最後の海軍大将 井上 成美海軍大将  1 | 戦車兵のブログ

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井上 成美(いのうえ しげよし[注釈 1]、1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。


最終階級は海軍大将。


海軍大将となった最後の軍人。

1889年(明治22年)12月9日宮城県仙台市でブドウ園を経営する旧幕臣・井上嘉矩の十一男として出生。


「成美」という名は「論語」顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」に由来し、父からそんな人間になるようにと何度も教えられた成美はこの名を誇りとした。


1902年(明治35年)3月31日宮城県尋常師範学校附属小学校高等科2年修了。


4月1日宮城県立第一中学校の分校に入学。


分校の廃校に伴い、1905年宮城県立第二中学校に移動。


中学4年終了時の成績は「60人中1番、優科:数学、劣科:漢文、運動:不定、嗜好:音楽と細工」とある。第二中学校の同級生の回想では「井上君は恐ろしく頭が良く、数学と英語が得意だった」という。


1906年(明治39年)10月31日海軍兵学校合格に伴い中学を5年生で中退。1906年11月24日海軍兵学校第37期に成績順位181名中9番で入学。

入校時の成績で決まる分隊の所属は第9分隊で、同分隊三号生徒15名中では先任者であった。


兵学校の三号生徒(一学年、井上在校時の兵学校の在校期間は3年)の頃の井上は、「英語の成績の悪い生徒」として教官から名指しされた。


井上は、英語が抜群と評価されていた同期生に英語の勉強方法を尋ね「英語の小説、"Adventures of Sherlock Holmes" でも原書でどんどん読め」と助言され、同書を手に入れて読んでみたものの歯が立たなかった。


兵学校入校時に181名中9番の好成績だった井上は、二号生徒(二学年)に進級する時は16番に席次が下がった。


しかし、二号生徒になるまでには英語力を高め、二号生徒の一学期には首席となった。


井上は「訓練は厳しかったが、生活そのものは、リズムがあり、調和があった。


そのような生活だったからこそ、国家が自分たち兵学校生徒を大事にしてくれる、と感じたし、自尊心も生まれてきて、国家に対する忠誠心とまではいかなくても、自分の選んだ道は自分に合っていたな、という気持になった」と回想している。


無遠慮な点があり、海軍部内には井上を良く言わない者が多く、同期生にも井上を嫌う者が少なくなかった。


1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校を成績順位179名中2番で卒業、恩賜の双眼鏡を拝受、命 少尉候補生、2等巡洋艦「宗谷」乗組、第一期実習が始まり、練習艦隊近海航海出発。


