男は黙って飄逸に忠義を往く~日本最高の職人レスラー物語~/保永昇男【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第122回 男は黙って飄逸に忠義を往く~日本最高の職人レスラー物語~/保永昇男
シリーズ 職人レスラー②



日本トップクラスの職人レスラー・ヒロ斎藤はあの日のことを忘れない。
長年、日陰を歩んでいた"職人"の晴れ舞台。
1991年4月30日、新日本プロレス・両国国技館大会。
「第二回トップ・オブ・ザ・スーパージュニア決勝&IWGPジュニアヘビー級王座決定戦」

"職人"の対戦相手は"ジュニアのエース"獣神サンダー・ライガー。
両国国技館というビッグマッチで初めてジュニア戦士が務めたメインイベント。
ヒロは"職人"が在籍していたユニットの仲間だった。
"職人"の苦労も実力も一番間近で見てきた。
だからこそ、ヒロは願った。

「この晴れ舞台で彼に報われてほしい…」

そう思うとヒロはセコンドとして試合中、声が枯れるほど"職人"に声援を送っていた。

全日本プロレス総帥・ジャイアント馬場はこの日、不測の事態に見舞われていた。
1985年、ある日のアジアタッグ選手権試合で王者組の一人がケガが急きょ欠場することになった。
王者組は当時、全日本と業務提携していたジャパン・プロレスの選手達だった。
ジャパン側は王座を返上する意思を固めていた。
しかし、馬場はジャパン側に予想外の提案をする。

「彼を代理の王者として認定するよ」

彼は当時、日本ではタイトル歴もタイトル挑戦歴もないあの"職人"。
こうしてプロレス界でも異例の代理王者が誕生した。
馬場が"職人"の技量を最大限評価していたからこその抜擢だった。

馳浩はあの光景を回想する。
1991年のIWGPジュニア戦を控室のモニターで選手達は観戦していた。
すると、当時の新日本で山本小鉄と共に一目置かれていた大御所・星野勘太郎はこう語った。

「この試合はあいつのものだよ。あいつは物が違うよ。本当にうまいプロレスラーになったよ」

それは勝敗だけでない、この試合全体を彼は支配しているという意味だった。
星野が言うあいつはあの"職人"だった。
馳は心の中で思った。

「あの厳しい星野さんがここまでほめるあの人は凄い!俺も星野さんに褒められるプロレスラーになりたい…」

大谷晋二郎は「あなたにとって理想の引退試合は何ですか?」と問われるとあの"職人"の引退試合を上げる。
ジュニア時代の大谷は"職人"とタイトル戦でも世代闘争でも幾度もなく対戦し、心の底から尊敬していた。大谷は金本浩二、高岩竜一とトンガリ・コーンズという新世代ユニットを結成していた。
だから"職人"の引退試合に自分達が選ばれなかったことにどうしても納得できなかった。
そこで大谷達の想いに"職人"は思わぬ行動を起こす。
人は"職人"をこう呼ぶ。

「最後の職人レスラー」
「男の中の男」

"職人"の名は保永昇男。
ジュニアヘビー級の名脇役として、時にはワンポイントリリーフとして主役も張った男。
この男こそ、私は日本最高の職人レスラーではないかと考えている。
今回は職人レスラー・保永昇男のレスラー人生を追う。

保永は1955年8月11日東京都足立区で生まれた。
彼がプロレスラーを志すようになったのは中学生の時。
中学、高校と柔道を汗を流す一方で、家の近くの運送屋が請け負っていた全日本プロレスのリング屋のアルバイトをしていた。
高校卒業後、保永は北海道短期大学に進んだ。

「元々プロレスラーになるつもりでしたし、四年間大学はきついなと。それで二年制の大学に行くことにしたんです」

しかし、この短大にはレスリング部がなく、レスリング経験者の先輩と二人で練習を積んでいたという。
短大卒業後、全日本プロレスの入門テストを受けるも不合格。
それでもプロレスラーになることを諦めなかった保永は植木屋、配達の仕事で働きながらボディービルで鍛錬した。

