上祐史浩

オフィシャルブログ ―― 21世紀の思想の創造


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               宗教と宗教を超える道 第10回

            戦後70年、日本の戦争と宗教、その超越。


 今年は戦後70年です。各種報道でも、この話題が徐々に取り上げられ始めています。そこで、日本の戦争と宗教に関して、私が思うところをお話ししたいと思います。

 大日本帝国の戦争は、宗教的側面から見れば、日本を神の国とする国家神道の体制に基づいて行われました。

 そして、合理的に考えれば勝てるはずのない米国に対して戦争を行なった理由の一つは、神の国である日本は敗けるはずがないという盲信でした。当時の軍の最高幹部は、米国と戦わずして引き下がることは、(神の国である)日本の精神の滅亡だと主張したと言います。

 天皇を現人神とする大日本帝国の国家神道の体制は、キリスト教をもつ欧米列強に対抗するために作られたと言います。というのは、明治維新の際に、列強を視察した伊東博文などの日本人は、世界に進出(侵略)する欧米諸国の強さの原因の一つは、キリスト教だと考えたのです。

 キリスト教が、国家の精神的なまとまり・団結力・勤労精神・産業力を支え、さらには、その布
教が植民地侵略を正当化していた面があったのでしょう(初期の植民地侵略は、カトリック教会自体が、植民地を含めた政治を支配さえしていた)。

 国家神道の体制の形成の過程で、仏教は弾圧されました。聖徳太子が仏教を導入して以来、神道と仏教を融合した日本独自の神仏習合の伝統文化も否定されました。 


 仮に仏教が守られていたらどうだったでしょうか。神仏習合型の宗教である修験道において、日本を代表する指導者の一人は、仏教ならびに神仏習合の否定が、大日本帝国の暴走に繋がったという考えを持っています。

 そうした一面もあったかもしれないと私も思います。

 そもそも、仏教は、中国・朝鮮から日本に伝来しました。大日本帝国は、そこに進出(侵略)し
たのです。日本を代表する聖人である聖徳太子の仏教の師は、中国人でした。その聖徳太子の前生が、中国高僧であったという伝説もあるそうです。

 さらに、弘法大師空海、伝教大師最澄は、中国に留学して教えを学びました。遣隋使・遣唐使の時代ですね(なお、聖徳太子の前生とされた中国の高僧が、最澄が日本に伝えた天台宗の始祖の師匠です)。

 仮に、日本が、明治維新後も、仏陀の教えを奉じていたならば、その教えを伝え教えた国々を侵略したでしょうか。

 当時の富国強兵を掲げた明治の日本には、軍事力が弱く、列強の侵略を受けていた中国や朝鮮を尊敬する理由がなかったのでしょう。宗教面での尊敬・経緯・感謝が、中韓にあったならばどうなっていただろうかと思います。

 仏教は、本来は、日本から朝鮮・中国・チベットまでが共有する伝統文化です。

 しかし、仏教を廃した大日本帝国は、中国・朝鮮を侵略しました。

 さらに、共産主義と文化大革命で仏教等の宗教を否定した中国共産党は、仏教国のチベットを侵略しました。中国は元の時代は、皇帝がチベット仏教を信奉していたと言います。

 そして、大日本帝国の侵略の傷跡と、チベットの人権問題は、今現在も続いている問題です。


 国境を超えた団結を形成する最も強力なものが、宗教だと思います。ヨーロッパが、EU連合として一つになろうとしているのは、国は違えど、皆がキリスト教徒である、ということが大きいと
言われています。イスラム教徒の国境を超えた団結・ネットワークも良く知られています。

 もちろん、この宗教による国境を超えた連合同志が、キリスト教国とイスラム教国のように、
戦争する場合もあります。自分達こそが最高・唯一と考える信仰は、多くの場合は、他を暴力をもって排除してよいという思想とセットとなることは間違いないと思います。


 それはともかく、もう一つ印象深く思うことは、日本の対米戦争の開戦日が、12月8日であっ
たことです。真珠湾攻撃の日ですね。

 この日は、あまりよく知られていませんが、日本の仏教徒にとっては、キリスト教徒にとってのクリスマスのような日なのです。仏陀が成道した、悟って仏陀になったとされる日です(ただし、日本仏教の習慣であって、他の国の仏教のものではありません)。

 キリスト教国の戦争では、クリスマス休戦という言葉をよく聞きます。イエスの誕生した日くら
いは、戦争を休戦しようというものです。仮に明治の日本が仏教を奉じておれば、12月8日の開戦はなかったかもしれないと思います。


 もちろん、仏教を戦争の正当化に大々的に使うなどしておれば、どうなったかは分かりません。

 実際に大日本帝国の際も、国柱会など、日本軍の幹部(石原莞爾など)が、法華経・日蓮の思想を解釈し、日本がアジア・世界を統治するべきであると考え、中国への軍事進出を強行した事例もあると聞きます(満州事変など)。

 古くは、戦国時代に織田信長と戦った勢力の中に、一向宗(浄土真宗)の信者や、比叡山の僧兵が存在しました。一向宗は、信者に対して、織田信長と戦えば、死んでも極楽浄土に行くことができ、戦いから逃げれば地獄に行くと言って、信者を戦争に向かわせたそうです。

 こうして、国家神道、キリスト教、イスラム教に限らず、仏教についても、その解釈によっては
、戦争を正当化する思想となると思います。

 しかし、こうした仏教の解釈は、国家神道やキリスト教と同じように、特定の仏陀・経典・宗派を絶対視するタイプのものです。それによって、それを報じる自分たちを絶対化し、その軍事行動を正当化するのだと思います。


 これに対して、私が書いている「心の安定のための思考法(人生哲学)」のブログのシリーズ記事において時々ご紹介する仏教の中の人生哲学は、何か特定の崇拝対象を信じるものではありません。それは、釈尊が説いた、信仰ではなく、心の安定=悟りを得るための哲学に由来するものです。

 それは、数千年の心の問題の探求の結果であり、高度な心理療法の効果を持つ人生哲学だと思います。

 それは、宗教としての仏教ではなく、人生哲学としての仏教です。仏教は、信仰、哲学、心理学といった要素を含んでいます。信仰、特に盲信の部分ではなく、その人生哲学・心理学の部分を私は活かしたいと思っています。

 そして、幸いにも、ブログの記事を読んだ多くの方から、心の苦しみが和らいだというメールを
多数いただいております。大変うれしいことです。しかし、これは、私が書くずっと以前い、イン
ドから、チベット、中国、朝鮮とわたって、日本に伝来した智恵でした。

 その中には、開祖のゴータマシッダルーダの苦労から、西遊記で有名な玄奘三蔵の17年の求法の旅を含め、実に様々な国内外の人たちの命がけの努力があったことは、忘れることができないと思います。

 そして、未来において、人の心の問題を和らげる仏教哲学の真の価値が、日本を含めたアジア社会に広く理解される時が来るならば、それを伝統文化として共有するアジアに、平和の輪を作る助けになるかもしれないと私は夢想しています。 
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                宗教と宗教を超える道 第9回
                   今必要な人の輪


