リーグ戦「あすなろ杯」優勝だ。決勝で優勝候補の大森隆男を得意のダイビング・ヘッドバットで撃破してのリーグ戦制覇だった。初戴冠となったのは1998年10月の泉田純とのヘッドバスターズでのアジアタッグ王座だった。本田と泉田は若手時代から馬が合った。共にアマレスと大相撲という確固たるバックボーンを持ち、第二の人生をプロレスに賭けた男達。敬意があるからこそ、互いを「さん」付けで呼び合う仲だったという。
 
全日本時代の本田はシングル戦線よりタッグ戦線での活動が中心だった。ヒザに爆弾を抱え、なかなか思うように練習ができない中で、井上雅央とのコンビでアジアタッグ王者に輝いた。将来は最高峰の三冠ヘビー級挑戦だって夢ではなかったが、四天王プロレスの他を寄せ付けない超絶なレベルと負傷が相まって、その機会を逃した。これはかつてアメリカAWAでレスリング五輪代表となり、鳴り物入りでプロレス転向を果たすも、地味で怪我に泣かされ、その後指導者として大成したブラッド・レイガンズの歩みにどこか似ていた。
 
2000年6月、当時全日本社長だった三沢光晴を中心とした大半のメンバーが離脱し、新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げする。本田もノアの一員となった。ノア時代になってから本田はリングシューズからアマレスシューズに変えた。しかも、旗揚げ時のノアは下剋上が激しく、誰がトップを取るのかという野心が渦巻いていた。その中で、「残りのレスラー人生をシングルに賭けてみたい」と一念発起したのが本田だった。
 
2001年夏、森嶋猛、力皇猛、池田大輔、本田の四人で開催された「GHCヘビー級次期挑戦者決定トーナメント」という舞台で、本田は元々培ったアマレス技術を開放させ、森嶋と池田を撃破し優勝。同年9月5日岩手大会で秋山準が保持するGHCヘビー級王座に挑戦。この時期に開発したオリジナルテクニックである回転地獄五輪パート0(スタンディング肩固めから裏投げのように相手を投げて、グラウンドでフォールの体勢に入る。相手が返すと首を反らせる変型の肩固め)で秋山をあと一歩まで追い詰めるも、敗戦。だが、本田の強さを満天下に示した。
 
ようやくプロレスとアマレスの技術を併用できるようになった本田。この域に到達するまで実に8年の歳月を要した。また秋山や杉浦貴、丸藤正道といったアマレス出身者がノアで台頭し、K-1やPRIDEの格闘技勢力が浮上したという状況も本田のアマレス技術解禁の追い風となった。
 
「いきなりアマレスの技をプロレスを使おうとしても効果的に使えないし、流れのなかで自然に出せるかといったらそうではないわけじゃないですか。それをできるようにするには、やっぱりプロレスをわかった上で自分の今までやってきたものをミックスして組み立てていかないと通じないと思っていたんで」
【三沢光晴の「美学」―鮮烈な〝男の生きざま〟を徹底検証!/ベースボール・マガジン社】

恐らく格闘技色をいきなりだしても、プロレスに落とし込めていない場合は試合内容がぎこちなく、チグハグしてしまい、プロレスとして成立しにくいと彼は考えたのかもしれない。
 
ちなみに五輪3度出場経験を持つ本田だが、総合格闘技でその技術を試したいという想いはなかったという。
 
「そう思ってたら初めからプロレスラーにならずに最初からそういう世界にいった方がいいでしょ。プロレスのなかでそれをやってみたいと思ったからプロレスにきたわけであって、プロレスとしてあれを使ってることに意義があるんであってね」
【三沢光晴の「美学」―鮮烈な〝男の生きざま〟を徹底検証!/ベースボール・マガジン社】
 
アマレスとプロレスのミックスした独自のプロレスを展開する本田。彼の得意技は実にオリジナリティーに溢れている。
全日本時代から得意にしていたのがデッドエンド(2段階式長滞空高角度投げっぱなしジャーマン・スープレックス)とタモンズ・シューター(ロイヤルストレッチ)。そしてノア時代に開発した数々の回転地獄五輪シリーズだ。
 
