哀愁のデラシネ~東洋の巨虎は不敵に毒を吐く/キム・ドク(タイガー戸口)【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第152回 哀愁のデラシネ~東洋の巨虎は不敵に毒を吐く~/キム・ドク(タイガー戸口)





「ライバルはジャンボ鶴田」

男は長年、プロレス専門誌の選手名鑑のライバル欄にはこう答え続けた。
まだ怪物、完全無欠のエースになる以前の20代の鶴田の好敵手だったのが今回紹介するキム・ドク(タイガー戸口)だ。
あの大木金太郎の愛弟子であり、193cm 125kgの恵まれた肉体、確かなレスリングテクニックも誇る人呼んで"野生の虎"。
しかし、そのポテンシャルや実力がありながら、東洋の巨虎はプロレス界のスーパースターになれなかった。

何故なのか?

今回は、波乱万丈でさすらいのレスラー人生を送った男の物語である。

キム・ドクこと戸口正徳は1948年2月7日東京都葛飾区に生まれた。
父親が韓国人で、彼は在日韓国人二世である。
それが原因で小学校の時はイジメにもあったという。
中学生になるとバスケットボールに打ち込んだ。
修徳高校に進学すると、特待生扱いで柔道部に入部する。
柔道部の先生が修徳高校に試験を受けに来ていた戸口に目を付けたのだ。

授業は午前中のみで午後からは柔道の練習に打ち込んだ。
実は戸口は元々、小学生の時からプロレスラーになることを夢見ていた。
高校卒業時になると6つの大学からスカウトの声がかかるほどの実力があったが戸口はその誘いを蹴って、1967年に日本プロレス入りを果たす。
ちなみに戸口にとってプロレスの師匠のような存在である"韓国の虎"大木金太郎とは韓国人同士ということで「自分が戸口を預かる」と会社に進言したという。戸口が小学生の時から大木とは知り合いであり、可愛がってくれていたという。
波乱万丈でさすらいのレスラー人生はこのプロレス入りの時から始まり、宿命に導かれたものだったかもしれない。

戸口が日本プロレス入りした直前に元柔道全日本王者の坂口征二がプロレス転向を果たしていたため、柔道界は激怒し、戸口を奪い返しに会場まで押し掛けた関係者もいたという。
そのため、戸口は大木に付いていく形で韓国に渡り、トレーニングを積んだ。
トレーニングの末、韓国で一試合敢行後に日本に帰国し、1968年8月30日に柴田勝久戦で正式にプロデビューを果たしたが、試合後に師匠の大木に「しょっぱい試合をするな」と風呂場で殴られたという。

大木の付き人を務めていた戸口はプロレスラーになっても人種差別が原因でイジメられていた。

戸口のプロレスラーとしての基礎を作ったのは当時、日本プロレスのコーチとして来日していた"プロレスの神様"カール・ゴッチだった。

「プロレスラーとしての俺の基礎の部分を作ってくれたのは、間違いなくカール・ゴッチだから。俺の心の師匠は大木さんだけど、レスリングの師匠はゴッチだよ。ゴッチのおっさんは、凄く人間がいいんだよな。練習が終わったら、凄くよくしてくれるもん。俺は英語が喋れただろ。ゴッチのおっさんとはツーカーだったよ」

子供の時に身につけた英語が役に立ち、外国人レスラーとの交流を深め、可愛がられていた戸口はゴッチの話を通訳したりしていた。

1972年、戸口が24歳の時に日本プロレスは分裂する。
アントニオ猪木派は新日本プロレス、ジャイアント馬場派は全日本プロレスとそれぞれ新団体を旗揚げし、日本プロレスは坂口征二をエースとした新体制に移行したが、1973年4月を最後に崩壊した。猪木でも馬場でもなく大木に付いて行っていた戸口は両団体に合流することなく、1972年12月に大木の紹介でアメリカ・ロサンゼルスに渡った。
リングネームは"空手、柔道、カンフーを習得した"韓国人ヒールレスラーのキム・ドク。
キムは大木金太郎の本名であるキム・イルから、ドクは戸口の本名である正徳(せいとく)から拝借にこのリングネームは誕生する。
放浪の東洋人レスラーは「俺は俺でやる」と腹をくくり、アメリカで生きていくことを決意した。


