水戸の史跡を訪ねる | 戦車兵のブログ

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元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
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笠原の筑波海軍航空隊記念館から水戸市へ向う。



途中「内原郷土史義勇軍資料館」の案内板を発見。




実は先回来た時にもこの案内板を発見して気になっていた。




「内原義勇軍」ってなんだろう?



義勇軍の文字に惹かれた。






カーナビに入力するが解らず、取り合えず内原町へ。



実は、この前に訪れた靖国神社で「満蒙開拓少年義勇軍」の話題が出てきていたのだ。



途中、お寺に「満蒙開拓」の文字に電流が流れる思いがした。



車から降りて、お参りした。




義勇軍とは満蒙開拓少年義勇軍のことだったのだ。




資料館へは行けなかったが、満蒙開拓に昭和20年5月まで日本は送り続けたことを忘れてはならない。




隣には一戸兵衛大将の揮毫した「忠魂碑」があった。


日露戦争の旅順戦で名を高めた軍人である。


暑いのと予定があったので、水戸市街へ向う。





水戸の掘原運動公園へ。


野球の試合が行われていたようで、球場の駐車場はいっぱいであった。


友人を大人の乳母車のような車椅子に乗せて移動する。


ゴロゴロ車椅子を押しながら暑い水戸を歩く。


情報では掘原運動公園の向かいにある公園に旧陸軍水戸歩兵第二聯隊があった碑があるという。


水戸歩兵第二聯隊はぺリリュー島で玉砕した。


途中、地元のおばちゃんに道を聞く、その言葉の言う通りゴロゴロ車椅子を押してゆくと、お相撲さんの銅像があった。


常陸山 谷右エ門の銅像。


第19代横綱で、以前ブログで紹介したので覚えていた。


水戸市出身の力士で、海軍の八代六郎・広瀬武夫と意気投合し、義兄弟の盃を交わした仲だった。


常陸山が横綱に昇進した時は日露戦争の開戦直前で広瀬は多忙を極め、常陸山の横綱の晴れ姿を見られなかったため、広瀬から「常陸山の土俵入り姿の写真を送って欲しい」との手紙が来たため、常陸山は慰問文と共に写真を送ったが、その写真が届く前に広瀬は第二回旅順口閉塞作戦で戦死してしまい、常陸山の横綱姿を見ることはついに叶わなかった。


広瀬の戦死を知らされた常陸山は声を上げて泣き明かしたという。


後に、この広瀬との縁が図らずも常陸山本人どころか出羽ノ海一門全員の命を救うことになった。


1910年5月に出羽ノ海一門が満州と韓国の巡業で各地を回った後、大連から鉄嶺丸という客船に乗って帰国する予定であったが、乗船する直前になって常陸山が「今から旅順まで行き、戦死した義兄(広瀬)の弔いをしたい」と言い出した。


広瀬が戦死した旅順は大連からほど近く、「せっかく大連まで来て旅順へ足を運ばないのでは、義兄に申し訳が立たない」と言うので、他の力士たちは不満であったが横綱の常陸山には逆らえず、一行は仕方なく常陸山と共に旅順神社まで赴いて奉納相撲を行うことになった。




ところが、一行が奉納相撲を終えて翌日大連に戻ると、大連の街は大騒ぎになっていた。


当初一行が乗船する予定だった鉄嶺丸が、濃霧のために竹島付近で座礁して沈没したのである。


もしも一行が当初の予定通り鉄嶺丸に乗っていれば、彼らも他の乗客乗員と同じく全員死亡していたところであった。


東京の方でも一行が予定通り鉄嶺丸に乗船したものと思っていたらしく、「常陸山遭難ス」と書かれた号外まで飛び出すほどの大騒ぎであったという。


これ以降、満州巡業の際には必ず旅順神社で奉納相撲を行う習わしが始まった。


いい話だね、私は常陸山の相撲のことは知らないが、このエピソードだけは知っていて偶然ここで出会えて良かった。


ちなみにおばちゃんに教えてもらった場所は間違いで、おばちゃんに教えてもらった場所の目の前の公園が目的地であった。



でもね、そういう間違いがあったからこそ常陸山に会えた。


何が幸いするか解らない。




「水戸歩兵部隊の跡碑」や「尼港殉難者記念碑」が建つ公園へ。


1907年(明治40年)9月に東京第1師団佐倉歩兵第2旅団隷下から、宇都宮第14師団水戸歩兵第27旅団隷下に変更となった。


それを機に、1908年(明治41年)4月佐倉から水戸へ転営する。


1909年(明治42年)3月28日茨城県東茨城郡渡里村に移転したのがこの地であった。


以降、シベリア出兵、第一次上海事変、熱河作戦、永定河敵前渡河、保定会戦と歴戦し、ペリリュー島で壮絶な玉砕をした。


ここには、尼港殉難者記念碑も建立されている。


1920年(大正9年)の尼港事件で第3大隊が全滅したのだ。


1920年1月、ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名に、通信、衛生、憲兵、野戦郵便局員を加えて、330余名だった。


