結婚から40年 ー 懐かしいドラマを観ながら | オーストラリア移住日記

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憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

1984年に心ときめかせながら観た人間ドラマ「オレゴンから愛」が再放送された。

初回放送の1年前、83年に私は結婚し、新婚旅行先はカナダのバンクーバーを選んだ。

バンクーバーはドラマの舞台であるオレゴン州ポートランド郊外から約1,000km北に位置し、現在シドニーに住む私達にとって、ブリスベンとほぼ同じ距離と思えば、アメリカとカナダの国境を挟むものの遠いという感覚は無い。

 

6月4日に私達夫婦は結婚40周年を迎える。

シドニーに移住してから35年、私達夫婦にとって、あのバンクーバーへの新婚旅行がシドニー移住への出発点だった。

ペアルックにツアーバッジを付け、夜の出発にも関わらず、成田空港南ウイングに到着したのは昼頃、あの時のワクワク感は今もよく私達夫婦の話題にのぼる。

パソコンもネットも無い時代、79年に創刊された「地球の歩き方」も知らなかった。

事前準備ゼロだった私達はバンクーバーの街並みや雄大なロッキー山脈の大自然、宝石のように美しいレイク・ルイーズやバンフの街並みに純粋に心を奪われた。

バンクーバーでは持参したトラックスーツに着替え、夕刻、ホテルからハーバー・マリーナまでジョギング、フレンドリーな八百屋の店主に手を振り返し、コンビニの棚に並んだ「出前一丁」を見つけただけで、私達はハイな気分になった。

「いつかこの街に住もう!」

日本に戻り現実を前にして、そんな夢のような日々が過去の良き思い出に変わるのは極当たり前の成り行きだが、私達の夢心地は何かに導かれるように長く続いた。

カナダ大使館を訪ね移住に関する書類を集め、どこかでカナダフェアがあれば足を運び、現地でお世話になったツアーガイドに長い手紙も送った。

彼はカナダ経済の現状や彼自身の生活、ビザ取得の難しさなどを丁寧に書いて返事をくれた。

40年経った今も「木下さん」という名前だけは忘れない。

 

85年3月にラグビーのニュージーランド遠征に参加し、朝、ラグビーボールを蹴りながら学校へと向かう少年たちの光景が私には目からウロコのように眩しかった。

「そうだ!これが俺が望む子供を育てる環境なんだ!」

私達の夢の方向が一気に北半球から南半球にシフトしてしまうことになるが、妻が妊娠し、4ヶ月後の7月には私達の夢に子育てが加わることが大きな要因だった。

ただ、夢を膨らませれば膨らませるほど、"現実"という様々な課題にぶち当たった。

そう、ビザの問題や英語への対応、はたまた文系の私に一体何の仕事ができるのか?家族を食べさせていけるのか?病気になったら?・・・
何一つ「これは大丈夫!」と胸を張って言えるものは無かった。

それでも、83年に芽生えた海外移住の芽を確固とした太い幹に育ててくれていたのは、84年に妻と二人で心ときめかせながら観たドラマ「オレゴンから愛」だったのだ。

当時、私は28歳、妻は21歳だった。

 

ドラマの流れは、事故で両親を亡くした幼い少年がアメリカ北西部のオレゴンに住む叔母夫婦に引き取られるところから始まるが、その映像のほとんどが現地ロケであり、海外で生活するリアリティが実感出来た。

シドニーに移住してから35年、今回の再放送は、海外生活への憧れを抱きながら日本で観たのとは明らかに異なった感覚で、海外移住の当事者として実感出来ることが多かった。

昨年8月、俳優古谷一行さんが他界されたが、私達にとって彼は「オレゴンから愛」の主人公というイメージが圧倒的で、その訃報を目にしながら、仲間を失ったような気持ちになった。

ドラマの主人公の叔母夫婦、古谷一行と木の実ナナの営む暮らしは決して夢のような海外生活とは言い難いが、それでもどこかに喜びを見出しながら真面目に生きる姿勢は、私達家族が辿った35年間に通じるものがあり、今の平穏な暮らしと裏腹に、苦悩や不安、ささやかな喜びの入り混じった時代を思い起こさせてくれる。

そう、彼らの置かれた立場や考え、発する言葉、また彼らの生活そのもの、苦悩や喜びが他人事のように思えないのだ。

 

シドニーに住んでから「北の国から」や「ドクターコトー診療所」を観る機会に恵まれたが、どこか「オレゴンから愛」に通じるものを感じながら、毎回観る度に涙が溢れ、私自身も共感出来る日本人の心のようなもので胸がいっぱいになった。

ただ、シドニーでの生活が日本で暮らした年数を超えた今、表面的には全てが便利で何でも簡単に揃い、何を食べても美味しく、その上安全な日本になぜか魅力を感じないのだ。