1979年3月に保永は新日本プロレスに入門する。
そこで味わったのは新日本のレスラー達の強さだった。

ミュンヘン五輪に出場したレスリングエリート長州力との初めてのスパーリングでは全く相手にならなかった。どんなに技を仕掛けても長州は微動たりしなかった。
道場番長・藤原喜明とのスパーリングでは"ラッパ"(上四方固めから寝ている相手の顔に腹部を乗せて呼吸を止めるテクニック)をかまされ、子供扱い。
その洗礼はプロレスラーになるための登竜門だった。

一年間の修業期間を経て1980年4月25日、斎藤弘幸戦でデビューを果たす。
斎藤は後にヒロ斎藤に改名し、保永とは盟友関係となる。
斎藤は保永についてこう語っている。

「保永選手は誰にも負けないくらい練習量が凄かった。身長はあったけど、練習のし過ぎで太らなかったんです」

1982年11月に保永はメキシコ遠征に旅立った。
ヒロ斎藤、平田淳二(スーパー・ストロング・マシン)らと行動を共にし、ルード(悪役)として経験を積んだ。
1984年3月に日本に帰国した保永だったが、目立った活躍ができず、1984年9月に長州力率いるジャパン・プロレスに合流し、新天地を全日本プロレスに求めた。

前座戦線で試合を続ける保永。
182cm 92kgの肉体と確かなプロレステクニックを評価したのが馬場だった。
1985年にアジアタッグ王者だったアニマル浜口が負傷欠場することになった時、馬場は迷わずに保永を代理王者に指名した。日本ではタイトル歴もタイトル挑戦歴もなかった男は闘わずして寺西勇と共にアジアタッグ王者となったのだ。

「俺の場合はジャパンとして全日本プロレスに上がっていた二年間は凄い勉強になった。全日本の外国人選手は、身体が大人と子供ぐらいの差があったとしても、受けるところは受けてくれて、試合を成立させてくれるんですよ。でも、新日本の外国人選手はそうではなく、最初からぶっ潰しにくる。そんな感じだったから全日本ではどんな相手とでも成立させる試合の組み立てを学びましたね」

1987年、ジャパン・プロレスは崩壊し一部選手を除き、長州力を筆頭とした多くの選手達は新日本プロレスにUターンした。保永もその中の一人だった。

新日本に戻っても保永はなかなか前座戦線から抜け出せなかった。
目の負傷もあり、チャンスがつかめなったこともあった。
一年、一年と続く日陰のプロレス道。
そんな日々を変える転機となったのが1989年、ヒロ斎藤、後藤達俊とブロンド・アウトローズというヒール・ユニットを結成する。後にマシンも加わった悪役軍団はまさしく仕事人集団だった。

「ブロンド・アウトローズはある意味、自己満足の世界だから。"自分達が面白いんだから、客も面白いんじゃないの?"って。俺は相手の攻撃を受けられないとヒールじゃないと思うんですよ。ヒールは脇役。ベビーフェースのいいところを出せないんだったら、俺はヒールとして認めないというか。ベビーフェースのいいところを引き出しつつ、お客さんを沸かせて、それで"しめしめ"とこっそり舌を出しているのがヒールですよ」

ブロンドでは名参謀、影のボスとして暗躍した保永が表舞台に登場したのが1991年の「第二回トップ・オブ・ザ・スーパージュニア」だった。
IWGPジュニア王座が賭けられたこの大会、保永が優勝すると予想した者は皆無に等しかった。
保永はなんと決勝進出を果たし、この大会のためにIWGPジュニア王座を返上した獣神サンダー・ライガーと対戦した。ブロンド・アウトローズは一丸となって保永をサポートした。保永のためにメンバーが騎馬をつくって入場してきた。
試合前からヒールの保永への声援が多かった。
ファンの声援が男を奮い立たせた。

持ち前のテクニック、本部席へのパワーボムや、急所蹴り、ライガーのマスクに手をかけるラフファイトと己の持てる技量と器量を爆発させる。
特にロープに振られたときに相手の股下を滑り込んで丸め込む"スライディング式足掛けエビ固め"と流れを変えるフライング・ネックブリーカー・ドロップ(ランニング・ネックブリーカー・ドロップ)は会場を大歓声が沸き起こった。
保永は飛びつき回転エビ固めやラ・マヒストラルなどクイックと呼ばれる丸め込み技の名人なのだ。

