3年周期で見る覇王の変化論/中邑真輔【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第24回 3年周期で見る覇王の変化論/中邑真輔





今、プロレス界においてどんな相手でも名勝負にできるプロレスラーは誰なのか?

この問いに関しては、各々持論があるだろう。

私は近年、この問いに関して、この選手だと断言できる選手がいる。


”キング・オブ・ストロングスタイル”中邑真輔である。


彼のは、相手の攻撃をギリギリまで受け切った上で、最後に鮮烈に勝利する「風車の理論」を独自にアレンジした21世紀のアントニオ猪木である。


そういえばまだ彼がプロレス界で正当な評価を獲得する以前のことだ。

中邑と同じチームメイトである新日本のブッカー・外道がこのようなことを言っている。


「いま、ウチで一番いい試合をするのは真輔ですよ。その真ちゃんに(プロレス大賞で)なんの賞もないことが不思議だし、オレは悔しいんだよね!」


2002年にデビュー以来、エリート街道を歩んできた中邑だったが、実はプロレス界全体でその技量が評価されるようになったのはここ数年の話である。一時期は彼の試合は心ないファンからは「塩」だと酷評されていたこともあったのだ。

今の彼の試合を見て、塩だという人間はいないだろう。


中邑真輔というプロレスラーを考えてみると、面白いことに気づいた。

彼は3年周期で、レスラーとしての立ち位置の移行やターニングポイントを迎えて変化しているのである。

そこで史上最年少IWGP王者となった2003年から2006年、2009年、2012年のプロレスラー中邑真輔が歩んできた道を振り返ることで、彼がどのように変化してきたのかを考察してみることにする。


2003年

前年(2002年)の8月、元IWGP王者・安田忠夫戦で異例のデビューを果たした中邑は、年末でのダニエル・グレイシーとのMMA戦で敗退の傷が癒えない中、小原道由とのコンビでデビュー第2戦を迎える。対戦相手の安田忠夫&村上和成に血だるまにされ、劣勢に立っていた。しかし、一瞬の隙をついてのフロントネックロックで安田からギブアップ勝ちを収める。第2戦で元IWGP王者から勝利した新人。何もかも異例ずくめだった。

中邑はデビュー戦後、アントニオ猪木や会社から格闘センスが見込まれてアメリカで格闘修行に行かされることが多く巡業に参加していなかった。

新日本は中邑を格闘技路線のスターとして育成する計画があった。しかし、中邑は格闘技ではなく純粋にプロレスがしたい気持ちが強かった。だがその一方で、誰もやっていないことをやるわけだから、絶対においしいなという功名心も去来していたという。


5月のK-1戦士ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキアとのMMAに勝利した中邑はなんと、デビューして10か月で日本武道館のメインイベントの座を獲得する。相手はプロレス界の帝王・高山善廣。高山が保持するNWFヘビー級王座を懸けたタイトルマッチ。

中邑は高山からプロレスの洗礼を受ける。中邑のタックルに合わせて高山がカウンターのヒザ蹴りが炸裂する。本人曰く、この一撃で「死んだ!」と思ったという。目の焦点は合わない、脳震盪を起こすハプニング。もし格闘技なら即レフェリーストップとなる事態でも、プロレスの場合は試合続行となる。それがプロレスの恐ろしさなのだ。

その後、中邑はフラフラになりながらも立ち上がり反撃を試みるものの、帝王の攻撃を受け続けた。そして、得意のエベレスト・ジャーマンで敗戦。苦い敗戦だったが、中邑にとって「俺はプロレスラーなんだ」という主張が見えた試合だった。試合中に起こった中邑コールが全てを物語っている。


12月9日、中邑は天山広吉が持つWGPヘビー級王座に初挑戦。得意の腕十字で天山からタップを奪いデビュー最速、最年少での同王座戴冠を果たす。デビューして1年4か月、23歳9か月で新日本の頂点たってしまった。プロレスラーとしての技量や下積みを積まないで団体の王者となるという事態は今後のプロレス界においても恐らく彼しか出てこないかもしれない。この事態が後々に彼を苦しめる事態となる。


12月31日、IWGP王者となった中邑はなんと、K-1トップファイターのアレクセイ・イグナショフとMMAで対戦。3Rでイグナショフの膝蹴りを受けダウンし、すぐに立ち上がるもレフェリーの平直行が即座にTKOを宣告し敗北を喫するも、中邑側からの抗議によりジャッジを見直されて無効試合となる。


高山善廣とアレクセイ・イグナショフというヒザ蹴りを得意とする男達と2003年に対戦したことにより、必殺のボマイェが誕生したのだ。


2006年

IWGPを失い、宿敵イグナショフを破り、アントニオ猪木鉄拳制裁事件、新闘魂三銃士、棚橋とのイケメンタッグ結成…波乱万丈なレスラー生活を送った中邑は、会社から肉体改造のためアメリカで無期限武者修行を言い渡される。そこでロッキー・ロメロ、アレックス・コズロフ、カール・アンダーソン、プリンス・デヴィットといったかけがえのない仲間に出会う。彼はあらゆるトレーニングを積んだ。ウェイトトレーニングはもちろん、マニー・パッキャオが練習するジムでボクシングを習い、MMAのジムにも足を運んだ。食事は肉体改造のトレーニングのため、1日6~7食、1万キロカロリーを摂取するという過酷さだった。肉体改造がメインでアメリカに渡っているため、プロレスができないストレスを解消するため、ノーギャラでマスクマンに変身し、何試合か行っていたという。ちなみに対戦相手は、本名のチャド・アレグラを名乗っていたカール・アンダーソンだった。