 戦後70年が近づき、その話題が多くなりました。70年前の日本は国家がぼろぼろで、食糧難でした。私の身近にも、今80歳近い、私の母親や、ひかりの輪の専従スタッフは、当時の苦境をいろいろ話してくれます。

 宗教という視点から言うと、この時期、国家による社会福祉政策が機能していない中で、宗教団体が、人々のための生活相互扶助組織の役割を果たし、急速に拡大したと言われます。たとえばS学会などですね。

 しかし、戦後70年、経済大国となった日本は、生活保護や医療保険制度など、一定の社会福制度が整備され、宗教団体に戦後のような役割は求められなくなりました。よって、最近は、若者がS学会などに(親などの勧めではなく)自ら入会することは少なくなったとよく聞きます。

 さて、心理学的には、人には、生存欲求と承認欲求があります。貧困・飢餓が社会福祉制度で解決すると、生存欲求は満たされますから、残るは承認欲求ということになります。

 承認欲求とは、自分が、社会の中で、何かしらの形で、自分の価値を認められ、自分の価値を感じられることといった意味でしょうか。多くの場合、家族、会社、その他の集団・コミュニティに属して、その中で一定の役割を持ち、評価を受けているとか。
 
 しかし、この承認欲求に関しては、生存欲求と比較して、残念ながら戦後70年絶った今、十分に充足されているとは言い難い状況です。

 むしろ、華々しい経済成長を経験し、一億総中流と言われ、ジャパンアズナンバーワンという勢いのあった昭和の時代に比べれば、バブルの崩壊、デフレ経済、失業・自殺者の数が高止まり、勝ち組負け組、若者のワーキング・プアー、そして、メンタルの問題が目立ってきた今現在は、個々人の承認欲求の充足感は相当に低いのではないでしょうか。

 そこでは、卑屈・コンプレックス・怒り・妬み・嫌悪・不安・恐怖といったものが、人々の心の中に渦巻いて、様々な人間関係の問題・ストレスが所持ています。そして、引きこもり・うつ病・自殺・いじめといった社会的な問題も増えているように思います。

 こうした精神的な渇きに対して、どうしたらいいのか。

 残念ながら、家庭や学校、そして企業の教育は、この問題に対処しきれていないようです。そこでは、知識や技能は学ぶことができても、心の問題・苦しみ・ストレスを解決する、いわゆる「智恵」の教育は不足しているようです。

 というか、家庭の親、学校の教師、企業の上司自身が、心の問題を患っている面もあるようです。

 そして、最後は、精神病院となりますが、そこでも、今現在は、投薬を中心とした治療が広がっています。もちろん、薬の使用が合理的な場合も少なくないと思います。

 しかし、そもそも、心の問題である以上、精神的な対処が自然であるにもかかわらず、治療側の能力・時間・経済的問題や、患者側の依存の問題もあって、過剰な薬物治療への依存は、批判されつつも、残っているようです(欧州では積極的な改善が試みられているようですが日本は遅れ気味とも)。

 では、国家機関が機能しなかった時代に、必要とされた宗教団体は、今現在は、この精神的な渇きに対して、どうしているのか。

 私の結論から言えば、ある意味では機能しているのですが、健全には機能していません。

 宗教団体は、自分達こそが一番正しいという主張をしますから、それを信じて入会するならば、分かりやすく言えば、選ばれた民として、プライドを満たすことができます。

 そして、その宗教団体の世界の中で、教祖や幹部の求めるように、教えに従い、お布施をし、入信勧誘に励めば、実際にいろいろな評価・名誉・地位を得ますから、承認欲求を満たすことができます。

 しかし、これは、宗教団体と信者全体が、科学的・合理的な根拠がなく、自分たちが一番正しいと思うことを前提にし、外部社会は、自分達より下の存在であり、自分たちを否定する者は、自分達=神仏の意志にかなう集団に抗う悪魔的な存在という意識を伴います。

 この教団・信者と、外部社会・非信者の対立は、家族の中でも発生します。家族内の宗教戦争ですね。客観的に見れば、その信者・教団が、社会への適応不全を起こしているのかも知れません(教団が一定の規模となり、信者が、教団中心の生活をすれば、その人には、教団が社会となり、適応不全を自覚しにくくなりますが)。

 こうした状況であるがゆえに、宗教団体が、承認欲求を充足させることはなかなかできないと思います。信者は、団体内では承認されても、団体外では逆に対立・非難を受けることになり、非信者の多くは、宗教団体に不信を持ち、承認欲求を
充足する手段になららないからです。


 よって、健全な形で承認欲求を充足する手段を発見・創造しなければなりません。

 そのために有効だと私が基本的な思想・哲学・実践としては、

1.特定の信仰を伴わない仏教の普遍的な思想・人生哲学、

2.1と共通点も少なくない心理学・心理療法・そのライフスタイル、

3.上記を下支えする健康法・修練法・生活規範・環境整備、

4.上記の学習・実践を助け合う、励ましあう人々の輪の形成

 などではないかと考えて、ひかりの輪を行っています。

 これは、特定の神仏・人物・教義・集団を信仰する必要がなく、合理的なものです。そのため、理論的に言えば、将来は、家庭教育・学校教育に取り入れることが可能な普遍的なものです。 

 言い換えれば、こうした取り組みは、70年前に宗教団体が補った社会福祉と同様に、今現在の公的な教育主体(家庭や学校)が行っていない分野だと思います。こうしたことは、いつの時代も、まずは、私的な集団・団体が先駆的に行っていくことかもしれません。
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             宗教と宗教を超える道 第8回
           霊能力ではなく、野性力・動物的な感
 
 
 前回は、超能力、霊能力は、普通の人を超えた力ではなく、誰も体験している「人間の中の自然な力・要素」であって、そうした力の裏側には、実は、普通の人にはない欠点もあるので、能力と解釈するのではなく、長所と短所が裏表である個性と解釈するのはどうかと述べました。

 ここで、欠点の裏に長所がある、という話に関連して、麻原の長兄の方のお話があります。長兄の方は全盲で、そういった方によくあるように、鍼灸・指圧んの関係の治療家でした。そして相当に腕がよく、大勢の患者が訪れていたそうです。

 そして、オウム事件後に、作家の藤原新也氏が、長兄の方を訪れた際に興味深い体験をしたことを著書で述べています。藤原氏が、部屋に招かれて、土産の品を畳においた時に、その音だけで土産だと察知されて、お礼を言われたそうです。こうして、麻原のカリスマ性は、長兄譲りだったのかもしれません。

 そして、五感の何かに障害があるが故に、第六感・直観力が発達するという話は、他にも聞いたことがあります。これも、欠点と長所がセットという話に結び付きます。
 

 次に、日本の宗教の中で、直観力がつくと考えるのが、修験道です。もちろん、修験道の目的は、悟りであって、超常的な力ではありません。ただし、修験道という言葉は、超常的な力を意味する験力(げんりき)を得るという考え方と関係しています。

 修験道では、山に入った厳しい修行で、そうした力が身につくと言われています。しかし、ここで山に入るということは、文明の利器は手放して、動物と同じ立場に身を置くことを意味します。