回転地獄五輪パート0
スタンディングの肩固めから裏投げのように相手を投げて、グラウンドでフォールの体勢に入る。相手が返すと首を反らせる変型の肩固めに移行する。
回転地獄五輪パート01
スタンディング肩固めから、前方へとジャンプして叩きつけ。グラウンドでパート0と同型の変型の肩固めに移行する。
回転地獄五輪パート1
水車落としのような体勢になり相手をフォールし、返されると相手を固めたまま横方向に回転し再びフォールの体勢になる。それを返されると、さらに回転しつつ相手の足を4の字ジャックナイフ状に固め、袈裟固めかレッグアンドネックロックのような体勢になりギブアップかフォールを奪いに行く。
回転地獄五輪パート2
トルネードクラッチと同型。秋山準からピンフォールを奪った技。
回転地獄五輪パート3
アマチュアレスリング式のダブルアンクルホールドの改良技で、ステップオーバーするように回転して相手の両足をクロスさせてアンクルホールドのような体勢になる。
回転地獄五輪パート4
タモンズシューター(変型STF)から半回転してパート0と同型の肩固めに移行する。
回転地獄五輪パート4改
タモンズシューターから横方向に半回転して、上半身と片脚を極めたままフォールの体勢に入る。
回転地獄五輪パート5
スタンディングの裏肩固めから斜め後方へと投げ、グラウンドの裏肩固めに移行する。
回転地獄五輪パート6
相手のタックルを切った後、脇を差して横に捻って投げてパート0と同型の肩固めに移行する。
回転地獄五輪パート7
肩固めから脚をかけてグラウンドコブラのような形でフォールの体勢に入る。
回転地獄五輪パート11
パート5の体勢から相手を投げてグラウンドに持ち込み、相手の上体を起こして自分の腕を相手の腕に回し、相手の膝裏を通してクラッチし直して相手の首と片足を抱きかかえるように固め、もう片方の脚を、自分の両足で挟んで固定し、後方へと倒れてフォールする。
回転地獄五輪スペシャル
パート0の体勢から体を捻って半回転し、上半身を極めたまま片エビ固めに移行する。
【回転地獄五輪/wikipedia】
 
本田の地道な努力が実り、2003年6月4日日本武道館大会で小橋建太とのコンビを結成し、秋山準&齋藤彰俊を破り、GHCタッグ王者に輝いた。最後の試合を決めたのは本田だった。秋山を回転地獄五輪パート0で絞め上げ追い込んだ上で、さらに横回転して足を抱えてエビ固めで固める回転地獄五輪スペシャルで3カウントを奪ったのだ。策士と呼ばれた秋山の裏をかき、さらに上をいったのは本田の頭脳だった。小橋と本田はその後、名コンビとして長年活動していくことになる。
 
本田はこの頃から小川良成と共に若手育成のコーチ役を務めた。だが、彼自身は人にものを教えるのは苦手だったという。
 
「回りくどいらしいんですよ、私の言い方は。(中略)もっと簡単に説明できるだろっていうことを自分が考えてしゃべると回りくどいらしいですよ(笑)。普段のちょっとした技術のこととかについてもきっと回りくどいんじゃないかな」
【三沢光晴の「美学」―鮮烈な〝男の生きざま〟を徹底検証!/ベースボール・マガジン社】
 
そんな本田だが実はかなりの男気の持ち主だ。同期の志賀賢太郎が伸び悩んでいた時に親身にアドバイスしたのが本田だった。また志賀の得意技である志賀絞め(STFから反転しての片羽絞め)は本田との練習で共同開発したものだ。志賀が黄色靭帯骨化症という難病と闘っていた時、何度も見舞いに行き、励ましたのが本田だった。だから志賀は難病からの復帰戦の相手に本田を指名したのである。
 