海軍は、石川光儀少佐、三宅駸吾少佐以下40数名だったので、総計370余名である。


白軍の弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、白軍司令官メドベーデフ大佐を前面に出しながらも、実質的には日本軍が担うことになり、1月10日には、夜間外出禁止令などが布告され、戒厳に近い状態となった。


1月23日、300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスクを襲撃してきたが、ロシアの旧式野砲を修理して用意していた日本軍が、砲撃を加えたために、すぐに退散した。


翌24日と26日には、三宅海軍少佐と石田虎松副領事より、海軍軍令部長および外務大臣に対し、陸戦隊の派遣を求める無線連絡があり、ニコラエフスク救援隊派遣の検討がはじまった。


1920年6月30日、日本外務省公表の『尼港事件ニ関する件』によれば、ニコラエフスクにいた中国領事や惨殺を逃れたロシア人たちの話、新聞情報を総合して、日本軍決起の要因は次のようなものだった。


「日本軍はパルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、決起した」



『西白利出兵 憲兵史』も、事件直後の外務省見解と基調は変わらず、決起にいたった状態を次のように述べている。


「開城の合意条項において、ニコラエフスク市内では白軍であっても検束しない、ということになっていたにもかかわらず、入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全部の貸与方を要求して、翌12正午までの回答を迫った」。


事件により、400名近い日本軍守備隊は全滅したにもかかわらず、ある程度、戦闘状況などがわかったについては、ニコラエフスクの廃墟から、香田一等兵の日記などが発見されたためである。


日本軍は3月12日未明、赤軍本部を襲った。


参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。


しかし、クンストアルベルト商会を宿舎としていた赤軍副司令ラプタは、攻撃の圏外にいて、ただちに分宿したパルチザン部隊に連絡をとり、指揮をとった。


市街戦となり、数に劣る日本軍は劣勢となっていった。


市街戦は、ほぼ2日間続いた。


島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、ここに立てこもった部隊もいたとされる。


石川陸軍少佐がまず倒れ、12日夕刻、配下の生存者13名は、三等主計の指揮のもと、兵営に帰り着いた。


水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。


同日、負傷兵3名がスヤマ歯科医のもとに身を寄せたが、パルチザンは大家のアヴシャロモフ一家を追い出すと家に火を付け爆弾を投げ込んだ。


外に飛び出した日本兵は殺害され、歯科医は爆弾で首を吹き飛ばされ、夫人は焼死した。



3月12日、後藤大尉隊は、早めに兵営を出て街の東方のはずれにある監獄をめざし、捕らえられていた人々を解放しようとしたが、守備が厳重で果たさなかった。


あきらめて、本隊に合流しようと市中を進むうちに市街戦になった。


戦闘相手の中心は、リューリ商会とスターエフの事務所に宿営していた中国人、朝鮮人からなるパルチザン部隊だった。


路上の後藤大尉隊は、建造物を占拠しているパルチザンから狙い撃たれ、手榴弾を投げられるなどで苦戦し、生き延びた30余名がアムール河畔の憲兵隊に合した。


3月13日、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊された


憲兵隊と合した後藤隊の生存者は、砲撃してきた中国軍砲艦目がけて突撃して全滅したと思われると香田昌三一等兵は書きとめている。


11時には2月7日の戦闘で重傷を負った榊原海軍機関大尉が陸軍病院で息を引き取った。


払暁、水上大尉隊は包囲を突破して兵営に帰ることに決し突出し、水上大尉は戦死したが、20名ほどは河本中尉の指揮で無事帰り着いた。


海軍部隊も攻撃に出た者はほとんどが倒れ、わずかな人数が領事館に帰った。


尼港事件の悲劇は水戸歩兵第二聯隊第三大隊の慰霊碑が物語っている。


水戸を歩くと近代日本を知る歴史でもあるね。