 そして、動物の中には、降雨や台風などを事前に察知し、身を守る能力があるものがいるとよく言われます。修験道の修行者は、自然の中で生き残るために、動物と同じように、直観力を生じさせるという考え方があります。

 この考え方は、私は非常に面白いと思いました。超能力とは「人間を超えた力」ではなく、人間が自然状態に戻った時に生じる「人間の自然な力」、「人間の動物的な力」であって、「人間の野性的な力」と表現できるかもしれません。

 よって、私の知り合いである日本を代表する修験道の大家の方は、都会化された現代人が修験道の修行で、その「野性」を発現させる(取り戻す)という表現を使っています。

 そして、修験道の歴史の中では、長く厳しい修行の結果として、身体が弱るという話もあります(現在行われている修験道の一般人に対する研修などでは、こうした健康を害するほどの内容は一切ありません。超能力も身につかないでしょうが笑)。

 なお、これは、スポーツ選手などで、直観力の高い人について、超能力ではなく、動物的な感などと評することがあるのとよく似ているかもしれません。元読売巨人軍の長嶋茂雄選手などは有名ですね。

 知り合いの剣道6段の方は、超一流の剣道や柔道の選手は、反射神経が良いというだけでは説明がつかず、相当の直観力があると解釈しています。

 
 そして、超常的な力が、人間の野性、動物的な感という本質を持つのであれば、超能力、霊能力という表現自体がよくないと思います。

 超能力というと、人間を超えた力というイメージがあり、霊能力というと、神霊に結びついた力というイメージがあるからです。ましてや神通力、神秘力と言うとよくないでしょう。人間の野性の一環としての直観力ということですから。

 こうして、障害者が障害を補うために発達させる力や、科学技術に守られない自然の中に没入した人間が発達させる力という考え方を見ても、超常的な力は、別の何かの欠落とセットという考え方が成り立ちます。

 こうして、なにかしら超常的な力があったとしても、

1.それは程度の差こそあれ、すべての人間に潜在している力=人間の野性であり、さらには、

2.その「力」が目立っている人がいても、それはその人の「力」というよりも、厳密には、その裏側の何かの欠点とセットであるその人の「個性」であって、

3.その人は、決して「人を超えた存在」ではなく、様々な「個性」をもった、多くの人間の一人である

 というように考えられるのではないでしょうか。

 その意味で、今現在、霊能者とか、スピリチュアルカウンセラーという職業を営んでいる方が少なからずいますが、彼らは、自分が、人を超えた力がある、という慢心に陥るべきではないと思います。

 それを自分の個性と見て、その裏にある自分の欠点を抑制しながら、長所が目立つように自戒、努力するべきだと思います。

 そして、周りの人たちも、そういうタイプの人を過大評価して、過剰に依存してしまうことは、なるべく慎むべきだと思います。
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              宗教と宗教を超える道 第7回

            霊能能力と精神病理:能力ではなく個性
 
 
 皆さんの周りにも、今日お話しするタイプの人がいるかもしれません。ひょっとすると、皆さん自身がそうかもしれません。

 その今回のテーマは、いわゆる、教祖、霊能者、霊媒体質の人、と呼ばれ、普通の人が見えない、感じないものを感じると言うタイプの人についてです。

 
 こうした人は、その信者には、人間を超え、神につながっている人と崇められます。その一方で、信じない人には、言っていることはすべて嘘で、詐欺師であるとまで思われることがあります。

 
 こうして評価が真っ二つに割れます。

  
 日本のスピリチュアリティ関連の研究をしている宗教学者(大学教授)からお聞きしたところでは、日本では、明治時代から繰り返し、スピリチュアルブーム が起こっており、その中で、霊能力者と言われる人が現れたそうです。そして、彼らが、どこかで普通の人を超えた能力を持つ人なのか、精神疾患者であるのかは、まだよく分かっていな いそうです。
 
 この問題は、私にも、重要なテーマであり、オウム真理教の教祖の麻原彰晃とはいったい何者だったのか、その人格をどう解釈する べきか、ということにつながってきます。多くの信者を引き付けた彼は、信者から見れば霊能力あったように見え、同時に一連の事件に至る妄想的・自滅的 な精神病理を抱えていました。

 
 
 さて、この問題を考える上で最初のポイントは、「霊能力」「超能力」とされるものは、必ずしも、人を超えた力ではなく、程度の差こそあれ、どんな人にもある、ないし、どんな人も体験するものではないかという視点です。
 
 そうではなく、オウムや他の宗教団体のように、すぐにそれを神につながる力、神通力、神霊の力と解釈していしまうところから見直していくべきではないかと思うのです。

 
 たとえば、直観、虫知らせ、正夢といった体験などは、そうではないでしょうか。そして、そうした体験が多い人、少ない人という違いがあり、前者を霊能者・超能力者と呼んでいるとも解釈できると思うのです。

 
 というのは、私が、オウムその他で実際に経験したり、宗教・精神世界に関して文献等で調べた範囲では、普通の人がわからないことを百発百中であてること ができる、絶対の霊能者、絶対の能力者は存在しません。もしいたとしたら、その人は、すでに全人類の教祖になっていると思います。


 これまでに、一世を風靡した、たとえばジーンディクソン、エドガーケーシー、最近話題になったジョセリーヌといった予言者とされる人が登場しました。彼らを見ると、衝撃的な予言の的中で有名になった一面はありましたが、その生涯の予言全体の中の何割が本当に的中したかを見ると、その割合は非常に低いと思います(たとえば、ジョセリーヌは5パーセント以下という情報もあります)。


 さらには、大きな予言(世界大戦・地球規模の破局)になればなるほど的中しません。つまり、客観的には、お騒がせという面があります。ただ、信者の人は、その預言者・教祖のおかげで、破局を防げたなどと解釈することがよくあります。


 もう一つ重要な話があります。それは超能力の偽装です。


 いわゆる、「知り合いによく当たる霊能者がいる」などという話を聞くことがあるかもしれませんが、この「よく当たる」という話は、実はいろいろ複雑な要素があるのです。


 たとえば、実際には、あたっていると思わせるような話の流れが出来ているだけだったり、単なる洞察力を霊能力を思い込んでいたりする場合があります。こうしたものコールドリーディングと言います。


 また、相談者の事情を何か別の手段で事前に入手しながら、あたかも初対面で霊能力で言い当てたという状況ができる場合もあります。これを意図的にやっていれば、騙しているに等しく、こうしたものはホットリーディングと言います。

 
 ただし、ややこしいのは、コールドリーディングもホットリーディングに対して、相談者のみならず、霊能者自身が気付いておらず、自分でも霊能力だと思い込んでい る場合もあることです。つまり意図的にやっていない。

 というのは、一部の霊能者は、自分に特別な力があると思うという一種特殊な精神状態にありますから、自分が自分でわからなくなってしまっているということです。

 さらに、相談者の特殊な心理状態があります。いったんある霊能者を信じてしまい=依存の心理が形成され、さらに、相談のたびに多額のお金を払うならば、相手に特別な力があること=自分の行為が間違っていないことという心理構造ができてしまいます。