2006年6月に本田は小橋とのコンビで二度目のGHCタッグ王座に戴冠する。だが、小橋が腎臓ガンで倒れベルトを返上することになった。パートナー本田のショックは計り知れないものがあった。本田にとって小橋は年下でありながら、良きお手本となる先輩レスラーだった。彼がプロレス転向した時、道場で若手のリーダーとして練習を仕切っていたのが小橋だった。小橋の欠場中、本田は黙々と試合で闘い、パートナーの帰りを静かに待つことにした。そして、2007年12月に小橋の復帰が決まると、本田はスパーリングパートナーを買って出て、1シリーズ欠場して小橋の復帰戦をサポートした。そこで本田は小橋の代名詞であるチョップの実験台となった。その胸板はみみずばれになるほど腫れあがった。言葉ではなく態度で小橋を支える。それが本田の忠義なのかもしれない。そして、小橋感動の復帰戦には放送席で一人涙に暮れる本田の姿があった。ちなみに2013年5月11日に引退試合を行った小橋がリングで最後に挨拶し、抱き合った相手は本田だった。その時の本田に涙はなく満面の笑みを浮かべていた。
 
一時期は新日本を抜き、業界の盟主となったノアだったが、新日本の巻き返しや日本テレビの打ち切りなどの苦境が訪れる。さらに社長である三沢光晴がリング渦に巻き込まれ急死。ノアは窮地に追い込まれた。その煽りは団体運営に直撃。遂にリストラを敢行し、その対象となった選手の一人が本田だった。2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了となりノアを退団、フリーとなった。
 
今後自分はどう生きるのか。フリーとしてさまざまな団体に上がるながら模索する中で、見出したのはアマレス指導者の道だった。
 
「自分のしてきたことを下に伝えていくには何か、と考えた時、レスリングしかないと思った。自分の信じる方法で伝えていきたいと思った」
【全国少年少女選手権・特集 レスリングの魅力は「一人で闘うこと」…本田多聞代表(本田多聞レスリングスクール)/日本レスリング協会公式サイト 2012.7.27】
 
大学の先輩で当時の日本レスリング協会会長・福田富昭氏の協力を得て、学童保育のアカデミーとスポーツクラブの2ヶ所で練習場所を確保し、2010年4月に「本田多聞レスリングスクール」を開設。
 
「幼稚園の年中(4歳)から中2までの約30人の子供たちにレスリングを教えてます。いや、後継者を育てるなんて大げさなもんじゃなく、ひとりでもレスリングを好きな子を育てたい。そうした思いが強いですね」
【あの人は今こうしている 本田圭佑とは親戚…レスリングで活躍した本田多聞さんは今/日刊ゲンダイ 2014年5月25日】
 
ちなみにレスリングスクールではプロレスは一切教えていない。プロレスごっこやパンチやキックは禁止。あくまで純粋にレスリングを指導したいからだ。
 
フリーのプロレスラーとしてリングに上がり、アマレス指導者のプロとして生きる本田。この男の人生はレスリングという輪っかで繋がっているのだ。
 

「人は心(しん)、花は芯」

 

この名言を残した本田多聞の父・大三郎は、「芯を作ることは強く生きるために必要なこと、そのためには基礎となる考え方や行動が大切なのだ」と語る。その教えを息子である本田多聞は実に忠実に守ろうとし、レスラー人生を歩んできた。例え迂回や蛇行しているように周囲から見えても、アマレスの天皇は信念に基づいて回り道を歩み、己のレスラー道を追い求めていく生き方を選んだ。
 
「汝自身を知れ」
「度を越すなかれ」
 
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは七賢人がデルポイのアポロン神殿に集まってこの二つの金言を碑文を奉納したと語っている。
 
「汝自身を知れ」とは自分自身を知ることで、その奥にある魂こそ、自分の本質なのだという意味で、「度を越すなかれ」はその対義語で、自分の本質を踏まえた上で我欲に負けて、踏み外してはいけないという自戒の言葉である。
 
この二人の金言こそ、本田多聞というプロレスラーを形成してきた基軸だった。そして、自分自身のコンディションや状況などを踏まえた上で決してプロレス界ではトップを取ることなく、団体の番人的ポジションに長年居続けたのではないだろうか。

 

すべての歩みに無駄はない。

一見、別々の道だったとしてもやがて一つの道に繋がる。

その信念を支えたのは冷静なまでの自己観察能力と内に秘めた男気だったと私は思うのだ。

やはりリングの哲学者という異名は伊達ではない。

 

 

 

 

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