フランク・ロイド・ライト生誕150周年 明治塾 その2 | Ju Design 建築設計室 のこんなこと

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あったこと、考えている物事などなど綴ってます。

早速前回の続きになりますが、

明治塾の講習会について書いていきたいと思います。

 

 

2回目に登壇された藤森照信氏は自身の事は語らず、

フランク・ロイド・ライトについて面白い講義を聞いているような内容でした。

3者ともよかったのですが、一番聞いていて充実したように感じます。

この時から受講者の数は200人くらいになっていたと思います。

 

 

 

ライトの経歴を時系列に並べ、自身の解釈も交えながら分かり易く、

アメリカまで行ってライトに直接学んだ4人の日本人との交流(全員では無いです)から、

直接聞いた人柄、逸話なども語られていました。

 

ライトを簡単にまとめられていたのですが、

「若いころは先端で、晩年は人を惹きつけ、流行に流されず生涯いいものを作り続けた」

これが長く評価され続けている理由であるとのことです。

これはライトに限らず、自分の変わらないモノを持っていて、

細かいところに特徴がある人は生き残っていると言われていました。

 

またライトとコルビュジェの違いとして、

ライトは実物を見た時を大切にしていて、

コルビュジェは写真映えする姿を大切にしていたとのことでした。

もちろんコルビュジェの建物も実物を見た時迫力があるのですが、

ライトの建物は写真では写りきらない魅力があるそうです。

これはなんとなくわかるのですが、

ライトの建築は細部のディテールもさることながら空間の動きがすごい。

外も中も一見するだけではわからず、少しずつ動いた時に見る姿が全く違って見えたりします。

 

ライトは日本に来ていた時など色々と女性関係が複雑なのですが、

施主の奥さんと仲良くなるのが得意だったみたいです。

これは人を惹きつける魅力があるためでそのような行動を演じていたそうです。

そのため女性に限らず周囲の人たちも惹きつけていたようです。

 

ライトの始まりはアーツアンドクラフト運動と重なり、

アールヌーボを使うサリバンのところへライトが行ったところからだそうです。

サリバンがアールヌーボの流線的な装飾をフリーハンドで描いていたのをライトは描くことができず、

それがきっかけで幾何学模様を描くようになったそうです。

 

シカゴ万博の時にサリバンと別れることになるのですが、

そのシカゴ万博はホワイトオースティン運動から全体がギリシャローマ風の建物ばかりだったのですが、

その中にライトの設計した日本館と、サリバンとライトが設計した交通館の2つだけが違った見た目をしていました。

このことがホワイトオースティン運動をしていた町民たちの反発を買い、

アーツアンドクラフト運動をつぶそうとし、サリバンは仕事が無くなってしまったそうです。

 

この時に設計した日本館がライトの設計スタイルの原点になります。

日本館は平等院鳳凰堂を模して作られました。

ここで間仕切や縁側、軒によって連続性を持つ日本建築の平面に興味を持ちます。

 

ライトはこれをきっかけに日本で住宅の依頼を受けて日本に来ることになったそうです。

ライトが日本建築を模した建物は日本館以外にもあり、

コンティチャーチでは日光東照宮の平面計画をそのまま利用していたそうです。

ここでは一つの屋根の下に棟を2つに分けて空間の流動性を取り入れたとのこと。

また柱とガラスのラインをずらしてそれまで柱で分断されていた窓を連続的につなげることで、

外とのつながりを作ることを初めてしたと自負していたのですが、

この考え方は日本では当たり前のように雨戸など縁側の外側にあるものとして使われていた。

日本の雨戸はライトの事務所にいたアントニン・レーモンドが絶賛していたみたいです。

 

このガラス面をずらす納まりは、話を聞いて知ったのですが帝国ホテルでも使われていました。

 

 

 

そしてライトの特徴でもある壁面のモールですが日本の真壁がルーツだそうです。

欧米ではレンガ造りのためそれまではあまり見られなかったとのこと。

 

 

また、ライトはこのモールを角に付けていないのですが、

それは連続性を大切にして壁と天井などがつながっていくように見えるようにしているためだそうです。

 

ロビン邸では日本の軒を取り入れ、

また平面計画では十字スタイルを採用して日本的な考え方を展開します。

この建物がプレーリースタイル(平原に建つ)の非対称と直線の建築スタイルを作りあげたそうです。

 

ライトはこれらの図面を平面的に読み解いた本を当時先端だったドイツで出版し、

それまで装飾や外観などでデザインをしていた考え方に衝撃を与えたそうです。

そしてその図面の中でのエレベーションでは木などを抽象的に書いて浮世絵のレイヤー表現を模したそうです。

ライトは浮世絵の収集家であったことからもそうなんだと思いますよね。

この本に特に影響を受けたのがグロピウスだったそうで、バウハウスがこの後生まれています。

 

その後もライトは装飾性を捨てず、古臭くも感じられたがスタイルを確立していきました。

そして日本に戻ってきてプレーリースタイルで自由学園を作り、

六甲にある山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)ではプレーリースタイルを捨てて縦に積み上げた住宅を建築していきます。

山邑邸は行ったことがありますが帝国ホテルに近いフォルムをしていながら山の中にあるので圧巻です。

 

 

これらからライトの建築は日本建築から多大な影響を受け、

そのスタイルを世界に広め、今のモダニズム建築の礎を築いていったそうです。

このようなつながりは正直初耳でした。

 

藤森氏は最後に建築をする人へコメントを残していました。

「どこがいいのかを言語化しておく、汚くてもスケッチする。」

いいこと悪いことが言語化できなければ敗北と言われていました。

常に自身の建築を評価し続けていると感じました。

 

 

講演で話していた貴重な内容をほとんど載せてしまいました(笑)

やはり長くなってしまったので一回ずつ紹介していきたいと思います。

次回もお付き合い宜しくお願いします!