ロサンゼルス、ルイジアナ、ノースカロライナなどの各地を転々としながら、キャリアを重ね、スキルを磨く戸口は1973年10月にノースカロライナ州地区のUSタッグ王座を獲得した。

その後、ディック・ザ・ブルーザーがトップのWWA、フリッツ・フォン・エリックがトップのテキサス州ダラス、バーン・ガニアがトップのAWAを転戦。
AWAでは"帝王"バーン・ガニアが保持するAWA世界王座にも挑戦している。
新人時代のボブ・バックランド、アイアン・シーク、サージャント・スローターといった後のWWE王者達にも戸口は一度も負けずに連勝している。
戸口は必死になって一人でアメリカマット界を生き抜こうとしていた。

「俺のバックには会社もなければ、政治的なプッシュもない。自力でアメリカンスターになったんだ」

しかし、戸口のアメリカでの活躍は情報化社会になる前の日本で報道されることはなかった。
日本に帰るつもりがなかった戸口が日本に帰る、いや来日するきっかけとなったのが当時、全日本に参戦していた師匠の大木からの誘いだった。

「全日本で俺のパートナーになってほしい」

さすがの戸口も師匠の頼みには断れない。
戸口は1977年9月に4年9か月ぶりに全日本に凱旋帰国を果たす。
一か月後の10月には大木とのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破り、インターナショナル・タッグ王座を奪取する。
そこで戸口は生涯のライバルと言える鶴田と対戦することなる。

「観るのとやるのとでは大違いでね。柔軟でバネがあって、間合いもセンスもいい。みんな天才って簡単に言うけどさ、本当に天才だったよ。技術や恵まれたボディだけじゃない。"プロレス頭"が凄かった。頭の回転が早かったよね。ビル・ロビンソンやバーン・ガニアが闘ってきた俺が言うんだから、間違いないだろ」

その一方で大木との師弟コンビは意外とやりにくかったという。

「いざ仕事をすると、凄くやり難かったな。大木さんは勝とうが負けようが、ベルトを獲ろうが獲れようが、俺にいいところを取らしてくれないんだよ(苦笑)」

それは致し方ない部分がある。
大木は一本足頭突きを主体とした無骨なファイトスタイルだが、戸口は巨漢レスラーでありながら、頭でプロレスをすることを信条にしていた男だ。レスラーとしてのタイプが全く違うのだ。
戸口の力はありながら、パワーファイトに固執することはなかった。
得意技は当時あまり使い手が少なかったツームストン・パイルドライバー。
また相手の肩を砕くショルダー・バスターや股裂きのような体勢でヒザを極めるキウイ・ロール、相撲のかん抜きから投げるかん抜きスープレックスなど技のバリエーションも豊富だった。
巨漢ながらテクニシャンというのは鶴田と共通している部分だ。

日本とアメリカを行き来する生活が始まった戸口。
アメリカではグリーンカードも取得していた。
1977年10月からは全日本でシングルプレーヤーとして売り出されるようになる。
特に1978年9月13日に愛知県体育館で行われた鶴田とのUNヘビー級選手権では実に延長戦も含め65分も闘い抜き引き分けという壮絶な激闘を繰り広げた。戸口はこの試合を生涯のベストバウトに挙げている。
試合後、戸口は馬場夫人である元子氏から馬場からのこんな伝言を聞くことになる。

「久しぶりに興奮する試合を観た」

それは戸口にとって本当に嬉しかった。
この試合をコントロールしていたのは自分だという自負もあった。
自分がようやく評価されたという喜びと誇りがあったのかもしれない。

1979年、戸口は師匠である大木と別れ、全日本プロレスに入団する。
馬場は戸口に鶴田に次ぐ"全日本第三の男"というポジションを与えた。
リングネームはキム・ドクから公募から"タイガー戸口"に改名した。
馬場にとってのプロレスとは大きいレスラー同士がテクニックやパワーを受け止めぶつけ合うものだという信念があった。
その信念を具現化できると考えたのが鶴田と戸口だったのかもしれない。