 すると、客観的には、あたっていない場合も、無理してあたっていると解釈してみたり、ないしは何か自分の方が悪いのだろうとさえ考えるようになります。しかsし、本人はこのことに気づかないのです。


 こうしたことは、私のオウム・アレフの経験でもよくありました。神秘体験・超能力を売り物にしたオウムは、教祖麻原に限らず、在家信者の一部に至るまで、ある意味で、霊能者の大集団でした。自分自身が体験するとともに、そうしたタイプの人たちが周りに大勢いました。


 さて、次のポイントは、ヨガ・密教・仙道・修験道などの世界では、その修行によって、そうした体験・能力を高めることができるとしていることです。

 これは、人には潜在的に霊性があり、それを開発することができるという考え方です。その一つが、オウム真理教で大々的に行われた、クンダリニーという霊的にエネルギーを覚醒させるとするヨガの修行です。


 では、そういう修行をすると本当に霊能力がつくのか。


 私の経験では、そうした修行をすると、しない場合よりも、より神秘体験しやすくなります。ただし、いくら修行しても、なかなか(全く)神秘体験しない人もいます。

 
 これは、後の述べるとおり、それぞれの人の体質・個性に関係するものだと思います。ただし、注意していただきたいのは、体験しやすい人の方が優れているというの ではなく、一長一短であるということです(なお、オウム真理教では、体験する人の方が優れていると評価される場合が多かったのですが、今の私は、そうは考えてい ません)。


 神秘体験とは、たとえば、1.他の人が見ない光・色を(目をつぶっていても)見る、2.体外離脱体験をする、3.自分の前世だと思うようなヴィジョン(夢)を見るな どです。これは、普通はしないような心身の体験です。

 しかし、本人は体験していても、個人の妄想・夢に過ぎない可能性もあります。一方、先ほど述べたような、直観とか、正夢ということになれば、現実的な利益・実益が多少なりともあることになります。


 そして、修行しようが何をしようが、絶対の霊能力・超能力が身につくことはないと思います。しかし、自分の感=直 観が当たったとか、正夢を見たとか、他人の苦しみ・心身の状態が伝わってきた、といった体験は、修行することによって、人によっては、少なからず増えると思います。

 ただし、本人たちが霊能力を求めているがゆえに、増えたと思い込んでいる一面がある可能性も完全には排除できません。そうした関心を持っている 人の輪(たとえばオウム教団)の中では、特にそうした体験を常に皆が意識していますから、増えたと錯覚するかもしれません。ただし、前に述べたよ うに、その言う人の輪の中でも、全く神秘体験しないタイプの人もまた存在します。
 
  
 しかし、こうした霊性の開発には、いろいろな落とし穴があることが重要です。

   
 まず、本人が慢心に陥ること。多少なりとも神秘体験をし、自分の直感があったかのような体験をすると、嬉しくなって、自分が霊能者、超能力者に なったかのような錯覚をするのです。

 慢心・過信に陥って、客観的には当たっていなくても、当たっていると思い込む場合もあります。そもそも、霊能力とか関心があ る人の一部は、緻密ではなく、勢いで行動する人もいるように思います。

 
 さらに、霊性の開発を誤って行うと、精神病理的、ないし精神病的な状態になる可能性があるのです。これをトランスパーソナル心理学会などでは、クンダリニー症候群と呼んでいます。また、アメリカなどでその研究が進んでいます。

   
 しかし、これは、学会全体で認められた概念ではありません。そもそも、学会全体では、インドのヨガが説く、体内に眠る霊的なエネルギーであるクンダリ ニーと、その覚醒という概念を認めていません。一部でなされている研究があるだけであり、しかも、その研究結果でも、未だによくは分かっていない現象なの です。

 
 よく分かってはいませんが、今のところ、クンダリニー症候群とは、1.クンダリニーを間違った修行で覚醒しようとしたり、2.覚醒を意図していないのに、ある種 の物理的・精神的なショックにより、偶発的に覚醒した場合などに発生するとされています。突き詰めると、生まれつきの場合もあるかもしれません。

 
 そもそもが、普通の人に見えない者が見えるということは、一つ間違えば、幻視・幻聴です。見えたものが、現実に役立つものならばいいのですが、そうでなければ、自分の作りだした妄想以外のものではなく、その人も周囲が混乱します。

   
 こうして、霊能力とは、現実として、精神病理の危険とセットとなっていることはお分かりいただけると思います。そして、実際にも、霊能者、霊媒師、と いった人は、私の経験からしても、当然のことですが、非常に個性的な方が多いですし、一つ間違えば、妄想に陥る一面を持っているように思います。

 
 さらに、クンダリニーヨーガなどの神秘体験の一つである、体外離脱体験(正確に言えば、本人が体外に離脱したと感じる体験)については、精神疾患の一つである解離性障害の症状ともされています。

   
 そのため、霊性を全面否定する宗教学者の方の中には、体外離脱などのクンダリニーヨーガの体験は、解離性障害の症状と疑う人もいます。しかし、両者の体験がすべて一 致するわけではありません。さらに、仮にそうだとすると、インドで尊敬されている聖者は、皆が精神疾患であるということになってしまいます。これは、やはり極論のように思います。

 
 なお、体外離脱体験は、臨死体験(非常に死に近い身体の状態における各種の体験)に伴って起こることも多いとされ、その後、何らかの霊性・霊的な思想に傾倒する人が多いとも言われます。
 
 この体験は、肉体とは別の存在する意識=霊魂の存在を感じさせるものですから、当然かもしれません。しかし、本人が、肉体の外に意識が出たと感じたとしても、本当にそうだという証明はありません。
 
 単に、そのような夢・妄想である可能性があります。体験者の中には、肉体の目をつぶって寝ていた間に、意識が肉体の外に出て、周囲の光景を(あたかも目を開けているように)正しく認識していたという事例もあります。

 しかし、これに対しても反論があります。たとえば、単なる偶然の一致であるとか、視覚は機能していなくても、聴覚は機能していて、その聴覚情報から想像したイメージであるというものです。特殊な反論としては、霊魂は信じない が、超能力・ESP能力は信じる人の反論として、その体験は、超能力で察知したのであり、意識が肉体を出て体験したものではないといったものです。
 
 麻原の場合も、子供の時に、体外離脱体験をしていたと語っていたました。それが成人するにつれてなくなり、ヨガの修行を初めて、再び体験するようになっ たそうです。彼は、子供の時の体験は、前世からの修行によるものであり、その効果が成人するにつれて隠れてしまったが、再び根性で修行をして復活させたと 説明していました。
 
 しかし、これが解離性障害の症状だったとすれば、子供の時の解離性障害の症状が、成人する中で弱まったにもかかわらず、その後のヨガの修行によって、再 発して拡大してしまったという解釈になりますね。そして、クンダリニー症候群に関する学説の中にも、クンダリニーの修行が、潜在的な精神疾患を表面化させ るという見解もあります。
 
