戦場の真実 「ミッドウェー海戦」 | 戦車兵のブログ

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ミッドウェー海戦は大東亜戦争の分岐点とも言える。

 

大東亜戦争は太平洋での戦いでもあり制空権制海権を維持するには空母機動艦隊抜きには考えられない。

 

その空母機動艦隊を失った日本海軍の戦いは後の戦いに大きく影響し・・・・・。

 

動画はアメリカ目線である。

 

日本はこういう敗北の検証や教訓・戦訓を後々にまで活かしただろうか?

 

それを考えることが大事なんだと思う。

 

失敗は隠し隠蔽する、そういう体質は今も大組織にある。

 

こういう体質はかならず次の大失敗を招き大敗北につながるのだ。

 

 

ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ合衆国標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする見解もある)にかけて、中部太平洋上のアメリカ合衆国領ミッドウェー島付近で行われた海戦。

 

同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ軍が迎え撃つ形で発生。

 

日本海軍空母機動部隊とアメリカ海軍空母機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその艦載機約290機の全てを喪失した。

 

ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止され、日本の敗北へ至る転換点となった。

 

 

連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり[33]、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた[34]。一方、軍令部では、ミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃して来るとは考えにくいと見ていた[13]

作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した[35]

  1. 空母レンジャー大西洋で活動中。
  2. 捕虜の供述によればレキシントンは撃沈されたようであるが、アメリカ合衆国西海岸で修理中という供述者もある。
  3. エンタープライズホーネットは太平洋に存在。
  4. ワスプの太平洋への存否については確証を得ない。
  5. 特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。

 

 

これを踏まえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した[36]。アメリカ軍が同島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり[37]、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測[38]。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている[39]。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった[40]

 

作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で島のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月はが多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった[41]

 

 

 

MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将は、ドーリットル空襲の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の図上演習で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から、陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった[42]

 

戦後、草鹿は作戦目標が曖昧でミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している[43]。 第一航空艦隊源田実中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた[44]源田実は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、戦艦大和と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという[45]

 

戦後、日本の空母三隻が被弾、炎上する直前に赤城では攻撃隊の戦闘機が発進しようとしており、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたとする話が紹介された。

 

 

これは「運命の5分間」として広まったが、第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介が『文藝春秋』の昭和24年10月号に書いた手記「運命の海戦 ミッドウエイ洋上、五分間の遅れが太平洋全海戦の運命を決した!!」が最初である。

 

 

また、昭和26年に出版された淵田美津雄(海戦時、病気で横になって赤城の発着指揮所から見ていた)と奥宮正武との著書でも「運命の5分間」が書かれた。

 

「被弾した時(日本の三空母が急降下爆撃された時)、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、アメリカ軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と淵田中佐は記述している。

 

この本は『ミッドウェー』であるが、その影響は大きく以後日本のミッドウェー海戦に関する戦記はこの本の記載を概ね踏襲したものとなった。

 

 

また『ミッドウェー』は昭和30年代に英語版で出版されており、アメリカ海軍の歴史家サミュエル・モリソンの著書『History of United States Naval Operations in World War II』のミッドウェー海戦に関する章が、英語版『ミッドウェー』の記載に沿う形で増補改訂されたことから一般的な説として広まったという意見もある。

 

英語版『ミッドウェー』が出版された後に出版されたミッドウェー海戦の戦記では、執筆に協力したマクラスキー少佐やベスト大尉等のアメリカ海軍のパイロット達が「各空母の甲板には航空機は並んでいた」と述べたことも相まって、海外においても「運命の5分間」はほぼ定説と見られるようになったとする意見もある。

 

 

しかし、戦史叢書『ミッドウェー海戦』には、第一航空艦隊の戦闘詳報を元に「この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない」と記載されており、10:20に出されたとされる発艦命令は10:22に出された「上空直掩機は準備ができ次第発艦せよ」という命令が誤解して広まったものだとしている。

 

また、各空母の複数乗員は「攻撃隊は並んでいなかった」「上空直掩を行う戦闘機の準備がなされていた」という回想を残している。

 

 

第一航空艦隊航空参謀だった源田実も5分説を採用していない。

 

赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している。

 

蒼龍雷撃隊の森拾三兵曹は被弾後に搭乗員待機室から外に出た際に、「艦爆搭載の250kg爆弾が格納庫の中で誘爆している」と聞いたという。

 

また、アメリカに残された赤城の日誌等の日本資料を調査したJ・パーシャルやA・タリーの調査では、B-17が撮影した蒼龍、飛龍、赤城の飛行甲板の写真に航空機は並んでいない事から、山口の進言に従っていれば「運命の5分間」は避けられたとする説には無理があるという意見もある。

 

しばしば使用される「運命の5分間」というのは単なるたとえであって、実情が5分でないことは昔からわかっていてはるか以前から死語になっているという主張もある。

 

 

「運命の5分間」が生まれた理由は次のように考察されている。

 

戦時中捕虜となった豊田穣は、ハワイでミッドウェーの報道を新聞で読んだ中に、数分あれば日本の攻撃隊は全機発艦完了して勝敗は逆になっていたというものがあり、草鹿、淵田は戦争直後にアメリカの調査と接触しているため、5分説はこの辺から出てきた可能性を述べている。

 

攻撃隊の発艦準備が進んでいれば戦闘機の発着艦も不可能なはずだが、各空母は被爆する15分前から上空直掩用の戦闘機を複数回発着しており、各空母が攻撃隊の準備を完了していたとは考え難いこと、合わせて当時攻撃を行ったアメリカ海軍のパイロット達も「各空母の甲板に航空機は並んでいたのは確かだが、そんなに多くは並んでいなかった」との証言を残していることを踏まえ、アメリカ軍の急降下爆撃を受けた際には攻撃隊の発艦準備は終わっていなかったと考え、「運命の5分間」は当初第一航空艦隊司令部が出した発艦準備完了時刻が10:30であったことと、南雲長官が10:22に出した上空直掩機の発艦命令が誤解されて広まったのではないか、という意見もある。

 

再度の兵装転換であと30分も40分もかかってしまったでは身も蓋もない。あと5分の方が読む方も口惜しく感じること、一瞬で負け戦に転じた事への万感胸に迫る思いがこの言葉にあることから定着してしまったという意見もある。

 

 

草鹿参謀長や淵田中佐が、攻撃隊の発艦準備が整っていなかったにも関わらず「あと5分の余裕があれば」と劇的なストーリーに脚色した事について、南雲司令部の決断ミスによって敵空母対策が後手に回った失態を包み隠そうとしているとの意見もあるが、草鹿参謀長は著書で敵空母への攻撃が後手になった責任を記述している。

 

第一航空艦隊司令部航海参謀だった雀部利三郎は、5分間というのは草鹿のその場の実感だろうという。