"行きつ戻りつ外れつつ"の裏王道 卓越怪獣が歩む双六人生/嵐(高木功)【俺達 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第124回 "行きつ戻りつ外れつつ"の裏王道 卓越怪獣が歩む双六人生/嵐(高木功)

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悲しいニュースは…嵐の大麻所持による現行犯逮捕だ。これは許されることではない。
(中略)
プロレス界に“薬物汚染”のイメージが付きかねないのだ。本当に馬鹿なことをしてくれたものである。でも、私が一番、悔しいのは「ああ、やっぱり嵐は駄目な男だったのか」とレッテルを貼られてしまうことだ。だって、タクちゃん、そうじゃないでしょ!? 全日本を夜逃げ同然に辞め、SWSに移籍したと思ったら金銭のルーズさで解雇。でも、WARに戻ってからは一生懸命やってたじゃないか。2000年夏、WAR軍を結成しようとしていた天龍さんに頼まれて電話した時に「えっ、俺、全日本に戻れるんですか!?」って大喜びして、戻ってからは顔面を骨折しても試合を休まずに天龍さん、渕さんを関心させたでしょう。全日本が経営難になった時は、自分のことよりも若い選手の生活を心配していたじゃないか。それが本当の姿のはずなのに…。

 どうあれ、今回のことは弁解の余地はない。それでも、そこには「どうして?」「でも…」という気持ちがある。タクちゃん、悲しいよ…。
(maikai/小佐野景浩公式サイト 2006年07月08日 嵐、逮捕…。)

プロレスライターの小佐野景浩氏は、嵐こと高木功が2006年に大麻所持で逮捕された時にこう嘆いた。
彼にとって高木は若手時代から取材している思い入れのあるプロレスラー。
だからこそ、この事件を許すことができず、「やっぱり嵐はダメな男だった」というレッテルを貼られてしまうことを我がことのように悔しがった。

高木功は本来ならメジャー団体のトップレスラーやスター選手になってもおかしくない実力を持っていた。
あくまでも道を逸れなければという前提付きだが…。

190cm 146kgの巨体にも関わらずにフライング・ニールキックやフロッグ・スプラッシュといった飛び技もこなす運動神経、きれいなブリッジのジャーマン・スープレックス・ホールドができる体の柔らかさ、相撲仕込みの当たりの強さと頑丈さはあの全日本プロレスの総帥・ジャイアント馬場が惚れ込んだ"卓越怪獣"だった。
そんな高木功のレスラー人生を追う。
彼は本来ダメな男ではない、トップになれた怪獣だった。

高木功は1961年11月8日大阪府守口市に生まれた。
中学卒業後に相撲の世界に飛び込んだ。

「俺、騙されて連れていかれたんです。中学二年になる前の春休みに、"みんなで遊びに来ればいいじゃないか"って先輩と後輩と三人で上京して高田川部屋に行ったんです。そうしたら、変える時に"帰らなくていいよ、お前の荷物はもう届いているから"って。これは親に売られたなみたいな。だから転向して中学二年から部屋にいましたよ。初土俵は卒業直後の1977年3月場所でした」

1979年11月には幕下に昇進すると、四股名を「卓越山」に改名する。
一度は1985年に十両まで昇進するも、怪我もあり伸び悩む。

「俺は相撲に向いていないんじゃないのか…」

1986年7月場所を最後に相撲廃業を決意する。

「このままやったって、三役ぐらいには運良く上がるかもしれないけど、大関や横綱は別格。とんでもない話だなって。でも次に何をしようというのは考えてなかったんですよ」

相撲廃業後、高木はテレビで元横綱・輪島大士がプロレス転向した試合を見た。
周囲からこう言われた。

「お前もプロレスやったらどうだ!?」

実は高木はプロレスが嫌いだった。
しかし、周囲にこう煽てられるとその気になってしまう。
高木の後援者経由で、元前頭で全日本プロレスのトップレスラーとなった天龍源一郎を紹介してもらった。
天龍からこう言われた。

