1930年代以前までのソ連赤軍の主力小銃は、ロシア帝国時代から製造されていたモシン・ナガンM1891であった。
この小銃は帝政ロシア時代のセルゲイ・モシン大佐とベルギー人のエミール・ナガン、レオン・ナガン兄弟によって開発されたボルトアクションライフルで、1891年に帝政ロシア軍に制式採用された。
当時の小銃は単発後装が主だったが、M1891は5連発の弾倉を装備することで火力も格段に上がった。
しかし銃の全長が長く、戦場で使うのにはいささか不便であった。
しかし、改良は行われており、1924年には、E.カバコフとI.コマリツキーが、剣留めをスプリング式リングに変更してグラつきを無くした。
パンシンは照星覆いを開発し、装弾クリップも単純化し、照尺も頑丈なものに変更された。
だが、タンジェントサイトの距離表尺の標示に帝政ロシア独自の単位であるアルシンを使用していたため、兵士の間では不評であった。
赤軍部内でもM1891の陳腐化に伴い、新型小銃の開発が不可欠であると判断された。
そこで1920年後半に入ってからM1891の改良型の開発に着手しはじめた。
M1891/30はM1891で問題があった点を改良している。機関部の構造や使用弾薬など基本的にはM1891と変わらない。
新規製造されたものと、既存のM1891からM1891/30相当に改修されたものの2種類存在する。
銃身長を10cm程短くし、M1891の騎兵用モデルであったドラグーン・ライフルとほぼ同じ長さになった。
リア・サイト(照門)の、距離表尺の標示を、アルシンからメートル法に変更。更にリア・サイトとフロント・サイトが強化され、フロント・サイトに筒状のカバーが付けられた。
生産簡略化のため、機関部前方にある銃身受部が、六角形から円筒形へ変更。M1891からの改修型は、六角形のままである。
木部については工場や製造時期によって単材製と合板製の2種類がある。
銃剣については、M1891と同じスパイク型を使用。
第二次大戦中のソ連軍では、銃剣は着剣状態で携行するため、鞘が付属しておらず、銃剣状態で射撃することが基本とされていた。
照準も着剣状態に合わせて調整しているため、銃剣を外して撃つ場合、改めて調整し直さなければならなかった。
M1891の後継小銃としてようやく登場したM1891/30は、第二次世界大戦を通してソ連赤軍にとって代表的な小銃となった。
主力小銃として開発されたM1891/30であったがソ連の広報、プロパガンダでは狙撃銃型の写真がよく使用された。
そのため一般にはM1891/30は狙撃銃として認識されることが多かったようである。
1940年、M1891/30の後継小銃としてトカレフM1940半自動小銃が登場した。
だが、不具合が多くてまともに使用できなかったため、置き換えに至らず、M1891/30は現状維持のまま戦線で使用され、1944年まで生産が続行されている。
1944年、M1891/30小銃とM1938騎兵銃を統合したM1944騎兵銃が登場し、戦後も1946年まで生産された。
交戦したドイツ国防軍も多数鹵獲し、それぞれの型に独自の名称を与えた。
ドイツ軍は特に狙撃銃型を「7.62mm ZielGew256(r)」の名称で盛んに使用した。
M1891/30は「Gew254(r)」の名前で、現地仕様以外にも親独ロシア人部隊やドイツ側保安部隊でも使用され、1944年には国民突撃隊にも交付されている。
M1938は「Kar453(r)」として、警備隊や警察部隊が使用していた。
M1944も若干数鹵獲していたようで「Kar457(r)」の名称を付けている。
フェドロフM1916とは1913年にロシア帝国軍が採用し、1916年に配備された自動小銃である。
20世紀初頭の水準では弱装である日本の6.5mm×50SR弾(三八式実包)を使用し、フルオート射撃時の反動を抑制し、「個々の兵士が携行できる軽量フルオート小銃」という、後のアサルトライフルと同じコンセプトを世界で最初に実用化した製品である。
フェドロフM1916はロシア革命の混乱の中で少数・短期間の配備に止まった過渡期の製品だったが、開発者のウラジーミル・グリゴーリエヴィチ・フョードロフ(後に中将)はソ連軍及びロシア軍で採用された各種銃器の開発を牽引して多くの銃器デザイナーを育成し、1943年から始まった小銃弾と拳銃弾の中間の性能をもつ弾薬の開発と、それを用いるRPD軽機関銃やSKSカービン、AK-47などの開発で中心的な役割を果たした。
ショートリコイル方式の銃器は射撃時に銃身が前後するため、銃身が固定されたボルトアクション方式と比較すれば命中精度が劣り、小銃に採用される事は稀で、一般には拳銃や短機関銃に採用される事が多い。