 こうして、霊性の発現か精神病理なのか、という疑問から始まって、それに対する明確な結論がいまだに学術的には存在しない中で、霊性と精神病理の接点に 関して、自分が体験から知っていることとや、新しい(しかし依然として異端の)精神医学・心理学の学説などを含め、なるべく情報を提供してきました。

 
 こうした中で、私が確信していることは、第一に、霊性を開発を伴うとされる東洋思想の修行の本来の目的は、心の安定・幸福といった人格 の向上・悟りを目指したものであり、霊能力・超能力・神秘体験を目的としていないことです。

 しかし、これを理解せずに、そうしたことを売り物にして霊的な修行を行うケースが非常に多いのです。オウム真理教もそうでしたが、今現在のスピリチュアルブームの中でも、そういったケースが非常に多いと思います。
 
 そして、人格の向上が本来の目的であるということが、十分に分かっていれば、多くの問題が解消すると思います。ただし、人間には、欲がありますから、これがなかなか難しいところです。
 
 第二に、本人が、自分の神秘体験、霊的な体験が、自己の無意識の欲求が作り上げた、夢・妄想ではないか、という冷静な視点を持つべきだと思います。常に客観的・合理的な知性で、自分の体験を検証するのです。

 そうではなく、自分の体験に、自分自身が呑み込まれてしまい、操られてしまう場合を「魔境」・「魔」・「自我インフレーション」などと言います。自分が神と合一し たと思い込むような傲慢な意識が生じる場合もあります。そして、周りの人も注意しなければ、それに巻き込まれてしまう可能性もあります。

 最後に、霊能者か精神疾患者か、という問いについては、今のところの私の考えを述べたいと思います。実は、それは、人間に関する「普遍的な道理」で説明できるように思っています。

 それは、長所と短所は裏表であるということです。


 すなわち、霊能者と言われる人が、どこか一面で、普通の人よりも感受性が高い人だとすれば、その長所の裏側に、普通の人にない、精神不安定・妄想といった精神病理の短所を抱えているということです。すなわち、それは、優劣・善悪ではなく、個性だということです。


 よって、そういう人は、そうした自分の個性が、悪い形(妄想・精神不安定他)で現れることを抑制するいろいろな工夫をして、良い形(直観・型にとらわれない想像力など)で現れるようにするべきだと思います。


 この自覚がなく、自分は普通の人にない能力もっているのだという慢心が生じると、その結果は、破滅的になる可能性があります。また、周囲の人も、そうした人を普通の人以上の存在と持ち上げ過ぎれば、その破滅に巻き込まれていく可能性があります。


 次回は、この点をもう少し掘り下げてお話ししたいと思います。
 

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          宗教と宗教を超える道 第6回

         信じるとは何か、信じる理由とは何か


 昨日、幼児期にキリスト教の洗礼を受けた作家・ジャーナリストの方との公開対談がありました。それを通して、オウム真理教を含めた、これまでの宗教の問題をいくらか確認できたと思います。

 まず、宗教は「信じる」ということが基本です。この「信じる」いう行為は、いったいどういう意味でしょうか。

 まず、「信じている」ということと、「知っている」ということの違いから考えてみましょう。人は、(自分の信仰・神・宗教が)「真理だと信じている」と言います。そして、「私は何が真実かを知っている」とも言います。

 こうして、「信じている」とは、皆が共有できる客観的な証明ができない事柄、たとえば、神の存在などについて使われるものです。信じるという漢字が、人の言葉と書くように、宗教の教義は、人が語る言葉ではあっても、事実かはどうかは、客観的にはわからないものです。

 しかし、宗教の信者は、多くの場合、これに明確に気づいていないと思います。

 なぜなら、信者は、その教義を「真理」として「信じている」からです。真理とは、単なる真実や事実以上の重要性を(信者の意識の中では)持っています。

 そのために、客観的には、教義が正しいと「知っている」のではないのに、信者は、あたかも、その教義を事実・真実以上のものとして、知っているかのように、錯覚している状態になるように思います。


 では、客観的な根拠がないのに、人はなぜ宗教を信じるのか。この答えは、ある意味では、難しく、ある意味では簡単です。

 というのは、宗教以外の場合でも、客観的な根拠がなくても、何かを信じる場合が人には、よくあることから推察すればいいのです。

 たとえば、男女関係で、「私は彼(彼女)が浮気をしないと信じている」という場合がありますね笑。

 そうです。それは、何かしらの理由で、強くそうであると「信じたいから、信じている」ということだと思います。

 信じたいから信じている。

 しかし、問題は、宗教の信者は、自分では自覚していないことではないでしょうか。信者は、正しいから信じている、真理だから信じていると思い込んでいる場合が多いと思います。

 本当は、自分が正しいと思いたいから、真理だと思いたいから信じている。これは、私のオウムでの経験や、その後の探求を合わせた結論です。

 私は、自分が神でない以上、麻原を含めた他人が神かは分からないと考え、これが、麻原信仰をやめた一つの理由となりました。

 その意味で、盲信的な信者は、自分は神ではなく、他者を神だと判断できる能力などないにもかかわらず、自分では気づかないうちに、あたかもその判断能力があると思い込んでしまっている状態かもしれません。

 すると、気づかないうちに、どこかで謙虚さを見失っているとも表現できるのではないでしょうか。

 しかし、信者自身は、自分は謙虚であるように努めていると感じる人が少なからずいると思います。というのは、信者は、神や教祖などを意識して、それら対して常に謙虚であるように努力している人が多いからです。

 しかし、外部社会からは、信者は、自分たちこそが正しいと思い込んだ傲慢な人に見えてしまう場合が少ないと思います。


 しかし、ここで逆の問題もあるように思います。

 それは、こうした盲信的な信者たちをひどく嫌って、「神などいない」など断定して、宗教を鼻から批判する人です。

 この場合、よく考えみると、逆の意味で、謙虚さがないのではないでしょうか。

 そもそも、人間に、神がいるか、神がいないなどは、分かるわけがないからです。分かるとしたら神だけでしょう。

 論理的に説明すれば、神は、宇宙を創造し、統治する絶対者であり、人が神を信じるように操ることも、信じないように操ることもできる存在です。その意味で、神とは、人間が、その存在を証明も、反証もできない概念であることは明らかです。

 だとすれば、なぜ「神などいない」と断定するのか。それは、信じる場合と同じでしょう。すなわち、「信じたくないから信じない」にすぎません。

 その意味では、単純に、「宗教は嫌いだ」という人の方が、「神などいない」「宗教は皆でたらめだ」という人よりも率直な人だと思います。

 「神などいない」という人は、神を信じたくないだけなのに、「神などいないから信じないのは正当だ」と言いたい(言わざるを得ない)という背景心理があるかもしれません。その背景には、例えば、コンプレックスがあるかもしれません。

 そして、面白いことに、「自分は宗教は信じない」と言っていた人が、何かを自分で体験して、それが自分プライドを満たすものだと、とたんに「俺は真理に出会ったんだよ!」と言って、一転して盲信を始める場合もあります。