大連-仁川-鎮海湾-佐世保-鹿児島-津方面巡航 。


12月29日帰着。


1910年(明治43年)2月1日練習艦隊遠洋航海出発。


マニラ-アンボイナ-パーム島-タウンズビル-ブリスベーン-シドニー-ホバート-メルボルン-フリーマントル-バタヴィア-シンガポール-香港-馬公-基隆方面巡航。


7月3日帰着。第二期演習が始まり、7月16日戦艦「三笠」乗組。


12月1日装甲巡洋艦「春日」乗組。


1910年12月15日任 海軍少尉。兵37期の最先任者(クラスヘッド)となる。

1911年(明治44年)1月18日巡洋戦艦「鞍馬」乗組。


鞍馬は同年4月から11月まで英国のジョージ5世戴冠記念観艦式に遣英艦隊の旗艦として参加する。


11月12日帰朝。


1912年(明治45年)4月24日海軍砲術学校普通科学生。


米内光政大尉と山本五十六大尉が教官をしており、井上は山本から兵器学を教わった。


8月9日海軍水雷学校普通科学生。


在校中の12月1日任海軍中尉。


1913年(大正2年)2月10日二等海防艦「高千穂」乗組。


9月26日巡洋戦艦「比叡」乗組。


1914年8月23日第一次世界大戦に伴い、日本はドイツに宣戦布告。


「比叡」は、青島の独軍基地を攻略する陸軍部隊の間接掩護を命じられ、約1か月間、東シナ海方面で警戒任務に当たったが、戦闘は生じなかった。


1915年(大正4年)7月19日第17駆逐隊附。


駆逐艦「桜」乗組。


第17駆逐隊は第一艦隊第一水雷戦隊に所属。井上の、最初で最後の駆逐艦勤務となった。

12月13日任海軍大尉・戦艦「扶桑」分隊長。


1916年(大正5年)12月1日海軍大学校乙種学生。


1917年(大正6年)5月1日海軍大学校専修学生、12月1日卒業、航海科を専門とする兵科将校となった。


砲艦「淀」航海長(「兼 分隊長」の辞令は出ていない)。


1917年(大正6年)1月19日に、27歳で、原喜久代(20歳)と結婚。


義姉たま(兄井上秀二の妻)の妹婿大平善一の親友阿部信行の義妹が喜久子という縁であった。


第一次世界大戦において第一特務艦隊に属し、インド洋方面での通商保護に従事。


1918年(大正7年)5月呉に帰投、同年7月に「淀」は日本が占領したドイツ領南洋群島を巡航して新占領地の整備に従事し、約5か月後に小笠原諸島・父島に帰投。


1918年(大正7年)12月1日スイス国駐在。ドイツ語修得従事。


1919年(大正8年)2月8日に長女の靚子が誕生した。


靚子の誕生を見届けた井上は2月10日に神戸港を出発し、4月にスイスに着任した。


毎日1時間、独国人教師について独語の個人教授を受けて独語習得に励み、スイス到着の2か月後に「独語の日常会話は支障ない程度に達した」旨を海軍次官に報告した。


スイス人の独語には訛りがあり、独語習得の妨げとなるため、井上は早期に独国に移ることを望んだ。


1920年(大正9年)7月1日平和条約実施委員。


ベルリンで英仏伊の委員たちとドイツ軍武装解除に従事。


井上の独語力は、独国当局者との折衝時に通訳を要さず、英国将校のために独語の通訳をするレベルに達していた。

在欧中に仏語も習得したいという井上の希望が通り、「平和条約実施委員」を免ぜられ、1921年(大正10年)9月1日フランス国駐在。


パリでフランス語修得従事。


仏国人教師の個人教授を毎日1時間受けた。


井上の仏国駐在は僅か3か月だったが、日本への帰国後、海軍次官代理に「仏語は、読み・書き・会話、いずれも支障ないレベルに達した」旨を報告している。


井上は「海軍生活において、独語は日独伊三国軍事同盟に役に立った程度だが、仏語は、後々の勤務において外国人との付合いに使う機会が多く大変役に立った」と回想する。


1921年(大正10年)12月1日任海軍少佐、帰朝。大西洋を渡り米国経由で2月に帰国した。


生涯で唯一のアメリカ訪問だった。


1922年(大正11年)3月1日軽巡洋艦「球磨」航海長兼分隊長。主にシベリア出兵に伴う警備行動に従事。

1922年12月1日海軍大学校甲種第22期入校。


大尉時代に欧州に3年間駐在し、甲種学生を受験できなかった井上は、従来の規則では受験資格を失う所だったが、規則改正により受験できた。


井上は同僚から「井上、甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって言う評判だよ」と冷やかされたという。


井上の甲種学生選考試験での筆記試験成績は60番で、本来なら落第だった。


海外勤務が長かったことを考慮して特例で口頭試験の受験を許され、口頭試験では1番で合格した。


1924年(大正13年)12月1日海軍大学校甲種学生卒業、海軍省軍務局第一課B局員。


井上は榎本重治海軍書記官と親友となった。


1925年(大正14年)榎本重治海軍書記官に「治安維持法が近く成立するが、共産党を封じ込めずに自由に活動させる方がよいと思うが」と問われた井上は無言であった。


それから二十数年が経った戦後のある日、横須賀市長井の井上宅を初めて訪ねてきた榎本の手を握って、井上は「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか」と語った。