「大きいな。(プロレス)できるか?」

その後、後楽園ホールでプロレスを観戦すると、「俺にプロレスができるのか」という気持ちが芽生えたが、興業終了後に天龍がジャイアント馬場に高木を紹介する。
もう後には引けなかった。
1986年の年末に高木は全日本プロレスに入門した。

プロレスは想像以上に厳しい世界だった。
特に練習は本当にきつかった。
受け身は毎日、100回も200回も反復する。
グラウンドでもこてんぱんに極められた。
しかし、高木には同時期に角界から大型新人のジョン・テンタ(琴天山)がいた。
テンタはアマチュア・レスリングで世界ジュニア王者になった実力者。
誰も教えてくれないから、テンタからグラウンドを教わった。
すると誰も高木に極めっこをしようと言ってくる者はいなくなっていた。

ちなみに高木はドロップキックを馬場から教わっている。
馬場は32文ロケット砲と呼ばれたドロップキックの名手。
まずキックではなく、着地時の受け身を叩きこみ、馬場が手にしたスポーツバックが蹴れるようになると、練習仲間相手を実験台にするというものだった。
高木は見事にドロップキックをマスターして見せた。

プロレスについては馬場以外に、ハル薗田、ザ・グレート・カブキ、アメリカから来日した際に佐藤昭雄が丁寧に教えてくれたという。

1987年3月31日にハル薗田戦でプロレスデビューを果たした高木は馬場の付き人となった。
馬場は高木の才能に惚れ込んでいた。
同年4月にアメリカで開催された24チームが参加した「世界タッグ五輪」に自らのパートナーに高木を抜擢したほどである。結果は三位となり、全日本将来のエース候補として取り上げられるようになった。
この扱いは新人にしては異例中の異例である。
アメリカではVIP待遇を受けたという。
周囲が馬場の付き人を高木から小橋健太(現・小橋建太)に変えた時も馬場は納得しておらず、新しく付き人になった小橋はしばらく相手にされなかったという。

「俺自身はそれが凄いことだということがわからないんですよ。誰かがそう言ってくれれば、自覚を持てたんでしょうが…」

馬場が本来考えていた王道プロレスとは「テクニックがあり大きくて動けるヘビー級のプロレス」。彼にとって究極の王道プロレスとは、ジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍対決だった。馬場にとって高木は英才教育をさせて、王道プロレスを継承させたかったのではなかっただろうか。だから異例の抜擢をさせたのだろう。
しかし、ポッと出が受け入れられるほど全日本プロレスは寛容ではない。
当時の全日本は典型的な縦割り社会で、高木よりも先輩でもうだつが上がらないレスラーがわんさかいたのだ。

高木は新人でありながら、天龍同盟と毎回当てられた。
天龍や阿修羅・原にはイス攻撃や顔面蹴りでボコボコにされた。

「この野郎、なんで俺にだけ当たりがきついんだ!」

そう思った高木は阿修羅・原に直接こう言ったという。

「キツいですよ、俺ばっかり…」

原はこう答えたという。

「お前だからやってんだよ。お前じゃなきゃもたないだろ」

これは褒め言葉だったのだが、当時の高木にはそう受け取り余裕などなかった。
高木は1988年6月に「打倒! 天龍同盟」を掲げた若手選手によるユニット"決起軍"に参加する。
二代目タイガーマスク(三沢光晴)、高野俊二(高野拳磁)、仲野信市、田上明、高木の五人で結成されたユニットだったが、翌年に馬場からの「決起していない」の鶴の一声で強制的に解散させられる。
ちなみに高木は練習嫌いのなまくらと言われ始めたのもこの頃からだった。