スムーズに銃身を前後させ、白兵戦時に銃身を掴まれるなどして作動不良を招かないように、銃身はストックおよび放熱筒で覆われており、銃身に過剰な負担をかけないために、銃剣はストック部放熱筒に固定される構造となっていた。
セルビア人の汎スラブ主義を煽っていたロシアにとって、これと鋭く対立していたドイツとの衝突が現実となれば、ロシア軍もまた塹壕陣地と対峙して大損害を被る事は明白であり、ロシア軍がドイツ軍に対して有していた大兵力のアドバンテージが封じられてしまう事が予想されたため、ロシアは他の欧州諸国より先んじて塹壕陣地突破の戦術を研究しており、ブルシーロフによる独自の浸透戦術の実践が進められていた。
ブルシーロフの浸透戦術には、敵が構築した塹壕線の脆弱点を衝いて後方に侵入する突撃歩兵と呼ばれる特殊な部隊が必要とされていた。
突撃歩兵は前線の後方に侵入するために、敵の塹壕線上に存在する脆弱点まで走って肉薄し、後続の部隊とともに後方へ侵入するために敵の機関銃座を無力化する必要があり、このためには濃密な弾幕を形成できるフルオート火器を携帯できる事が理想と考えられていた。
しかし、当時の機関銃は陣地に設置されるのが前提である巨大かつ重量級の装備であり、開発された当初の軽機関銃も数人がかりで運用されるレベルの代物であり、突撃歩兵のように身軽に動ける事が前提の部隊での運用は困難だった。
後にブルシーロフ攻勢で大損害を蒙ったドイツ軍は、浸透戦術を研究して自軍にも突撃歩兵を創設しているが、その装備とされたのは手榴弾とMP18短機関銃だった。
自動小銃の出現で旧式化したフェドロフM1916だったが、1938年の張鼓峰事件でソ連軍と交戦した日本軍によって鹵獲 されているほか、フィンランドとの冬戦争でも使用されたとされる。
また、冬戦争の終結から半年後に関東軍から当時の阿南惟幾陸軍次官に宛てた報告の中にもフェドロフM1916の退役について記述されており、1940年までに実戦部隊から回収されたと考えられる 。
ソ連軍は冬戦争で苦戦を強いられ、投入されたフェドロフM1916の多くが戦場で失われたため、現在のロシア国内にほとんど残っていない。
一方で鹵獲されたフェドロフM1916の一部がフィンランドを通じてナチス・ドイツの手に渡った。
AK-47(アフトマットカラシニコバソーラクスェーミ)とは、ミハイル・カラシニコフが設計し、1949年にソビエト連邦軍が制式採用した自動小銃である。
実戦の苛酷な使用環境や、戦時下の劣悪な生産施設での生産可能性を考慮し、部品の公差が大きく取られ、卓越した信頼性と耐久性、および高い生産性を実現した。
この特性から、本銃はソビエト連邦のみならず、全世界に普及した。
基本設計から半世紀以上を経た今日においても、本銃とその派生型は、砂漠やジャングル、極地など、あらゆる世界の地帯における軍隊や武装勢力の兵士にとって、最も信頼される基本装備になり、『世界で最も多く使われた軍用銃』としてギネス世界記録に登録されている。
元々赤軍戦車兵だったミハイル・カラシニコフは、負傷入院中に銃器設計への関心を強め、1942年から小火器設計に関わる。
1940年代中頃、カラシニコフを含む複数の設計者は、火薬量を抑え反動を軽減した中間弾薬の一種である新型弾薬7.62x39mm弾を用いるセミオートマチック・カービンの設計に着手。
最終的にセルゲイ・シモノフの設計案が支持され、1945年にSKSカービンとして採用された。
この時、ソ連当局では並行しナチス・ドイツが独ソ戦において投入したStG44と同種の「アサルトライフル」開発を計画。
最有力候補は、短機関銃の設計者として著名なアレクセイ・スダエフが手がけたAS-44突撃銃だったが、スダエフの死去により頓挫。
ほかにも、さまざまな設計案が出たが、戦後1946年、カラシニコフの、AK-46設計案が最初の審査に合格。
さらに1年を費やし改良、1948年に最優秀設計案として限定先行量産が決定。
そして軍での試験運用を経て、1949年ついにソビエト連邦軍の主力小銃として制式採用。
戦車兵だったカラシニコフは設計の専門教育を受けていなかったため、AK-47設計の際も正しい設計図面を描けなかった。
彼に代わって図面を描いたのは、後に妻となる女性技師エカテリーナ・ヴィクトロヴナ・モイセーエフであった。
当初の制式名称は「7.62mm アフトマート・カラシニコバ」であり、「AK-47」の呼称は、後にいくつもの改良型が登場したため、それらと区別するためであった。
閉鎖・撃発機構には米国のM1カービンなどからの影響を受け、その基本構造も独自のものである。
AKはロングストロークガスピストン方式を用い、銃身上にガスピストンを位置させた設計を継承し、長いバナナ型弾倉と、ピストルグリップを持つ共通した設計で構成されている。
