祈り | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

 

Caution !!!

 

本日は実にメンドイ内容ですし、

 

私の意見が多いので洗脳されたくない方は

 

閲覧しないで下さい。

 

 

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祈りについて、本をいくつか読んでいます。

 

 

宗教的な側面からの書籍が多く、科学的な視点での祈りについての書籍については

 

未だ入手できていません。

 

 

ネットでググってみると、仏教的見解には、

 

「自分はこうします」や「実現してみせます」などのような

 

「宣言すること」や「感謝すること」などと出現してきます。

 

 

千手観音への祈りについては、家内安全、厄除け、病気平癒、商売繁盛など

 

多様な願いを込める祈りとなっています。

 

 また語彙的な意味から分解してみると、

 

示す辺と音符としての機能や曲がった斧に刺して献上したという意味もあり、

 

祭壇に何等かを捧げて祀った状況を祈りとして表したという見方であり

 

また、チャットGPTに質問してみると

 

宗教的な祈りと、心理的な祈りとでは違いがあり

 

宗教的な祈りには、神・仏・祖霊・天などの聞いてくれるであろう相手が違い

 

特定の教義・伝統において行われるものであり、

 

感謝や守護、罪への許しや導きや啓示を求めるものが祈りであるとされ

 

また、心理的な祈りには、自分自身や心の内側や世界全体や抽象的何かという

 

明確な相手がいないという特徴があり

 

不安の軽減や心を落ち着ける作業であったり

 

自己肯定感の回復や希望の確認作業を行うことを前提に於いて

 

祈りを行うものであると表される。

 

仏教思想全般では、人間とは欲によって動いている

 

という事から祈りを見るなら、

 

祈る人ほど願いという欲が強く、生きる為の活動の原動力が多いとも考えられる。

 

 

またキリスト教などでは、お願いすること、利他への願い

 

障害物、つまりは自由意志への障害や暗闇の領域や否定的な意志や言語、

 

悪口などへの苦悩への整理を行う準備期間を用意する時間というものに対し

 

霊的に見つめる方法と述べられており

 

また新興宗教である出口王仁三郎などは、現世界と霊的世界を見極めて

 

霊的な世界から現世界の過ちを正すために、祈りという作業手順によって

 

人生を見直すことが出来ると解いています。

 

 

また、キューブラー・ロスさんが末期癌患者に聞いた祈りの意味については

 

恐怖に対峙するためにであったり、

 

自分に潜む深層心理との対話のためであったり

 

心の自由を得る為の祈りであったり、

 

延命のために神との契約を果たすための祈りの行為を行うという作業であったり

 

死ぬのが私で良かったという感謝の祈りという願いと伝達であったり

 

と表しています。

 

また、話が逸れてしまいますが、叶うという単語には、

 

口にして言葉で10回発言することによって、願いが成就するという意味があり、

 

無言の祈りという行為に対して、有言の叶うという言葉は対象的な表現のようにも思います。

 

また、 愛と恋の違いのように、

 

祈りとは一方的恋と相思相愛の愛という言葉の違いに見る願い

 

という一方的恋と云う言葉のニュアンスに近いようにも思わされます。

 

 そういうことから違いを導き出すなら、

 

現時点で浅墓なノミの脳しか持たない私の個人的な祈りの見解としては、

 

あまり一般的願いから逸脱しない範囲でそれを表すなら

 

祈りとは「促通するための手段」

 

と広義に捉えてみても良いのではないでしょうか?

 

 

心が何らかの違和感や異常感を感じている時に、つかえをそのままにしていれば

 

必ずその影響が言動や行動、考え方、ひいては人格に影響してくるものだろうと思うから

 

そのままで良いのであれば放置しておきますが、

 

もしも放置していては、人格的にも社会的にもまずい状況に陥りそうな場合や

 

何か自分がおかしいな方向へと向かうのではと思った時には、

 

一旦立ち止まって

 

何が原因で、何に違和感を感じているのかという非言語的状況を

 

言語に置き換える作業(言語化)(神への報告)が、

 

瞑想であったり、チルタイムであったり、時間稼ぎのリクリエーションの時間だったり

 

もしくは、純粋な行動としての祈りという時間

 

であったりするのかもしれないと思ったりするのです。

 

 

祈りという目をつぶり、もしくは半眼(霊的視点)で、手を合わせ、

 

または手を組むという作業手順と

 

静かな場所で厳かに姿勢を保持し、心を集中させるという

 

半ば儀式と云える行為には、

 

いくつかの方法があることが書籍を通してわかってきました。

 

 

一つには、キューブラー・ロスさんが提唱する

 

1.抵抗

2.受容

3.希望

4.決着

5.感謝

 

の順に祈りに於ける中身は進行していくというものです。

 

抵抗とは、なぜ俺にそんな不慮の不幸が訪れるのだ、

 

俺じゃなくたっていいじゃないか、貧乏人が先に癌になればいいのに

 