「なまくらでしたよ。やっぱり王道に反逆していたのでしょうね。それは自分でも認めます」

高木の名がクローズアップされたのは1990年1月の天龍との抗争だった。
そこで高木は潜在能力を爆発させた。

「毎日のように天龍さんと当たって、日によって"今日はうまくいったな" ”今日はただやられちゃったな"ってアップダウンが激しかった」

しかし、天龍戦の後遺症を理由に二月シリーズから欠場した。
当時は天龍との抗争がきっかけや新日本との対抗戦で天龍のセコンドについたことにより、天龍同盟入りするのではと言われてたが、実際は…。

「怪我で休んだのは本当です。休んでいる時に、ある人からSWSに誘われたんです。"全日本は潰れるから"って。大人は…汚いでしょ? それから谷津嘉章さんとメガネスーパーの本社に2~3回行きました。馬場さんから"誘いが来ているのか"と訊かれ、俺は"来てないです"と答えました。そうしたら"米子大会から試合に出ろ"って言われたんですけど、行きませんでした。不義理しました」

高木は1990年に全日本を退団し、新団体SWSに参加することになった。

プロレスライターの小佐野氏は高木功について以前、このように評している。

「もし横に逸れることなく真っ直ぐにレスラー人生を歩んでいたら、おそらく高木功は1990年代の全日本プロレスにおいて四天王と共に中心にしたのではないだろうか」

しかし、その栄光の道を高木は自ら外れていった。
将来のエースにしたいほど高木に惚れ込んでいた馬場は高木の全日本離脱をどう捉えていたのだろうか…。
高木はSWS移籍後、怪我による欠場をし、さらに1991年1月に素行不良により解雇されてしまう。

「あそこ(SWS)は辞めようと、すぐに思いましたよ。だって、みんなが仲悪くて揉めているんだから。"ここは長くねぇな"って」

1992年に崩壊したSWSは天龍派(WAR),ケンドー・ナガサキ派(NOW)、ジョージ高野&高野俊二派(PWC)に分裂した。
高木は高野兄弟がいるPWCに参加するも、なかなか日の当たらない苦しい日々が続く。
PWCを去ると、谷津嘉章が旗揚げしたSPWFに参加する。
SPWFは別名・社会人プロレスと呼ばれていた。
高木はそれにあやかってニッカポッカの土木作業員スタイルで試合をしていた。
全日本将来のエース候補は流浪のレスラー生活を送っていた。

そんなある日、高木はSPWF代表として新日本プロレスの別部隊・平成維震軍興業に参戦した。この大会でも当時の高木を象徴するようにやられ役になっていたのだが、高木はかつての同僚に出会う。
WARで"理不尽大王"としてプロレス界の大悪党として暴れていた冬木弘道だった。
冬木は高木にこう声をかけた。

「WARに来いよ」

高木の潜在能力を知っている冬木からするとここで燻っていることが不憫で仕方がなかったのだ。
1995年4月に高木はWARに参戦し、相撲マスクマン・嵐となったのだ。
実はこの嵐は二代目で、初代の嵐(大黒坊弁慶)が団体を去ったため高木に白羽の矢が立ったのである。
WARでは自身を誘ってくれた冬木と抗争を繰り広げ、決着戦に敗れた高木はマスクを脱ぎ、罰ゲームとして後日、隅田川に飛び込んだ。
そして、この罰ゲーム敢行後に高木はこう語った。

「隅田川にいたクラゲが冬木に見えたよ…」

高木は北原光騎、荒谷信孝(荒谷望誉)と"隅田川三兄弟"というユニットを結成し、冬木軍(冬木、邪道、外道)を破り、WAR世界6人タッグ王者となった。
実はこれがプロレス人生初のタイトル奪取だった。
高木功はいつのまにか30代中盤になっていた。

