「 ... 覚えし春の 気まぐれよ よくばり冷や酒 啜るはな冷え」
面倒なことは、決まって大概、起きてほしくない時に、そして、大抵ひとに断りもなしに起きる。
そんな状況を「アドレナリン踊る小気味よさ」と受け止められる元気いっぱい人間とは、一体どんなひとなのだろう。
ある一定の予測が立つ場合と、全く予期せず、面倒な展開を見せる厄介なことが起こる場合がある。
前もって予想されるような事態を招く温床の例として、長年の夫婦生活における互いの行動様式を検証してみよう。
互いが「空気のような存在」となるまでには少なからずも、意識的に相手を理解するための試み、努力の痕跡もあったと仮定。
理解までに要した手段、方法は、各々異なってよい。
が、「理解に要した時間」に関してだけは、長ければ長いほど、自然の恵み「空気」のように、対象人物のひととなりを、両者の ”common space" 共有空間へと、じんわり伝えてくれる。
受け手側にとり、それは非常に分かりやすい。
そのために必要な資質は「忍の一字」だけである。
関係が良好である場合、世間ではこれを「阿吽の呼吸」とし、最大賛辞で美化し持て囃す。
同じ酸素を同じように呼吸し、その繰り返しに、互いが、互いに、倦きがこない状態は、誰もが羨む理想的な関係性と言われるかもしれない。。
または、同じ酸素を、互いが互いに、どのきっかけで息を合わせるのか、最も厭きがこない状態で呼吸合わせが必要であるか、を知り尽くしている状態が、圧倒的に理想的持続する関係性。
だが、これら一見、良好な関係がひとたび淀み始めると、いかなる展開が予測できるだろうか。
まずは、生死に関わる「呼吸運動」そのものが困難になることが、筆頭に挙げられるだろう。
例えば、字面のみで識っていた「手に汗握る」感触が、次第に真実味を帯び、歓迎されない習慣となり、不快な身体症状のひとつとして現れる。
最早「空気のような存在」は、その終わりのはじめであることを否めないだろう。
冷え切った関係の最期通告は、公的機関発行死亡診断書のみが、事務的に事実を報告し、成立する。
十六夜
およそ満月の翌日、新月から16日目の夜、または月を指す、月の呼び名のひとつ。
旧暦8月15日にあたり、現代の暦では毎年日付が変わる。
中秋の名月として知られる十五夜とともに秋の季語。
十六夜が満月となることもある。
北半球(日本、日本語)では「十六夜」の解釈がこのようになされる。
ここは南半球、季節は逆行しゆく。
「逆も真なり」