 さすがに宗教は盲信しなくても、そういうタイプの人は、思い込みが強いですから、宗教以外のものに関して、安直に信じることが多いように思います。

 オウムの場合も、信者は、(教祖・教団に)謙虚になろうと努めていたのですが、客観的には傲慢そのものでした。

 しかし、そのオウムの全盛期は、同時に、日本社会がバブルの全盛期でした。「株価も土地も上がる一方で下落することはない。21世紀は日本の時代、アメリカを超える」と、エリートを含めた日本全体が、後から考えると合理的でない未来を盲信したのでした。

 これも、結局は、そう信じたかったから、つまり、お金がどんどん増えると強く信じたかったから、ということでしょう。どんどん株価・土地が上がり、自分のお金がどんどん増えるのを数年の間だけ見ただけで、これからもずっと上がるだろうと信じてしまったのです。

 その結果は、大変な経済的な損失、膨大な倒産と失業者、そして、毎年、数千人単位の自殺者の増大でした。大変な経済的、人的被害でした。

 
 こうして見ると、神の存在を断定して盲信する人と、神の存在を断定的に否定する人は、お互いに対して強く反発しますが、両者が気づかないうちに、慢心という共通の欠点をか抱えているのではないでしょうか。

 それは、広い意味での近親憎悪かもしれません。

 そして、そのさらに裏側には卑屈・コンプレックスが隠されているかもしれません。

 前に、心理学の理論に元ついて、お話したように、卑屈・コンプレックスの強い人が、それを歪んだ形で解決するパターンとして、

1.自分が他人よりも優れていると思うことができる世界観に依存する
  (たとえば排他的な宗教や政治思想)

2.他人を強く批判して貶めることで、優越感を感じるようにする

 といった心理現象があるそうです。優等コンプレックスなどと言います。

 こうして、

1.単に宗教を毛嫌いすることではなく、

2.宗教の「信じる」ということの本質をよく考え、

3.それが宗教以外の社会の部分にもあることに気づく

 ということが、本当に意味で、宗教を超える第一歩になるのではないでしょうか。

 この第一歩が踏み出せたならば、あとは、「信じたいから信じている」という状況を変えることが第二歩目になりますね。

 すなわち、それは、信じたい理由を探し、その理由を取り除き、信じなくても済む状態を作ることだと思います。

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                    宗教と宗教を超える道 第5回
  
          本当の自分は全体という思想と体験


 前回は、自分の生の裏には他の死があって、自分の死の裏には他の生があり、生と死はセットになっているということをお話ししました。

 これに基づいて、さらに考えてみると、死というものは、それまで他を犠牲にして生きてきた自分が、そのお返しとして、他のために自分を捧げる意味を持つと解釈できると思います。

 ないしは、今まで多くの生き物が、自分の食べ物となるために死に、代わりに自分の体の中で生きてきたのこと同じよう、自分の死とは、今度は、自分が、他の体の中で生きることである、ということもできるかもしれません。

 こうした生と死に関する感謝と恩返しの思想は色々な意味で役に立つと思います。

 まず、自分の生や自分の体だけに過剰に執着する意識が和らいで、自分の死を受け入れる感覚を養う助けになると思います。仏教でいう自我執着(我執)の軽減です。

 また、生と死に関して、自分と他者・万物が、深くつながっていることを意識し、広い心を養う助けになると思います。仏教でいう大慈悲(万物への愛)につながるものでしょうか。


 さて、仏教の悟りの境地を参考にして、これまでのお話をさらに進めてみます。

 前回もお話ししたように、分子生物学の発見の基づく、実際には、自分だけの体を構成する分子はなく、私たちは、地球の中の分子を絶えず共有・交換しながら、それぞれの体を形成しています。その意味で、科学的に厳密にいえば、自分だけの体などはなく、皆で体を共有しているともいうことができるのです。

 そして、仏教でも同じようなことを説きます。それは、他から独立した固定した実体をもつ「私」などは存在しない、という思想です。これを無我の思想と言います。本当の意味で、「私」と呼べるような存在はないのだという思想です。

 言い換えれば、「私」と「私以外のもの」という区別は、「私」と「私以外のもの」という言葉を使って思考する人間の意識の中には存在しますが、現実の世界には、それに相当する二つの別のものは存在しません。

 髪や爪は、切る前は自分なのに、切った後は自分でなくなり、空気も水も食べ物も、自分の体の中に入る前は自分ではなく、入ったら自分になり、出る前は自分なのに、出た後は自分ではなくなります。

 他の例でいえば、山と平地という言葉がありますが、どこまでが平地で、どこからが山でないという境界は、実際に存在しません。厳密にいえば、海と陸も同じだし、生と死も同じです。

 人間は、本当は一体である世界を言葉によってバラバラにして認識しているのです。よって、仏教では、人が意識するすべての事物は、言葉(による思考)によって生じている、と説かれることがあります。

 これを言い換えると、自分と他者を区別を超えて、「本当の自分は、宇宙全体に広がっている」「宇宙全体が、本当の自分である」という思想が出てきます。インド思想では、本当の自分=アートマンが、全宇宙の根本原理=ブラフマンと本質的に同一であると悟ることが解脱であるとします(凡我一如)。

 この考えに立つと、「私が生まれる」、「私が死ぬ」という出来事は、「私」や「生まれる」「死ぬ」という言葉による思考をする人間の意識の中に生じる現象であって、実際には、私が生まれたり、私が死ぬことはなく、広大無辺な何か(=大宇宙?)が存在するだけ、ということになります。



 こうして、色々な仏教的な思考・哲学・世界観がありますが、こうした思考法・哲学・世界観について瞑想していくと、徐々に、自分と他人を区別する思考が弱まって、意識が大きく広がっていきます。

 そして、私の経験では、意識が大きく広がると、死の恐怖を感じなくなります。自分と他人の区別を超えて大きく広がって意識こそが、自分の本質だと感じられて、自分の体に対する執着が弱まります。

 これは、実際に生じる生理的な感覚なので、言葉で表現することは難しいのですが、自他の区別を超えた広がった意識が自分の本質であり、自分の体がなくなっても、その本質はなくならないという感覚とも表現できます。

 これを言い換えれば、死の恐怖とは、自と他を区別して、自分だけに強く執着する意識から生じているという仏教の主張を裏付ける体験だろうと思います。



 最後に、これまでお話ししてきたように、哲学的な思考をすることに加えて、死の恐怖を和らげると思われることを自分や自分の友人の体験に基づいて列挙するならば、以下のようなことがあります。


1.自然・聖地に親しむこと。その中で、自分が大自然の一部であると感じる。

 普段多くの人は、都市生活の中で、気づかないうちに、自分は自然とは別の存在だと感じています。自分たち人間は自然の支配者であり、自然は人間に提供された物理的な舞台にすぎないと。
 そして、その中で、自分が他人と区別し比較して、自分が優れているか劣っているかばかり気にする思考に陥りがちです。
 これに対して、自然・聖地に親しむ中で、そうした自我意識が弱まり、自然と一体感を感じるなどして、死の恐怖が和らぐケースがあります。