1925年(大正14年)12月1日に中佐に進級。


1927年(昭和2年)10月1日海軍軍令部出仕。


11月1日在イタリア日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官。


横浜港から渡欧。


この頃、妻の喜久代は肺結核に罹患した。


ローマに着任した井上は、イタリア人やイタリア軍についてネガティブな経験を重ねた。


これは、井上が軍務局長時代に日独伊三国同盟に反対する理由の一つとなった。


1929年(昭和4年)8月1日帰朝。


11月30日任海軍大佐。


同年12月に帰国した。


帰国した井上は、喜久代の肺結核が悪化して看護が必要であるため、海軍人事当局に「海上勤務では家庭が破滅するから、しばらくは陸上の閑職に置いてほしい」旨を願い出て、1930年(昭和5年)1月10日海軍大学校教官に補された。


井上は人事当局の配慮に感謝し、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代の療養を優先した。


井上は海大教官として甲種学生への戦略教育を担当した。


井上の戦略教育は理詰めであり「戦訓を基礎としない兵術論は卓上の空論に過ぎない」「精神力や術力(技量)を加味しない純数学的な(戦略)講義をすることは、士気に悪影響を及ぼす」という批判も受けた。

軍務局一課長


1932年(昭和7年)10月1日- 軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局第一課勤務。海軍省軍務局長寺島健少将の指名により、1932年(昭和7年)11月1日海軍省軍務局第一課長に補された。


海軍省軍務局は海軍軍政の要であり、井上が補された一課長は、局の筆頭課長であった。


同日に妻の喜久代が肺結核で死去した(37歳没)。


井上は、五・一五事件における海軍青年士官を中心とす首謀者たちが世論から英雄視されている風潮に、危機感を覚えた。


井上は、この事件に刺激された陸軍の青年将校たちが「海軍に先を越された」と考え、必ずことを起こすに違いない、と予想していた。


井上は海軍省を「海軍の兵力」で守る準備を始めた。


海軍省の構内にある東京海軍無線電信所が、「官衙」ではなく「部隊」であり、武装できることに気づき、小銃20挺を配備した。


東京海軍無線電信所長が、井上と同期の武田哲郎中佐(のち大佐)であったのが幸いした。


さらに「軍事普及並びに宣伝用」という名目で戦車一台を海軍省内に常駐させた。


1933年(昭和8年)3月、軍令部が「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」を提起した際、軍令部の試案を通読した井上は、この件を自ら処理することとした。

海軍省を代表する井上に対する、軍令部側の代表は、軍令部第二課長の南雲忠一大佐であり、南雲は井上を何度も「殺すぞ」と脅迫した。


井上は、表書は「井上成美遺書 / 本人死亡せばクラス会幹事開封ありたし」、本文は「どこにも借金はなし。娘は高女(高等女学校)だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしめたし」という遺書を執務机に入れていた。

海軍大臣大角岑生大将


「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」(決裁権限者海軍大臣)を主務課長の井上が決裁しないため、改定案は成立せず、8月に入ると軍令部は自身で改定最終案を作り、海軍大臣大角岑生大将に突きつけ、軍令部長伏見宮は大角海相に辞職をちらつかせた大角海相は伏見宮の圧力に屈し、海相以下の海軍省首脳部が改定案に同意した。


藤田尚徳


1933年(昭和8年)9月16日土曜日朝、寺島軍務局長が井上を局長室に呼び、「こんな馬鹿な案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉(ま)げてこの案に同意してくれないか」と井上に言ったが、井上は「自分が正しくないと思うことに、私は同意出来ません。