なぜ金持ちの俺が癌などにかかる必要があるのか?などという抵抗心

 

などを神などに報告し、抗う気持ちの言葉を発する期間があり

 

そして、それら降り掛かった事実への受容を行うことを認める期間

 

そして、それでも、未来への希望を見出す作業を行おうとする期間、

 

その後、それらの事実に対しての一連の決着を図り納得して、安らぎを得ようとする期間。

 

最終的に、それらの事実に対しての感謝という祈りに変わって平穏に過ごす期間。

 

ある意味で、この流れはキリスト教的なストーリーに見られる流れに近い印象を受けます。

 

天界で暇を持て余している天界族の一部が

 

地上界から聞こえる喜びの声や罵倒する大声、悲しみに打ちひしがれる声などを聞き、

 

その地獄のような世界に興味を持ち始め見下げて眺め始めるのです。

 

危ないし苦労するから絶対に地上界などには行ってはならぬという注意にも関わらず、

 

幾人かは興味を抑えきれずに地上に降り立ってしまうのです。(抵抗期)

 

降り立った先は、どの家庭の肉親にも期待され抱かれることなく、

 

飼い馬桶に誕生するという(受容期)・・・(希望期)・・・

 

キリスト発生ストーリーにも似たようなプロローグが面白いです。

 

 

その後、様々パンドラの箱から生まれた試練というプレゼントを受け、乗り越え

 

いよいよすべての試練を乗り越えた先に(安寧期)、

 

天使が迎えに来るというのがキリスト的

 

地上世界を「生きる意味」な理由という訳ですが・・・。

 

 

さて、私が思う祈りとは、

 

本来の漢字の意味を現代に則して拡張した認識で

 

「促通するための手段」ということにしたのですが

 

何を云わんとしているのか?

 

つまり

 

人間は、欲が勝った時にお願いする祈りには、大体は神やキリストなどという

 

偶像崇拝に向けての一方的な愚痴のような、

 

もしくは権威者であるかの如く傲慢にこちらの一方的思いをぶつける為に

 

手を合わせることがあると思うのです。(上から目線)

 

次に、お願いするのは、天から降り降りてくる利益や配当に値する何かを期待して

 

待ち続けるという姿勢の祈りであり、(下から目線)

 

これは、自分がまるで庇護者であるかのような振る舞いでもあり、

 

神を仮想に自分は弱者を演じて見せているようにも思います。(お願いポーズ)

 

もう一つは、困難に当たって四面楚歌であり、出口が見えない時に手を合わせる手法であり

 

現代では、この時の祈りこそが、最も私は重要だと思うのです。

 

 

つまり、心の促通のための手段としての祈りの儀式という訳です。

 

 

問題を解決するには、皆さんどのような方法で対峙しているでしょうか?

 

WHAT

 

WHO 誰が

 

HOW いつ

 

AND 誰と

 

THAT 何に対して

 

などのように、問題を細分化して整理・明確化するところから始めることが多いと思います。

 

人はそれを記憶を使って整理しようとすると思います。

 

 

その記憶をより多く引き出す方法に目を瞑るという第一歩が働くように思います。

 

その次に、時系列に過去へと記憶を蘇り、何が原因で、

 

そして何がターニングポイントだったかを思い起こすと思うのです。

 

それによって、問題の修正方法を導き出すことが出来るというのが反省と称する

 

記憶の遡りと反芻ではないでしょうか。

 

 

一本の糸の絡みが解けて先が見通せるようになれば御の字ですが

 

人によっては様々な糸が絡み合うことがあります。

 

この場合には、何度も絡みを解くのに挑戦する必要があるでしょう。

 

また上手に糸をほどける者や、なかなか器用にほどけない者もいるでしょう。

 

それらには、きっかけが必要であり、そのきっかけは知識量に大きく依存し

 

知識量の多いものほど容易く解け、知識量の少ないものほど時間を要するように思えます。

 

だから人は、宗教という過去の都合よく修正されて進化した悩みの蓄積に対しての答えを

 

教えと称して魅力を感じてしまうのだろうと思うのです。

 

 

この促通をして解決した状態を、一種「癒やし」と呼ぶことも出来るだろうと思います。

 

 

癒やされたいと願う時、それは心の閉塞があり、それが促通できていない状態の時に

 

切に癒やしを求め、その解決策を提供してくれる人や場所に

 

癒やしの安らぎ処を得るのだろうと私は考えています。

 

だから、形だけの癒やしは何度経験しても癒やされることはなく

 

パチンコホールに通っても、釣り場に通っても、性感ヘルスに通っても

 

癒やされるものではないと思うのです。

 

 

心の閉塞状況を開通し、精神の促通があってこそ癒やされるのだと私は思います。

 

などと云えば、あなたは学者か何者か!

 

などとお叱りを受けるかもしれないけれども

 

わたしの個人的意見として、そう思うだけです。

 

 

自分が祈りたい時

 

それは、自分の思いという欲としての願いなのか?