2.死の恐怖から脱却した人たちと交わる。

 これは、他人から、死の恐怖の脱却法を学べるということもありますが、人の心は連動しやすいという事実を使ったものです。
 これは、みんなで渡れば怖くないという集団心理を良い意味で活用するという意味にもなりますが、実際には、それ以上のものだと思います。何かの感覚というのは、言葉だけで伝えられるものではなく、心から心、体から体に伝わる面があると思うからです。

 その他にも、色々なことがあります。日常の行動、環境、気の流れを整えるヨガ・気功の身体行法など。しかし、今回は細部には立ち入らないことにしたいと思います。
 


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             宗教と宗教を超える道 第4回
             死の意味とは:生と死はセット


 今回は、死の不安・恐怖を乗り越えるために、なぜ死が怖いか、ということについて考えてみたいと思います。

 まず、簡単にわかることは、怖いのは、自分の死だということです。今でもの子の世界では、日本で毎日数千人、世界では毎日数十万人の人が死んでいると思います。しかし、そうした他者の死に対しては、私たはほとんど恐怖・苦しみを感じません。


 怖いのは、自分、ないし自分に近い人の死です。なぜならば、人は誰しも、他人よりも、自分に非常に強く執着しているからです。「自分さえよければそれでいい」とまではいかなくても、率直にいえばそれに近い。

 
 これが、仏教が説く自我執着(我執)です。自分と他人・他者を区別し、自分だけに強く執着している心理状態です。そして、仏教では、この自我執着が、人 の苦しみの根本原因だと言われています。見知らぬ他人のことであれば、その死でさえ、ほとんど苦しみを感じないのですから、自我執着が苦しみの根本原因と 考えるのは、合理的でしょう。


 よって、この自他の区別に基づく強い自己愛着を弱めることが、死に対する恐怖も弱めることになります。そのために役立つ一つの視点をまずお話したいと思います。


 私たちは、毎日ご飯を食べて生きています。そのご飯とは何でしょうか。それは、他の生き物を殺した結果です。言い換えれば他の生き物の死骸です。


 肉・魚などは間違いなくそうですが、野菜であっても、植物として、生物には変わりありません。さらに、穀物や野菜の栽培と収穫の際には、おびただしい数の虫や微生物が、殺虫剤に限らず、生息地を破壊されるために、殺されています。


 私たちは、食事の際に、「いただきます」という習慣があります。これは、「あなたの命・体をいただきます」という意味だという人もいます。実際にそうです。


こうしてできている私たちの体は、本当に私たちのものなのでしょうか。私たちと食べ物になるために死んだ生き物が、共に作った、皆のものであるようにも思います。

 
 実際、分子生物学によれば、「自分の体だけを構成する分子は一切ない」とされています。私たちの体を構成する分子は、数年で、一切外界のものと交換され ます。呼吸と飲食と排泄・発汗を通して、私たちは、他人・他生物・環境と、分子を共有・交換・循環させながら生きています。


 こうして、「自分の体だけの分子」はありません。だから、厳密に考えれば、「自分だけの体」はないのです。言い換えれば、地球の生命体は皆、その体を構成する分子を共有・交換しています。


 皆が、同じ分子を自分の体のために共有しているのです。たとえるならば、無数の人たちが、無数の服を共有し、それを代わりばんこに、使っているようなものです。


 この事実を踏まえると、死の恐怖を和らげる前のステップとして、「私たちはなぜ死ななければならないのか」という根本的な問いに対する答えが出てくるように思います。
 

 結論から言えば、1.生き物が、その体のために、地球の分子を共有していて、なおかつ、2.地球の分子の総数が、生命誕生の39億年前から(大きく)変わらない以上は、3.新しい生命が生まれるためには、古い生命は死ななければならない、ということになります。

 
 わかりやすく言えば、世界の人口は今急増し、人口爆発が問題になっています。このまま、人口が増えると、水・食べ物他の資源・エネルギーが不足し、温暖 化や多くの生物の絶滅などの深刻な環境破壊が起きる、と言う人もいます。そのため、たとえば、ローマクラブという科学者の集団は、21世紀の中ごろまでに 限界きて、人口が減少する戦争・環境問題などが発生するとしました。


 にもかかわらず、仮に、人が永遠の生命を持っていたとしたら、言い換えると、これまでに生まれた人間が一人も死んでいなかったらどうなっていたか。地球 の歴史上、生まれた人の総数を計算すると、500億人とか、1000億人とか、それ以上というデータがあります。つまり、今現在の総人口の70億の10倍 かそれ以上。


 これほどの人口を地球は決して許容できなかったでしょうから、この数世紀の間に、既に人口過剰の問題で、資源の争奪の戦争などで、人類は破局を迎えてい たかもしれません。言い換えると、自然死がないかわりに、人口調整のために、周期的に大量の殺し合いが必要となっていたことになります。その方が悲惨かも しれません。


 ある生き物は、周期的に大発生して激減するという説もあります。人間に限らず、食物連鎖で成り立っている生物の世界で、大発生すると、その餌が足りなくなり、激減さざるを得ないのは必然だと思います。


 こうして、地球の生命は、死を前提としています。生と死はセット。死に行く者がいなければ、新たに生まれて来ることができない。生まれるものは、やがて死ぬことを条件として生まれてくる。


 もちろん、未来に、永遠の生命と、地球以外の場所で生きる技術が実現すれば違うかもしれませんが、今現在までの(そして私たちが生きている当面の間の)人類の技術では、多くの人が死ぬからこそ、新しい生命が生まれることが可能なわけです。


 
 こうしてみると、自分の死を嫌うということは、客観的にいえば、自分だけは死にたくない、そのためには、他の者は死んでほしい、ということを意味することになります。


 多くの人は、こうは思ってはいないでしょうが、もしかすると、それは自覚がないだけかもしれません。心理学的に分析でば、人は、自分に不都合な真実は意識しようとせず、無意識の領域に封じ込め、忘却するという心理構造があるとされます。

 
 そして、人は誰もが、他人よりも自分に強く愛着しており、自分と他人を平等に見ることはなかなかできません。結果として、自分の生は、他の死を前提とし ており、そのお返しとして、他の生のために自分も(天寿を全うしたならば)死ぬことを受け入れる必要があることを明確には自覚しにくいのかもしれません。

 
 なお、賢明な読者のみなさんは、以上の考察が、決して自殺を推奨しているものではないことは御理解いただけると思います。精神のバランスを崩した人だ と、こうした話を聞いて、自分が死ねば、他の生き物を殺さなくてすむという考え方をする場合がありますが、それは不自然なのです。


 人間が死ねば、その分だけ人間に食べられる種類の生き物の死ぬ数が減り、そのぶん、その生き物を天敵とする他の生き物たちが死にます。よって、人は、天 寿を全うするべきだと思います。それが自然だと思います。なお、今現在、本人の意識がないままに延命する人工的な措置を嫌う考えもあり、何が天寿を全うす ることなのかは議論があるとは思いますが、とりあえず、話がややこしくなりすぎるので、ここでは考えないことにします。