「馬場さんが俺に期待していたのは知っていたからさ。その頃、俺と鶴田が馬場さんに呼ばれて、こう言われたんだ。"俺はもう辞めるけど、鶴田と戸口で全日本を背負って引っ張って行きな"って。ビックリしたけど、俺は"わかりました"ってちゃんと返事したんだよ。俺は全日本のブッカーになりたいという考えがあったし、試合をどう持っていけば面白くなるかというのも全部、頭の中にあったからさ。馬場さんも俺の希望を知っていたよ」

しかし、戸口にはファイトマネーに不満もあり、アメリカに戻りたいという気持ちが強くなる。
1981年、内々にあった戸口の不満が爆発し、全日本と衝突することになる。

「馬場さんとしては俺を日本に定着させたかったわけだろ。でも俺はカロライナにいる家族を放り投げて、ずっと日本ではできないと訴えたんだよ。そうしたら、馬場さんは"家族を連れてこい"帰ってから女房に相談したわけ。"日本に行こう"ってね。それで理解してくれて、準備をしていたのさ。それで馬場さんに"女房が日本に来ると言ってますから、すいませんけど飛行機代をお願いします"って頼んだら、"お前、勝手に出せ"と言われたんだよ。それ、カチンと来るだろう。"それなら悪いけど。俺は辞めます"って」

こうして戸口は全日本プロレスを去った。
その後、新日本プロレスからオファーを受け、1981年6月に当時の新日本が進めていた世界統一 選手権IWGP抗争に賛同という形で上がることになった。。だが、新日本時代の戸口はどこまでもついていなかった。

同年6月24日の蔵前国技館で行われた第一戦のキラー・カーン戦は消化不良に終わり、メインの谷津嘉章の日本デビュー戦のインパクトがすさまじく、移籍の印象が薄くなる結果に終わる。また同年9月23日の田園コロシアムでのアントニオ猪木とのメインイベントはスタン・ハンセンVSアンドレ・ザ・ジャイアントの大激闘や国際プロレスのラッシャー木村「こんばんは事件」、タイガーマスクの対戦相手のソラールの肩の脱臼などメインに至るまでの印象が強く、戸口の印象はまたも薄くなってしまった。
戸口は新日本で試合をこなしながら、「新日本は俺に合わない」と薄々感じていた。 

「あそこの試合の仕方は瞬発力のレスリングだから。パパッとやってリング下を回ったりして休んでから、またパパッと動いて、首4の字なんかで休む。俺らがやっているアメリカンスタイルみたいに、小技をコツコツと順に積み上げていって、最後にバーンとフィニッシュへもっていくやり方とは違うからさ。そりゃ全然リズムが合わないよ。もうダメだと自分でも思ったよ(苦笑)。まあ、利用されたって感じだよ。俺の立場を悪くして、"全日本の連中はこんな程度の技術しかないのか。俺達の方が上"っていうのを見せつけたかったわけ。俺を新日本で活かそうということは一切考えていない。それは新日本に行ってすぐにわかったもん」

新日本で唯一といっていいくらいに戸口の存在がクローズアップされたのは1982年の「MSGタッグリーグ戦」でのキラー・カーンとのコンビで準優勝という結果を残したぐらいだった。
戸口はこう振り返る。

「新日本にジャンボ鶴田はいなかった」

1983年から戸口はWWE(当時はWWE)に移籍し、タイガー・チャン・リーというリングネームで活動する。
しかし、これまた新日本同様、スタイルの違いに馴染めなかったという。

「結局、WWFに一番長くいて、5年か。でも、俺は最後までニューヨークのカラーに染まらなかったよ。合わなかった。レスリングがやりたかったよ。悩んだもの。それでニューヨークから馬場さんに手紙を出したこともあるんだよ。"すいませんけど、戻してください"って。俺はまた鶴田とやりたかったんだよな。俺の知人が"馬場さん、戸口を戻してやったらどうなんですか?"って訊ねたら、"戻したいけど、ウチの連中への面目が立たないからダメだ。欲しいことは欲しいけど、それはできない"って言ってたらしいよ」