WARは経営が悪化し1998年に全選手を解雇した。
ようやく少しだけ光が見えかかっていた高木は再び日陰の道に逆戻りする。

「あの時の全選手解雇については何も文句ないですよ。WARでは給料が遅れたことがないんです。未払いとか遅配したくないから、止めちゃっんだと思います」

フリーとなった高木はインディー団体を彷徨った。
ちなみに当時、大日本プロレスで機体の若手レスラーとして活躍していた本間朋晃(現・新日本プロレス)の高き壁として立ちはだかったのが、高木だった。
本間は高木を体感することで、"メジャー団体"の底力を味わったのである。

2001年、そんな高木に大きな転機が起こる。2000年に全日本に復帰していた天龍源一郎からこんな電話があった。

「今後、全日本でWAR軍を結成しようと思っているんだけど、お前やれるか?」

もう二度と戻ることはないと思っていた全日本のリングに上がれるかもしれない。
高木は本当に嬉しかった。

そして、天龍に伴われて、高木は馬場元子氏と再会を果たす。
元子氏の夫であるジャイアント馬場は1999年1月に61歳でこの世を去った。
もう恩師・馬場には会えない。
それでも全日本に上がるにはけじめをつけなけれいけなかった。

「お線香を上げさせてください」

高木は馬場の自宅に行ってお線香を上げた。

「馬場さん、あの時は本当に申し訳ありませんでした。もう一度全日本に上がらせていただきます」

高木は心の中で馬場と会話をすることで、ようやくけじめをつけることができた。
2001年8月にWAR軍のメンバーとして全日本に復帰した高木。
実に11年半ぶりの王道マットだった。
2001年9月8日に、北原とのコンビでアジアタッグ王座を戴冠する。
もし全日本に残っていれば、すでに獲得していたタイトル。
回り道してよっやくたどり着いた。

高木は全日本で本来の潜在能力を発揮する。
空爆重戦車の異名通り、対戦相手を次々と倒し、新生全日本の総帥・武藤敬司や剛腕・小島聡といったトップレスラーに互角に渡り合う。
特に2003年、全日本が橋本真也率いるゼロワンと対抗戦に突入すると、武藤は高木の破壊力にかけ、パートナーに指名した。ここでも高木の強さは爆発し、同年のチャンピオン・カーニバル準優勝、初の三冠ヘビー級王座挑戦、武藤とのコンビでの世界タッグ王座戴冠など一気にトップ戦線に躍り出た。

ただその勢いを継続することはできなかった。
不甲斐ない試合が続き、マシン軍団入りで再起を図ろうとするがなかなか振るわなかった。

そして、あの不祥事に繋がっていく。

車のトランクに大麻を隠し持っていたとして警視庁葛西署は7日までに、大麻取締法違反(所持)の現行犯で東京都江戸川区のプロレスラー「嵐」こと高木功容疑者(44)を逮捕した。
「プロレスで受けた痛みを和らげるために吸った」と供述、使用についても認めているという。
 調べでは、高木容疑者は5日午後6時ごろ、自宅前に止めていた車のトランクなどに大麻計約2・9グラムを所持していた疑い。葛西署員が車内にいた同容疑者の知人を職務質問したのがきっかけで発覚した。
 高木容疑者は大阪府出身。大相撲を経て1988年に全日本プロレスからデビューした。他団体に移ったこともあったが、5年前に同プロレスに復帰。「ラブ・マシン・ストーム」などのリングネームで活動していた。
全日本プロレスの武藤敬司社長は「夢を売る商売なのに憤りを感じている。うちのリングには2度と上げない」とコメントしている。
(2006年7月7日/スポニチ・大麻所持でプロレスラー「嵐」を逮捕)

己の居場所を見つけたはずの高木だったが、ここで大きく道を踏み外す。
これはファンに対して、プロレスというジャンルに対しての裏切りだった。

「あの時はファンに対してもそうだし、全日本に対しても…いろんなスポンサーのこともあるし、申し訳ないと思いましたよ。だからどこかでお詫びができればと思ったんですけど、"もう二度とプロレスをやることはないだろうな"と。家族に飯を食わさなきゃいけないし、その後知り合いの土木関係の仕事をしていました」