102kgから117kgにまで体重を増加した中邑は会社からの指令により、日本に帰国することになる。そこで蝶野正洋率いるブラック軍に入り、レスラー人生初の反体制に回ることになる。

彼のターゲットはある男に絞られていた。

2006年7月に悲願のIWGP王者となった棚橋弘至。

中邑は棚橋の対角線に立つことで、ライバル関係を構築する道を選んだ。

12月、棚橋が持つIWGP王座に中邑が挑戦した。

結果は敗れたが、新日本を希望と光を導く永遠のライバル関係が誕生したのだった。


2009年

真壁刀義との抗争、肩のケガ、新ユニットRISE結成、二度目のIWGP戴冠、三代目IWGP所持者カート・アングルとのベルト統一戦、大きな壁として立ちはだかった天才武藤敬司、方舟の盟主三沢光晴との一夜限りの邂逅… 中邑は一喜一憂のレスラー人生を歩む。

そして4月、中邑は大きな賭けに出る。なんと当時GBHの智将矢野通が親分の真壁刀義を裏切り、中邑と結託。後に本間朋晃以外のGBHメンバーとともに極悪ユニットCHAOSを結成した。

このCHAOS入り後の中邑は快進撃を続ける。

他のメンバーのように反則攻撃はしないが、打撃主体の殺伐なスタイルへと変貌を遂げた。

9月にはG1覇者真壁刀義を破り、三度目のIWGP王者となる。

そして試合後、彼は爆弾発言をする。


「猪木!旧IWGPのベルトは俺が取り返す!」


因縁のアントニオ猪木に喧嘩をふっかけたのである。本人としては話題作りと本気の部分を加味した発言だったが、当然フライングだったので、後日会社から苦言を呈せられたという。ユークス体制以後の新日本において、創設者アントニオ猪木はタブーになっていた。中邑自身は猪木と闘いたい意向もあったらしいのだが、猪木本人に闘う意思がなく、また中邑がIGFに乗り込んでまで試合をする気はなかったため、この問題は一区切りついた。


しかし私はこの発言以後、中邑は例え対戦できなくても、試合内容での猪木越えを意識するようになったのではないかと考える。

三度目のIWGP戴冠後の防衛戦は本当に素晴らしい試合を連発した。 殺伐なスタイルにギリギリまで受け続けて、相手の良さを引き出す中邑プロレスは、徐々に浸透していった。ちなみ外道がこの頃から中邑真輔が新日本で一番いい試合をするレスラーだと評価していたのだ。


2012年

IWGP王座転落、G1での名勝負連発、潮崎豪とのライバルストーリー、悲願のG1優勝と、実績と内容でも評価されるようになった中邑は、この頃から殺伐さを通り越した唯一無二の存在になっていく。ファイトスタイルは入場時や試合中に随所でクネクネと体を脱力させるという独自のムーブが目立つようになり、あの雄叫び「イヤァオ!」や「滾る」というフレーズを使用し出したのもこの年だった。使用する技も厳選するようになった。以前使っていたスープレックスはほとんど出さなくなっていった。


7月に後藤洋央紀を破り、今では中邑の象徴となったIWGPインターコンチネンタル王座を獲得する。そこで中邑は、当時の10円玉ベルトと言ったベルトデザインを会社に作り直しをさせ、白色のベルトに変身させた。彼は決意する。


「このベルトをIWGP以上の価値にまで持っていく!」


口だけでは誰も信用しないことは中邑自身が知っている。後藤洋央紀、カール・アンダーソンとの防衛戦でベルトの価値を少しずく上げていく。そして、世界が認める総合格闘家桜庭和志と対戦することになるのであった。そして最終的に彼の野望となったIWGPインターコンチネンタル王座はIWGPヘビー級王座と同等の価値にまで引き上げることに成功したのである。


こうして振り返ると、強引かもしれないが彼のプロレス人生は3年周期で変化を遂げている。

史上最年初IWGP王者となる一方で、厳しい洗礼を味わった2003年。

無期限海外武者修行から帰国後、若きエース棚橋弘至の反対側に立つことで永遠のライバル関係誕生のきっかけをつくった2006年。

極悪集団CHAOS結成後、取り澄まされたファイトスタイルに変貌を遂げ、また名勝負を連発していった2009年。

殺伐を越えた唯一無二の存在となり、己の象徴となったインターコンチを戴冠し,「イヤァオ!」や「滾る」といった中邑用語が誕生した2012年。

現状維持に甘えず、進化したり、変化していくことを恐れず、刺激を求めて、なりたい自分になることに全てを捧げ研鑽を重ねることで、自身がアイデンティティーにしているストロングスタイルを鮮やかな色彩で表現できる域にまで達することができた冒険家のような生き方。

それが中邑のプロレス人生だったように思える。

ただ彼はまだ変化の途中である。


中邑真輔はこう語る。


「俺はプロレスとはこういうものという既成概念を変えたい。単なる格闘技やスポーツではなく、もっと見る側の感性を揺さぶるエンターテインメント、違い価値観に昇華したい。プロレスは芸術だ。他人の心に『なんだコレ!』と引っかかるようなものを創りたい。今のところプロレスラーになる前に思い描いていた以上のキャリアを歩めていると思う。あとはこれから自分の知らない自分をどれだけ築き上げていけるかどうかかなと。」


ちなみ中邑真輔3年周期説が正しければ、今年2015年が大きく変化する一年となる。

果たして、2015年の中邑真輔はどんなグラデーションでプロレスを表現してくれるのだろうか?

彼の生き方を紐解くことによって得た結論がある。それは…


「もはや中邑真輔という生命体がいびつに模様やデザインを変化し続ける芸術作品なのである」















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