この頃、戸口はプロレスの傍ら、ハルク・ホーガンからの紹介でハリウッド映画にも何本か出演していて、東洋人の悪役を演じている。
1988年1月にWWEを離脱し、アメリカのインディー団体を渡り歩き、1990年6月にプエルトリコに参戦する。
WWCカリビアン・ヘビー級王座に戴冠した。
1991年5月に再び、新日本に参戦するようになった戸口は"イス大王"栗栖正伸とのピラニア軍団を結成するも、前座戦線に甘んじ、しばらくするとフェードアウトしていく。
この時、戸口は44歳になっていた。
一方のライバルの鶴田は40歳を越えても全盛期は衰えず、怪物と恐れられ、若手レスラーの高き壁として全日本のエースであり続けた。
戸口にレスリングのリズムが全日本の方が合うのだ。
そして、こう思うようになった。

「俺が鶴田みたいに三沢達の前に立ち塞がる壁になりたかった。そして、もう一度ジャンボと試合をしたかった…」

その後、W★ING,WAR,東京プロレスといった日本のインディー系団体を転戦し、さらにメキシコUWAやCMLLに参戦した戸口。
メキシコではヤマトというマスクマンに変身し、カネックを破りUWA世界ヘビー級王座に戴冠した。

また師匠である大木が1995年4月2日のベースボール・マガジン社主催の東京ドーム大会で引退セレモニーが行われた。
戸口は、車イスに付き添われ、鉄柱に頭突きをするように頭を付ける師匠の姿を大粒の涙と共に見届けた。
大木は戸口の姿を見つけるとこう声をかけた。

「戸口君は僕と出会わなければ、こんな辛い人生を歩まなくて済んだのにね…」

二人とも泣いていた。
もう言葉にならなかった。

2001年1月、戸口は実に20年ぶりに全日本にフリー参戦を果たしたが、そこは戸口が知っている全日本ではなかった。
馬場はこの世にはいない。
ライバルの鶴田もこの世を去った。
トップ選手も少なかった王道のリングに戸口はまたも姿を消した。

現在、戸口はセミリタイア状態ながら、単発でリングに上がっている。
まだ引退はしていない。
近年は中国にプロレスを広めたいという夢を抱き、レスラーを育成しようとしているという。師匠の大木はこの世を去ったからこそ、韓国で英雄だった大木のような存在を弟子である自分が送り出したいのだ。
レスラーとしての目標は70歳の時に東京ドームで引退試合を行うことだ。

思えば、戸口のレスラー人生はデラシネ(根無し草)だったといってもいい。
そのようなレスラー人生を歩むきっかけは師匠である大木自身が力道山死後の日本プロレス界においてデラシネだったからだ。
才能は有りながら、確かな技能がありながら、それでもトップレスラーにはなれなかった。

何故か?

それは戸口の数々の発言を見れば、なんとなくわかるような気がするのだ。
彼は良くも悪くも驕りもあり傲慢なのだ。
レスラーとして放浪癖もあり、一つの場所で留まれない"性"もあった。
生粋のアウトローレスラーだったのかもしれない。

トップレスラーになればなるほど、人間力と人間性が問われるのと私が考えている。
団体もトップレスラーにする、エースにする、ブッカーにする場合は技術や才能や頭脳だけでなく、周りを率いる、統率できる、神輿を担ぎ甲斐がある選手をトップに選定するのではないだろうか。
その部分が戸口は欠如していた。
もしかしたら戸口も口にはしないが、薄々気づいていたのかもしれない。

ただそれを口にするとレスラーとしては"敗北"であり"屈辱"だ。
だから戸口は毒ガスと呼ばれる大胆不敵なビッグマウス、歯に衣を着せぬ発言をしているのだ。言わば強がりなのだ。

ミスター・ビッグマウスと呼ばれている戸口の毒舌には、レスラーとしてのプライドを感じる一方で、トップになれなかったコンプレックスを同時に感じてしまうのだ。毒舌を吐くことで、トップレスラーになれなかった無念を解消するための一種の息抜きをしているのかもしれない。
だからこそ、彼のレスラー人生には余計に悲しさと寂しさが垣間見えるのだ。

哀愁のデラシネ・戸口正徳は毒を吐く。
あらゆる教訓とあらゆる感情とドラマを込めて…。




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