ボルトを開放/後退させるボルトキャリアは、ガスピストンと一体化したデザインであり、ボルトと一緒に前後動する総重量の大きさから命中精度は悪影響を受けているが、他方でその慣性力とあいまって泥汚れなどにも耐える確実な作動性を実現している。
さらに、銃身と薬室の内部、ガスピストン、ガスシリンダー内部には耐腐食性・耐摩耗性に優れたクロムでメッキされ、腐食や摩耗を抑えている。
撃発機構は大きく余裕を持ったレシーバー(機関部)内の空間に位置し、泥が侵入しても動作に支障が起き難いよう設計されている。
ハンマー(撃鉄)などを動作させるスプリングは、極寒の北極圏から灼熱の砂漠地帯まで、変化に富んだソ連全域で使用できるよう、MG42を参考に2本のピアノ線を捻ったものが使用されている。
カラシニコフは設計にあたって、開発当時、専門教育・高等教育を受けていない新兵達にも取り扱いが容易な様に、彼らの気持ちになって様々な工夫をしたと述べている。
AK-47は信頼性が高く、扱いが多少乱暴でも確実に動作する。これは、ミハイル・カラシニコフが設計の段階で変化に富んだソ連の気候を想定し、部品同士のクリアランスを大きめに取り、多少の泥や砂、高温または寒冷地における金属の変形、生産時の技術不足による部品精度低下が起きても、問題なく動作するよう考慮したためである。
故に極寒地や砂漠地帯の兵士からも信頼が寄せられている。
特に機関部は、内側に泥や砂などが入っても、軽く水洗いすれば射撃できるほどである。
内部の部品は極力ユニット化されており、野外で分解する際に部品を紛失したり、簡単に故障したりしないように工夫してある。
このような銃の頑丈さや簡素化は同時に兵士の負担も減らす。
銃を扱うのが初めての人間でも数時間から数日間の講習を受ければ、100メートル先の標的に命中させられるようになるという。
第二次世界大戦後、弾丸がAK-47と共通する以外は独自設計のVz 58を採用したチェコスロバキアを除くワルシャワ条約機構加盟国や中国・北朝鮮などで採用されて、東側諸国を代表する火器となった。
武力によって独立を勝ち取った国家や、政権を奪取した革命政府にとって、AKは戦乱を戦い抜いた頼もしい戦友であり、民族自決や自主独立の象徴でもある。
現在、ロシア連邦軍ではAK-74など小口径の5.45x39mm弾を使用する小銃が一線級部隊の主流であるが、地方配置されている二線級部隊ではRPK軽機関銃と共に使用されている。
一部の部隊では大口径の威力を求め、あえてAKMを使用する例もある。
またベトナム軍もak47からakmにカスタマイズするという作業が行われている。
AKMSは、AKMの銃床を折りたたみ式にしたものである。
1960年より生産が開始された。
銃床の折り畳み方はAKS-47と同じであるが、AKMと同様にフルオート射撃時の制御を容易にするため、展開時の角度がより水平に近くなっている。
AKS-47同様、空挺部隊や戦車兵などが用いる。
テロリストや傭兵(非戦闘員)が使用しているのは、ほとんどがAK-47の非正規・コピー品である。
中華人民共和国の中国北方工業公司は、ライセンス切れのため、改造箇所を根拠に自社製品としてAK系を製造し続け、中には民間向けのスポーツ射撃用のものまである。
2006年の時点で、AKの製造ライセンスを持つのは、カラシニコフが籍を置く後述のイズマッシュ社のみだが、過去にAKのライセンス生産を行っていた国々の大半は製造を継続しており、輸出もしている。
さらに、AKは構造が単純で、部品の誤差を許容する設計から密造品も多く、これら不正規品を含めたAKの総数は、1億丁を超えるのではないかと推測されているが、正確な生産規模は把握されていない。
日本においても、オウム真理教が発展型であるAK-74を基に銃密造を企てた(自動小銃密造事件)ことが発覚したが、外観こそ模倣したものの、銃身内径を正確に切削できず、発射に危険が伴う水準のもので、警察の追及もあって量産には至らなかった。
AK-74は、1974年にソビエト連邦軍が従来のAK-47系列の後継として採用したアサルトライフルである。
AK-74を設計したミハイル・カラシニコフ自身は、後年インタビューで「ベトナム戦争時にアメリカがM16を使い始めたために、ソ連軍の上層部が遅れをとってはならないと息巻き、その結果これまでと比較にならないほど大量の銃弾が戦闘につぎ込まれるようになった。7.62mm口径の銃にはまだまだ改良の余地があったのに残念」と答えるなど、小口径化について批判的であった。
AKMからの大きな変更点は小口径化の他、銃口に装着されるマズルブレーキが大型化されたことである。
AK-74のマズルブレーキは他国のアサルトライフルと比較し複雑な内部構造を持ち、反動の軽減、発射炎の抑制の他、発射音を前方に拡散させる働きをもつ。
またAK-47・AKMに比べて、ガスピストンへの発射ガス導入部と銃身との角度が垂直に近くなっている。