同意しろと言われるのは、私に節操を捨てろと迫られるに等しく、私は節操を捨てたくありません。


どうしても通す必要があるなら、一課長を更迭してこの案に判を捺す人を持って来られたらよろしいでしょう。


私としても、事態を紛糾させた責任は感じております。


今日まで、正しいことの通る海軍と信じて愉快に御奉公して参りましたが、こんな不正の横行する海軍になったのなら、私はそのような海軍に居りたくありません」という旨を返答し、軍服を背広に着替えて鎌倉の家に帰った。


海軍次官藤田尚徳中将の使者がその晩に井上宅を訪問して翻意を促したが、井上は拒否した。


海軍大臣秘書官矢牧章少佐は、週明けの9月18日月曜日に、第二種軍装の胸に勲章を吊った井上が海軍大臣室から出て来たため、井上が大角海相に進退を伺い、予備役編入を願い出たと解釈した。


矢牧が入れ替わりに大臣室に入ると、大角は「そうまで思いつめんでええと言うんだが、井上が諾かんのだ。何遍言っても諾かんのだ。困ったな、困ったな」と赤い顔をして言ったという。


軍令部条例と省部事務互渉規定が大角海相の決裁により改正され、昭和天皇は裁可する際に「一つ運用を誤れば、政府の所管である予算や人事に、軍令部が過度に介入する懸念がある。


海軍大臣としてそれを回避する所信はどうか」と問うた。これは正に井上が危惧し、反対した所だった。

1933年9月20日横須賀鎮守府付。


予備役編入を前提とするような辞令だった。


伏見宮が「井上くんによいポストをやってくれ」と口添えし、井上は予備役編入されず、11月15日付で練習戦艦「比叡」艦長に補された。


1935年(昭和10年)4月1日、井上は大連港の桟橋に「計算尺が操艦しているようなやり方で」ぴったり接舷させて、大連港港務部長に「戦艦が本港に横付けしたのは初めてです」と操艦の腕を賞賛された。


当時、戦艦のような大型艦船は入港しても沖合いに錨泊するのが普通だった。


井上は「比叡」飛行長今川福雄大尉の操縦する94式水偵にしばしば同乗した。


飛行科出身でない艦長が、搭載機に同乗するのは異例であった。


井上と親しく接した今川は、井上の人格に惚れ込み、井上の了解を得て、井上の名前「成美」にあやかって息子を成雄(しげお)、娘を美子(よしこ)と名付け、戦後も度々井上宅を訪ねた。


井上は、「比叡」の若手士官が、国粋思想の影響を受けた会合に出席するのを禁じた。


その上で「軍人勅諭」を平易に説いた冊子「勅諭衍義」を「比叡」乗組の士官全員に配布した。


この「勅諭衍義」は後に井上が兵学校長に着任した際にも、教官兼幹事に参考資料として配布された。


その際に井上が自らつけた説明文に「本稿記述の当時(昭和9年)は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代[之は少々過言かも知れず、然し本職は左様考えて対処せり]なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」とある。


井上は「比叡」の若手士官たちに「軍人が平素でも刀剣を帯びることを許されているのは、国を守るという極めて国家的な職分を担っているからである。統帥権の発動もないのに勝手に人を殺せということではない」と繰り返し諭した。


井上は、翌朝まで帰艦しない予定で上陸した。


従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまった。


予定を切り上げて帰艦した井上がこれを見つけたが、誰にも言わなかった。


懲罰を受けずに済んだ従兵長は井上の恩情を長く徳とした。


井上によると、大尉の時に航海長を務めた「淀 (通報艦)」(常備排水量1,450トン)のような小さなフネなら酔わないのに、フネが大きくなるほど酔いやすかった。


戦艦「比叡」艦長の時には、戦艦の艦長たる者が航海中に船酔いで寝ている訳には行かず、一番困ったという。


1934年(昭和9年)、三浦半島の西側、横須賀市の反対側の神奈川県三浦郡長井町の相模湾が一望できる海岸に面した崖縁に井上の家が完成した。


「比叡」は軍縮条約により練習戦艦となっており、横須賀鎮守府所属の警備艦で、横須賀軍港に在泊していた。


「比叡」艦内に起居する井上は、毎週末には長井の新宅に戻った。


一人娘の靚子は、東京・西大久保の親戚の阿部信行陸軍大将宅に寄宿して、東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)に通っていたが、週末には長井の井上宅に戻ってきて、父娘二人で水入らずの生活を楽しんだ。