「保永」コールの両国国技館。
ライガーの波状攻撃にも耐え、ダイビング・ネックブリーカー・ドロップ、ジャーマン・スープレックス・ホールド、初公開のクロスアーム・スープレックス・ホールドでライガーを破り、保永はスーパージュニア優勝&IWGPジュニア王座戴冠した。
誰も予想できなかった結末。
新日本ジュニアの頂点に立ったのは一人の職人レスラーだった。
ブロンド・アウトローズの仲間達は"本日の主役"保永を肩車で上げていた…。

保永が勝った瞬間、セコンドのヒロは鳥肌が立っていた。そしてこう感慨にふけっていたという。

「今まで地味な存在だった保永選手が晴れ舞台で目立ってくれて本当によかった…」

保永はあの日のことをこう振り返る。

「三人(ブロンド・アウトローズのメンバー)が自分のことのように喜んでくれたのが嬉しかったですね」

保永は"いぶし銀"として新日本ジュニアのトップ戦線に加わった。
ライガー、ワイルド・ペガサス(ペガサス・キッド/クリス・べノワ)、エル・サムライ、ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)、金本浩二、大谷晋二郎、高岩竜一、ケンドー・カシン、デーブ・フィンレー、ネグロ・カサス、ザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィンといった1990年代の新日本ジュニア黄金期を支えたスターたちの中に職人・保永の存在感は際立っていた。

保永のライバルであるライガーはこう語る。

「あの時(1991年のスーパージュニア)、保永さんの参加はたぶん長州さん(当時の現場監督)が決めたんだと思います。後輩の僕がこういうことを言うのはアレですが、保永さんは凄い地味な感じだけど持っているものは凄いよ! 確実なレスリングをするから。僕はああいうタイプが苦手なんですよ。暖簾に腕押しみたいな感じで。感情を表に出さずに飄々と確実なレスリングをやられると、こっちもあれよあれよという間に保永さんのペースに引きずり込まれる。僕も世界のいろんなところで試合をしましたけど、やっぱり王道と言われた全日本のプロレスは、基本というか世界に通じると思います。だから保永さんがそういうスタイルを確立したのは当然だと思います。あの決勝戦のお客さんの爆発は凄かった。ジェラシーにも似た気持ちが沸くぐらいの大保永コールだったことも覚えています。保永さんがジュニアに参入したのは大きかったですね。ジュニアが幅広く厚くなりましたよ」

ただ保永自身は自己主張することなく、与えられた任務を確実にこなしていった。
男は黙って飄逸(ひょういつ)に試合をする。
それが保永昇男という男だった。

1994年9月、ジュニアを牽引するライガーが長期欠場に追い込まれた時、ライガーの代打としてジュニア戦線を牽引したのが保永だった。
IWGPジュニア王座決定トーナメントを制した保永は6度の防衛を果たし、1995年2月に海外遠征から凱旋した金本浩二に敗れ王座転落した。そして、保永は再び前座戦線に戻っていった。

「俺の中には"自分はトップではない"という気持ちが底辺にあった。だから世代が変わったとかは意識していなかった。その日、一番声援をもらったのが、その日のトップであって。ベルトを取らようが何しようが気にしなかった」

飄々と仕事をこなしていく職人レスラーに悪夢が襲ったのが1995年9月。
高岩竜一戦で右足アキレス腱断裂という重傷を負い、長期欠場に追い込まれた。
実は保永は長期欠場前にある異変が起こっていた。

自律神経失調症。

「昔、船木誠勝の蹴りでやっちゃった右目の状態がよくなかったんです。後ろ回し蹴りが右目の入って、お岩さんみたいに腫れちゃって。医者には『絶対に安静にしてください』と言われたけど、長州さんに『バカ野郎! そんなの三日も休めば十分なんだ!』と言われてすぐに復帰したんです。そうこうしているうちに自律神経がおかしくなって、右足のアキレス腱を切っちゃって…」