拘置所にいる時に高木は名前で呼ばれるのではなく、番号で呼ばれた時にこれ以上ない屈辱を感じたという。

自分自身の人生を振り返る時間が訪れるにつれて、高木にはある一年が去来する。

「俺は相撲も中途半端で終わった。だけどプロレスだけは引退試合をして、きちんと終わりたい」

そんな高木に手を差し伸べたのが藤波辰爾だった。

2007年4月11日、無我ワールド・プロレスリング後楽園大会へ来場し、藤波辰爾に同団体への参戦を直訴した。一度は嵐に謝罪の誠意が見られないことで取り消しとなっていたものの、西村修が後見人になり、藤波とフロントを説得したことで、21日の後楽園大会の試合に第0試合として出場できることになった。試合は西村とのシングル(西村はこの日2試合行う)でブランクは埋まらず4分足らずでスリーパーでギブアップ負け。ただすぐマイクを持ちファンの前で謝罪の挨拶をした。また全試合終了後の全選手が観客に挨拶した際には高木も呼ばれたが、リングに入ろうとした時に藤波より「リングには入るな」の指令があり(まだ正式な所属でない、の意味)場外からの挨拶となった。その後はリングネームも高木功に戻し、リング設備、会場設営などスタッフに混ざり、練習生として再起を図る。幾度か試合をこなし、ぎこちなかったメンバーとも打ち解けあうようになる。2008年2月、ドラディションとしての初興行から再びリングネームを戻し嵐として再出発を決意した。
(wikipedia/高木功)

高木は復帰する機会を与えてくれた藤波に感謝している。
するといつしか「きちんと引退試合をしたい」という願いは「もっとプロレスをやりたい」という欲求に変わっていた。

2010年にドラディションを退団し、天龍源一郎率いる天龍プロジェクトに参加し、2013年には所属選手となった。
2015年11月の天龍の引退興業にも高木は立ち会うことができた。

「やっぱり天龍さんは俺の恩人です。本当にお世話になりましたよ」

高木は天龍引退興行で、越中詩郎と組んで、太陽ケア&相島勇人と対戦し、天龍の得意技であるパワーボムで相島を破った。

試合後、高木はこう語った。

「寂しいけど、なんか複雑。ずっと天龍さんと一緒にやってきたから。終わってみなきゃ分かりませんから。寂しくなるかもしれませんね」

高木功は今も引退せずにリングに上がっている。
彼にとっての終着駅はどこになるのだろうか…。

高木功はまるで"双六(すごろく)"のようなレスラー人生を歩んできたのではないのかと私は考えている。
双六はサイコロの出た目によって駒を動かしあがり進めるボードゲームだ。
止まった場所によってはさらに進んだり、後退したり、振り出しに戻ってしまうこともある。
双六はまるで人生模様。
そして、その人生模様がここまで劇的で紆余曲折なのが、高木功のレスラー人生だった。

"行きつ戻りつ外れつつ"

一瞬の天国と多くの苦汁を味わい、時には生きる道を外してしまった全日本プロレス将来のエース候補と呼ばれた怪獣。
ジャイアント馬場が思い描いていた王道プロレスを体現してくれる男として託されていたはずのお男は"裏王道",あるいは"はぐれ王道"を歩んできた。

この男の生き方が正しいのか、間違っているのか、かっこいいのか、カッコ悪いのか、それは各々が見て判断すればいい。

そもそも生き方とは、考え方とは基本的にはみんな違ってみんないいのだから…。

「プロレスは難しい。だって答えがないでしょう。勝ち負けだけじゃない。じゃあ何かといったら…客も自分も相手もレフェリーも"この試合、よかったねぇ、凄かったねぇ!"って思わせなきゃいけない。それは難しいですよ」

プロレスに答えはない。
だからこそ、自分自身の生き方を問うために、審判を仰ぐために嵐こと高木功はリングで生きることを求めている…。