夏休みには、靚子が女学校の友達を連れてくることもあった。

横須賀鎮守府参謀長


1935年(昭和10年)8月1日横須賀鎮守府付。


少将進級直前である6年目の大佐が現職を離れるのは異例だった。


戦後の井上は、今川福雄大佐に「私は、少将昇進後は新設される第三航空戦隊の司令官に補されると内定していました。


時局が急変したので、第三航空戦隊の新設が流れ、横須賀鎮守府参謀長になったのです。


海軍の人事は予定通り行きません」という旨を語った。


11月15日任海軍少将(慣例通りクラスヘッドとして同期で最初の少将)、横須賀鎮守府参謀長。


12月1日米内光政が横須賀鎮守府司令長官に着任した。


この頃に井上は米内の信頼を得て以降、米内の下で活躍することになる。

二・二六事件


海軍省が所在する東京府を管轄し、麾下に実戦部隊を有している横鎮の参謀長となり、海軍省を『海軍の兵力』で守る」対策を十分に準備できる立場となった井上は、横鎮長官の米内の承認を得て、いざという時、即座に、十分な「海軍の兵力」を東京の海軍省に差し向けられるように、下記のように準備した。


真の目的を知るのは、米内・井上・先任参謀の、横鎮のトップ3名のみだった。


1.横鎮所属の兵員で特別陸戦隊一個大隊を編成して、2回召集し、顔合わせと訓練を行った。


2.横須賀所在の海軍砲術学校に要請して、砲術学校に所属する掌砲兵20人をいつでも横鎮に呼集できるように準備した。
万一の時には海軍省に派遣し、大臣官房の走り使いや連絡に当たらせ、または小銃を持たせて海軍省の警備に当たらせる。


3.横鎮所属の警備艦である、軽巡洋艦「那珂」艦長に、昼夜雨雪を問わず、芝浦に急行できるよう研究を命じた。いかなる場合でも、特別陸戦隊一個大隊を東京の海軍省に急派するため。


横鎮に着任すると、庁舎内に記者控室を作ってそこに参考図書を備えるなど、新聞記者に便宜を図った。


戦後の井上は「新聞記者も商売だ。彼らの成り立つように考えてやる(適切に情報を開示する)ことが必要だ。


その反面、利用もできる」と語っている。


1936年(昭和11年)2月20日頃、横鎮出入りの新聞記者から、東京の警視庁の前で陸軍が夜間演習を行ったという情報が井上に入る。


井上は警戒態勢に入り、2月26日の早朝、官舎で就寝中の井上に、副官から電話が入った。


「新聞記者から、本日早朝に陸軍が反乱を起こしたという情報が入った」という二・二六事件勃発の知らせだった。


井上は、幕僚全員を横鎮に非常召集するよう命じて、自分も直ちに登庁した。


井上が、横鎮に着くと、既に幕僚たちは全員揃っていた。


副官から詳細な情報を聴いた上で、かねて用意の手を打った。


井上の事前準備が功を奏し、下記の措置は混乱なく実施された。


横鎮砲術参謀を自動車で、東京へ実情実視に急派。


横鎮から海軍砲術学校所属の掌砲兵20人を海軍省に急派。


特別陸戦隊一個大隊用意。軽巡洋艦「木曽」急速出港用意。


横鎮麾下各部隊は自衛警戒。



午前9時近く、長官官舎の米内から「俺も出て行った方がいいか」と電話がかかってきた。


井上は「当面の手は全て打ちましたが、やはり長官が鎮守府においでの方がよろしいでしょう」と返答した。


米内は、早朝に副官から事件の報告を受けていた。


登庁した米内は、井上に、陸軍反乱部隊が宮城を占領したらどうすべきか問うた。


井上は「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を「比叡」(横鎮所属)においで願いましょう。その後、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを言っても、海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく(陛下に)軍艦に乗って頂ければ、もうしめたものだ」と即答した。