その後、1996年5月に復帰し欠場前と変わらない仕事ぶりを発揮していたものの、保永自身では違和感があったという。

「アキレス腱を切った右足と健康な左足とでは可動域が違うんです。そうすると動きすぎる左のアキレス腱を切っちゃったような気がして、左足首をテーピングして右と同じぐらいの角度しか動かないようにしました。空足を踏むのは怖かったけど、徐々に慣れていきました」

当時はライガー、サムライ、カシンといったマスクマントリオと金本、大谷、高岩のトンガリ・コーンズという世代闘争が勃発していた。保永はライガー達を援護する助っ人役に徹した。
違和感はあるものの、職人レスラーとしてキチンと仕事をこなしてきた保永だったが…。

1998年の契約更改時に長州からこう宣告された。

「お前、レスラーとしてはこれだから(クビ)。レスラーなら一年契約、引退してレフェリーになるなら二年契約。黙ってレフェリーになりますと判子を押せ。それがお前のためなんだ」

保永は黙ってこの条件を飲み、同年4月30日に引退することになった。
それでも内心は穏やかなものではなかった。

「本音は、あなた(長州力)は新日本からスカウトされて入った人かもしれないけど、俺は中学生からレスラーになりたくて10年ぐらいトレーニングして、きっかけをつかんで何とかなれた。それでいきなりクビだというのは…という思いでした。内臓疾患もないし、身体も動きましたから。でも、あとから考えれば、レフェリーの席に空きはなかなか出ない。引退してレフェリーになった方が後々の生活には困らないと考えてくれたのかなと」

あのポーカーフェースの保永はこの宣告後、自宅で悔しくて泣いていたという。
保永は引退会見を行った。

「引退を決めた理由はあまり自分の記事を書いてくれなくなりましたので…」

いつもの飄々とした口調で語る保永。
しかしそんな保永がプロレスマスコミに語り始めた。

「俺の引退とは関係ないんだけど、あんたたち(記者)の記事一つでさ、レスラーを生かすことも、殺すこともできるんだからさ。言葉の暴力はやめましょう」

それは一時期、新日本に参戦した元FMWの南条隼人の参戦について、「新日本についていけていない」と一部マスコミから批判があったのだ。保永は南条が陰で努力している姿を見ていた。だから、引退会見の場だったが言わずにはいられなかったのだ。

「将来のある選手なんですからね。頑張っていたじゃないですか? 新しい風を吹き込みに新日本に来てくれて、ケガをしながらも一生懸命にリングに上がって、そういうガッツ、頑張りを書いてほしいんです。あんた達の筆一本で生かすも殺すも出来るんだから。お願いします。これが私から引退に際してのお願いです」

自分だけでなく、他人にもさりげなく傷つけることなく気遣いができる男。
それが保永だった。

1998年4月30日、後楽園ホールで行われた保永の引退試合。
対戦相手はライバルのライガー。
だが、このカードに納得しなかったのがトンガリ・コーンズだった。

「なぜ、俺達が引退試合の相手じゃないんだ!」

三人とも主に対戦相手だった保永を尊敬していた。
だからこそ、保永の引退試合の相手として立ち会いたかったのだ。

試合はライガーが保永に勝利するも、コスチューム姿のトンガリ・コーンズが乱入し、試合を終えたばかりの保永を強引に起き上がらせた。

「もう一試合、俺達とやってくれ!」

保永は彼らの想いに見事に応えた。

「じゃあ最後にやってやる!」

ライガー、サムライ、保永VS金本、大谷、高岩の6人タッグマッチが急きょ組まれた。
保永はトンガリ・コーンズに徹底的に痛めつけられた。
保永は彼らの攻撃を受けきり、高岩にメキシコ遠征仕込みのウラカン・ラナを丸め込み、有終の美を飾った。

敵、味方関係なく保永は試合後、何度も胴上げされた。
こうして保永のレスラー人生は終わった。

プロレスライターの金沢克彦氏は保永をこう評している。

「保永を一言で説明すれば、まさに職人です。とにかくプロレスが巧い。また普段は温厚で飄々としているんですが、いざ怒るとあの金本浩二も引いたほどの気の強い面を見せるなど陰の番長的なところがありました。『世界最高峰』と言われた1990年代の新日本ジュニアにおいて保永が壁になりながら、大谷晋二郎や金本浩二を育てた部分もありますし、彼はジュニア黄金時代の礎を作った選手のひとりであると同時に昭和の厳しさを平成世代に伝えたレスラーといえます」