 

それとも仮想神を通して見た、つまりは第三者からの見ての客観的要求なのか?

 

それとも、問題解決のための記憶の逆行作業なのか?

 

それとも、幸せの先取りとしての感謝という行為を行うものなのか?

 

その祈りのタイミングで内容は違ってくると思いますが、

 

いずれにしても、促通するという事がキーワードのような気がしています。

 

千年の祈り

 

等というとかっこいい表現ですが、私からすれば千年経っても癒やされない問題

 

つまりは、解決できていないということであり、

 

もう少し、解決できる知識を蓄える必要があるのではないだろうかと疑問視してしまいます。

 

 

もしくは、世界平和という希望の為の願いとしての、自己主張とするならば

 

千年を祈り続けるということも頷けるかもしれません。

 

 

このようなロマンがなく、竹を割った表現しかできなくて申し訳ありません。

 

 

そして、昔から気になっていたことではあるんですが

 

 

半眼で手を合わせるという行為についてです。

 

以前、ある踊りというか、儀式的神事の振る舞いを見たことがあります。

 

 

その時に、たまたま半眼となりボッーと見ていた時に、

 

なんだか違う世界を見させられているように思ったことがあります。

 

つまり、丹波哲郎の霊界というものです。

 

私はバイク事故で花畑に行ったことがあり、走馬灯という世界を体験しました。

 

故にハッキリと言えるのだと思いますが、霊界はあると思っています。

 

それを前提に丹波哲郎的に当然の事のように進めていきますが

 

現実世界では火が焚かれて、精霊送りのような儀式が行われていますが

 

私は、その時一瞬、違うものを見ている気がしました。

 

出口王仁三郎の解く霊界の世界です。

 

半眼で見つめるとは、そのような作用があるのだと思います。

 

眼をかっぽじって見るという行為には、注意深く現実を見つめるという意図と意味があり

 

半眼で見る世界は、霊界からの視点に移り変わり、別の自分で世界を見ることが出来ます。

 

メガネをしている人なら分かりますが、

 

メガネを外して見るとまるで別のなにかを見ているように思う時がありますが、

 

そんな感じです。

 

という倫理よりも、更に高次元の神聖な域に存在するものとして

 

心を問う舞台に位置することができ、

 

また、目を閉じた世界には、あらゆる神を含めた超越した場

 

(空想世界、妄想世界を含め)が対象になるように思います。

 

現実世界を対象として眼を開けてお願いするのか?

 

霊的な世界を対象とする為に眼を半眼にして見つめるのか?

 

超越した場を対象とする為に眼を閉じて祈るのか?

 

という精神のステージの違いであるように思います。

 

人間には、細かく意識と云うものを分解してみると立ち位置の違いがあるように思います。

 

東洋医学に於いても、魂(肉体に宿るもの)、

 

神(精神活動や生命活動を統括する概念)、

 

意智(思慮や思考、アイデアを形にする概念)、

 

魄(魂と対になる概念で本能や感覚、反応、意志や行動の原動力)、

 

精志(意志・意欲・決断力)に司る世界があると述べています。

 

 

きっと、昔から精神や意識というものには

 

このように、精神活動にもステージがいくつもあると考えられていたのでしょう。

 

ということで、

 

はてさて、今日も自分は分かるけれども、人には分からない比喩的表現を書いてしまい

 

大変申し訳ありませんが、何せ小さいノミのような脳みそから絞り出した文章ですので

 

大目に見てやってくださいまし。

 

何でも細分化して、追求してみると見えてくる世界というものがあるもんですね。

 

 

ということで、

 

今日は祈りについてとりとめのつかない話をしてしまいました。

 

 次回ピックアップする場合には

 

祈りの概念ではなく、祈り方について書いてみたいと思っています。

 

あと1ヶ月もすると山形市の護国神社をはじめ、

 

多くの神社に欲望を宣言しにお願いをしに向かわれ手を合わせる姿をみるでしょう。

 

その宣言と願いが成就すれば、お礼参りに感謝の手を合わせ、

 

成就しなければ、さらなる願いをしに金という対価を貢いで手を合わせ、

 

永遠に欲望の循環というシステム、または良い言い方をすれば、

 

欲という生命活動の原動力のある人々を観察に行くのでしょうが、

 

ここで、どんな人が救われ、また救われないのか?という所も見所だと思うと、

 

なんだか自分の視野の狭さにがっかり(´・ω・`)してしまいそうですが、

 

多分に漏れずに御札をゲットしてきたいと思います。

 

どんだけ、自分が欲深く卑しいのかがバレてしまいますね。

 

生命活動力の強い人間ってことにしておきましょうかね

 

WWW

 

最後まで御覧頂いた皆様は、私の意見「促通論」に見事に洗脳されたでしょうか?

 

爆笑

ということで

 

御覧いただきましてありがとうございました。お願い