特別陸戦隊一個大隊を乗せた「木曽」の出港寸前に、軍令部から「待った」がかかった。


警備派兵には手続が要り、横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのにも、軍令部総長が天皇の命令を伝達する形式を踏まねばならないという内容だった。


軍令部は「横須賀鎮守府特別陸戦隊(曩<さき>に派遣のものを合せ四(個)大隊を基幹とす)を東京に派遣し海軍関係諸官庁の自衛警戒に任じしめらる」という命令を出した。


この時点で横鎮が用意していた特別陸戦隊は一個大隊だったので、三個大隊を追加編成する必要が生じた。


そのため、佐藤正四郎大佐(のち少将、井上と同期、海軍砲術学校教頭を務める陸戦の権威)が指揮する横鎮特別陸戦隊4個大隊は、その日の午後遅くにようやく東京・霞か関の海軍省(2012年現在の農林水産省本庁舎の場所)に到着した。


井上にとっては不本意であった。


ただし、結果としては、特別陸戦隊4個大隊(2,000余名)[79]を編成・派遣したことで、陸軍反乱部隊(歩兵のみで1,500名程度)と同規模の陸戦兵力を海軍省に配備することができた。


戦後、井上は、二・二六事件当時の軍法によると、横鎮の所管区域である「神奈川県・東京府の海岸海面」上で、横鎮麾下の警備艦を行動させるのは、横鎮長官の権限で実施できた。


ただし、海軍省警備のために陸戦隊を芝浦に上陸させるのは、「陸上」は横鎮の所管区域ではないため、横鎮長官の権限を越えたかもしれない。これは、横鎮長官の有する「警備」権限の解釈、すなわち『鎮守府令』第2条「鎮守府は所管海軍区の警備に関することを掌り」の解釈の問題である。


結果としては軍令部の干渉に屈してしまったが、「木曽」を芝浦に回航するのは、軍令部が何を言おうが、横鎮長官の権限で出来たのだから、直ちにやるべきだった、と悔やんでいる。


井上が、海軍省軍務局一課長時代に、生命と職を賭して反対した「省部事務互渉規程の改訂」により、改訂前は海軍大臣の管轄だった「国内警備艦戦部隊の派遣」に干渉できるようになっていた軍令部が、横鎮の素早い動きに待ったをかけたのは、井上の軍務局一課長時代の危惧が当たったことになる。


1936年(昭和11年)11月16日軍令部出仕兼海軍省出仕。


兵科機関科将校統合問題研究従事。海軍大臣永野修身大将の特命によって、海軍の長年の懸案だった「兵科将校と機関将校の一系化 (兵機一系化)」問題の解決に専念した。


1937年、井上は「兵科将校と機関科将校の両方の勤務をこなす少尉候補生の育成には、現在の兵学校・機関学校の修業年限4年でも不足。4年の修業年限を維持するなら、一系化を促進すべし」という答申書を、海軍次官の山本五十六中将に提出した。


井上が答申書の条件としていた兵学校・機関学校の修業年限「4年」は、答申書提出翌年の1938年(昭和13年)3月卒業の兵65期・機46期まで維持されたが、1939年(昭和14年)3月卒業予定だった兵66期・機47期は支那事変により1938年(昭和13年)9月に繰上卒業して「3年6か月」となり、戦争の激化で最終的には「2年4か月」に短縮された。