軍艦「多摩」沈没から70年で初の慰霊祭 薄れる戦争の記憶 | 戦車兵のブログ

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悲しい話だがこれが日本の現実だ。
かなり激しい激戦地だったところほど生存者がおらず慰霊碑さえも存在せず慰霊祭すら行われないという話は以前から聞いていた。
戦後遺族会や戦友会が慰霊碑や慰霊祭を行う中、歴史も浅く編成された新編部隊はその存在すら知られることなく消えるように存在すら忘れ去られた部隊もあり、当然生存者がほとんどいない場合慰霊碑も慰霊祭も行われていないのだ。
以下産経ニュースより転載




 先の大戦で沈んだ軍艦「多摩」の初めての慰霊祭が10月25日、東京都府中市にある大国魂神社で行われると聞いたとき、正直、意外な気がした。


「沈没した軍艦は、関係者によって手厚く慰霊されている」と思い込んでいたからだ。

 多摩は、旧海軍の軽巡洋艦で球磨型の2番艦。


大戦末期の昭和19(1944)年10月25日、フィリピン沖で米潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没し、440人とされる全乗組員が亡くなった。


だが、その慰霊祭がこれまで一度も行われたことがなかったというのだ。


 意外だったことは他にもある。


大国魂神社は「慰霊祭には少しでも多くの遺族、元乗組員ら関係者に参列してもらいたい」との思いで準備を進めたが、作業は困難を極めたそうだ。


 「遺族と連絡を取ろうにも、乗組員名簿が見つからない。防衛省や厚生労働省には名簿があるはずと考え、問い合わせてみたが、個人情報は出せないといわれてしまった」。


このため、担当者は遺族と思われる人物を一人一人、インターネットで調べて電話をかけたり、入手可能な戦没者名簿から関係がありそうな名前を見つけては手紙を出したりと、地道な作業を続けた。


それでも、これまでに氏名などを特定できた沈没時の乗組員は30人ほどしかいない。

 初の慰霊祭が行われた10月25日は沈没からちょうど70年。あまりに長い年月がたち、国のために戦って亡くなった人の記憶は薄れるばかりだ。


だが、慰霊祭の中心人物である大国魂神社氏子青年崇敬会の室井敦会長は言う。


「今の日本があるのは、国のために命を懸けた先人たちがいたから。私たちは、その記憶を次の世代に伝えていかなければならない。今回の慰霊祭をそのきっかけにしたい」

 大国魂神社が集めた資料によると、球磨型の1番艦「球磨」、3番艦「北上」は艦内神社が分からず慰霊状況も不明。


4番艦「大井」は大井神社(静岡県島田市)で慰霊されているが、大井単独の慰霊祭はない。


御嶽神社(長野県木曽町)を祭神とする5番艦「木曽」は、かつて軍関係者が同神社に参拝した記録はあるものの、慰霊祭は行われていない。多摩の姉妹艦だけをとっても、このありさまだ。


 来年は終戦から70年。改めて、戦争の記憶を呼び覚まし、戦いの中で亡くなった多くの人々の冥福を祈りたい。(三浦恒郎)

(産経ニュース)


多摩の歴代艦長には錚々たる海軍士官がなっているが、戦後は放置されていたのかと思うと胸が痛む。


札幌には「アッツ雄魂之碑」があるが、玉砕第一号と言われるものの生存者は全員捕虜となって少ない。


そのアッツ島の慰霊碑を建立したのはアッツ島からキスカ島へ救援へ行ったため生還した穂積支隊やキスカ島の有志がお金を出し合って建立した立派な慰霊碑がある。


しかし、数年前遺族会の解散により毎年5月12日に行われていた慰霊祭は無くなり、その代わり護国神社境内の清掃を行っている。


まだ恵まれている方なのかも知れない。


防衛省は個人情報は公開しないと、遺族探しに協力しなかったそうだがこれが現実なのだ。


そして各遺族会や戦友会が解散する中、初めて慰霊祭が行われるということがあることが悲しいね。


戦後の日本は英霊を忘れることで成り立っていたのかも知れないね。