保永は引退後にレフェリーに転向するも、2003年に新日本を離脱し、長州力が旗揚げしたWJプロレスにレフェリー兼コーチとして参加した。

「10時ぐらいに道場に来て、11時からドッタンバッタンやっていた。稽古をつけるといっても年寄りの稽古だから、石井智宏なんかからしたら手応えなかったかもしれないけどね」

温厚で飄々とした保永だが、怒らせたら怖い男。
何しろあの長州力が「あいつとだけは喧嘩はしたくない」と語るほどだ。
練習をさぼったレスラーを竹刀でボコボコにしたこともあったという。

WJは伝説のズンドコ団体と呼ばれたほどの"時代錯誤"のプロレス団体だった。
経営難は旗揚げした2003年から直面していた。
レスラー達には途中から給料が支払われなくなっていった。
もちろん、レフェリーの保永にも…。

保永はWJを支えるために何でもやって、道場で料理をふるまうこともあれば、道場の器具の修理も自分でやった。リングの設営、撤収も手伝った。
WJは選手が次々と離脱し、長州力は石井智宏らとリキプロというプロダクションで再出発する。保永はリキプロに追随した。
WJ道場はリキプロ道場へ変わった。
道場に描かれたWJのロゴは保永がペンキで塗り直し、リキプロのロゴを描いた。
どこまで長州力についていった男、それが保永だった。

思えば保永にとって長州力は日陰のレスラー人生に光を与えた恩人だった。
その一方で強制的にレスラー人生を断ち切った介錯人でもある。
それでも保永は感情を内に秘めて長州への恩を大切にした。
またWJを去った選手達の悪口は一切言わなかった。
彼らの気持ちも理解できたからだ。
長州への、プロレスへの忠義。
それがあったから保永はぶれることなく生きることができたのだ。

「だって、行くところがなかったから…」

これが保永がリキプロに残った理由だった。

2009年3月、リキプロ道場は閉鎖された。

「みんなが集まられて"3月いっぱいでリキプロを閉めようと思うんだ"という話になったんです。長州さんは不動産屋にいって、雑務処理をすれば終わりと思っていたんでしょうけど、そうはいかない」

閉鎖された道場にはただ一人、掃除する保永の姿があった。
リキプロ道場を実質管理していた石井智宏が新日本ツアー真っ只中で不在だった。

建物は増築していたため、大家から元の状態に戻さないといけないと言われた保永は道場の修復工事をするために愛車を売り払い現金を作った。
修復工事後に見つかったキッチンの水漏れも、保永は自分で修復しペンキを塗り直した。
これらの作業を保永はたった一人でやり遂げたのだ。

後日、石井から「修復費は自分が支払います」という連絡があった。
最初は、「いいよ」と断ったが、さすがにここまで動いてもらっていて保永に負担させるわけにはいかない。石井の気持ちに保永は応え、お金を受け取ったという。
忠義を往く男はどこまでも飄逸だった。

何故、保永がプロレス界で男の中の男と呼ばれるのかは彼の生き方が全てを物語っている。

保永は近年、プロレスについてある名言を残している。

「俺なんか思うのは、プロレスっていうのは明日ある闘いをしているわけだから。そこは純粋な格闘技と違う部分だと思うし、相手を怪我させたり、お客さんを乗せるならともかく乗せられたらダメだと思うし。言われつくした言葉だけどね。バックドロップとかでも危ない角度で落としたりさ、ああいうのはナンセンスだと思うし」

プロレスは明日ある闘い。

これが日本最高の職人レスラーがたどり着いた境地だった。
そして明日があるからこそ、職人レスラーとして与えられた日々の任務をキチンとこなすことに意義がある。
その積み重ねがプロレス界に大輪の花を咲かせるのだから…。
トップに立てないとわかっているからこそ出来うる仕事も役割もあるのだ。

黙々と飄逸に忠義を貫いたプロレスラー保永昇男。
この男の生き様には心が痺れるダンディズムに溢れている。
そして、この男の生き様に多くの者が尊敬の眼差しを送っているのだ。