 それはともかく、これまでのことをまとめると、


1.自分の生の裏には、他の死があり、自分の死の裏には、他の生があり、
2.生と死はセットであって区別できないものだから、生と死のバランスが重要である、


 という生と死の哲学があるということです。


 今回は、死はどういう意味を持つのか、なぜ生まれた者が死ななければならないのかについて考えてみました。他のお話もしながら、次回以降、死の恐怖・不安を取り除く思想・哲学・瞑想法を具体的にお話したいと思います。

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              宗教と宗教を超える道 第3回
          意外な釈尊の素顔:宗教家ではなく哲学者
 
 
 私は、オウム真理教の中で、仏教に触れ始めました。その仏教は当然、輪廻転生、来世を説いていました。その中で、来世に地獄に落ちず、幸福な転生得るには、麻原と麻原が説く教えに従う必要があると説かれたのです。

 
 多くの日本人にとって、輪廻転生は、仏教の教義と認識されていると思います。実際にも、たとえば、日本で最多の檀家数を持つと言われる浄土真宗の教義は、南無阿弥陀仏を唱えることで、来世に極楽浄土に転生することです。

 
 そのため、オウム時代の私は、麻原の輪廻転生の教義は、仏教とその開祖の釈尊(ゴータマシッダルーダ)の思想だと考えていました。しかし、麻原・オウム信仰を脱却する過程で、釈尊の思想を改めて調べてみると、意外なことに気づくことになりました。
 
 
 まず、釈尊の時代のインドの宗教哲学と、釈尊本人が説いた思想に関する学術的な研究の結果としては、まず確かなことは、輪廻転生は、釈尊独自の思想ではないことです。
  
 それは、釈尊が生まれる前から、インドのヴェーダ聖典に基づく信仰の一部として輪廻転生とカルマ(業)の法則が説かれていたのです。これは、今現在はヒンズー教と呼ばれている宗教の流れです。

 
 次に、学術的な研究では、釈尊は、当時民衆に浸透していた輪廻転生を否定はしなかったが、強調はせず、現世=この世で悟りを得ることを強調したという見解があります。

   
 たとえば、釈尊は、他の宗教の人に、「肉体と霊魂は別か否か」と問われても答えなかったと言われています。これは有名な「無記」(どちらとも決めないという意 味)と呼ばれる釈尊の思想・姿勢であり、こうしたことを含め、釈尊には「現世志向」(=現実主義的な傾向)と呼ばれる思想傾向があります。

 
 実際、釈尊は、絶対神も、神による宇宙の創造も終末も説いておらず、自分を神の預言者だとも説いていません。逆に自分を崇めてはいけない、自分の教えも、疑って吟味した上で取り入れるようにと説いています。

 
 では、日本に伝わる神格化された釈尊=仏陀は何か。それは、釈尊が死んだ後に、人々が、釈尊を絶対化したのです。それは、釈尊の死から500年前後を経て誕生した大乗仏教の経典では顕著となり、有名な法華経などは釈尊を永久の絶対存在とみなしました。

 
 この大乗仏教は、学術的な研究では、先ほど述べたヒンズー教とお互いに影響を与えあったもので、その中には、輪廻転生の思想が、その絶対の教義として取り入れられています。それだけでなく、ヒンズーの神様も、仏教の神様に変容されて、取り入れています。

 
 そして、日本が仏教を取り入れた聖徳太子の時代の前後に、日本に伝来したのは、この大乗仏教だったのです。そのために、日本人にとっての仏教は、絶対神のような釈尊と、輪廻転生を絶対の教義とするでした。

   
 その後、鎌倉時代にできた日本独自の新しい仏教宗派の中には、先ほど述べたように、阿弥陀如来の真言を唱えて祈れば、極楽浄土に生まれ変わると いった思想もありました。これは、イエスを信じることで、天国に生まれ変わることができるとするキリスト教と教義構造がよく似ているので、キリスト教の思 想の影響を受けたものとも言われています(いわば阿弥陀キリスト教)。

 
 こうして日本人が、絶対神のごとき釈尊を信じる中で、近代になって、西洋の学者が、釈尊自身の思想=初期仏教の研究を始めました。驚いたことに、彼らに は、それは宗教ではなく、人生哲学に映りました。絶対神(God)も、神の預言者も、宇宙の創造も、宗教らしいことは、何も説いていないからです。

   
 さて、こうした釈尊の思想は、死の恐怖に対して、どのようなことを説いているのでしょうか。前にも述べたように、輪廻転生思想を否定はせず、しかし強調 せずに、現世で悟りを得ることを強調した釈尊の初期仏教の思想は、どのように死の恐怖に対処するものだったのでしょうか。

 
 なお、私は、釈尊が来世について全く説かなかったと言っているのではありません。初期仏教の経典の中にも、来世に言及したものがあります。

   
 ただし、そもそもが、釈尊が何を説いたのかは、正確には知りようがないという事実があります。というのは、釈尊自身が書いた経典がなく、釈尊の死後に、 釈尊の弟子たちが釈尊から聞いたとする教えを暗唱しながら伝えたものが、初期仏教の経典となって、現在に伝わっているからです。

 
 よって、その中には、釈尊の真の直説と、後世の改ざんの双方が含まれていることが予想されます。そのため、釈尊の直説の可能性が高いとか、低いといった 推測は、初期仏教の学者の方ができると思いますが、もはや完全な区別はできないのです。

 こうして、何が釈尊の直説か否かに、余りにこだわることにも意味があ りません。

 そこで、本来の目的である、死の恐怖を乗り越える話に立ち戻って、私が、初期仏教を含めた仏教の思想を学んで、自分なりに考えた結果として、神や教祖とその来世と教義などに頼ることなく、死の恐怖を乗り越えるに役立つと思う思想について、次回にお話ししたいと思いま す。

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  私が麻原・オウムの信仰に明確な疑問を持ち始めたのは、1997年でした(もちろん、信仰している間にも疑問・葛藤はありましたが)。

 それから、オウム(当時は既にアレフに改名)を脱会したのは、2007年であり、合計10年の時を費やしたことになります。


 こうして長い脱却の道程の中で、私が求めていたことの一つが、今思えば、理性を放棄して、ある教祖・宗教(私の場合は麻原・オウム)を信じることなく、死と死後の世界の不安に対処することはできないか、ということでした。


 とはいえ、私の脱却には、これ以外にも、実にさまざまな課題(呪縛)がありました。それを一つ一つクリアーしなければならず、さらには、それらが繋がっており、渾然一体となっている面もあるという複雑なものでした。 
 
 それはさておき、もともと、死や死後の不安を感じていない人にとっては、私の課題は、ある意味で麻薬の禁断症状と似ていると映るかもしれません。


 宗教の信仰は麻薬のようなもので、深く没入した後にやめようとすると禁断症状が出る。ないしは、一部の向精神薬のようなもので、それを辞めようとすると離脱症状が出る。たしかに、そういった例えはあたらずんば遠からずだと思います。


 日本は、国家神道に基づく大日本帝国の敗戦のあとに、宗教アレルギーとなったといわれます。しかし、戦後も多くの宗教団体が生まれ、新興宗教を中心に積極的に活動しています。1990年代には新新宗教ブームが起こり、オウム・幸福の科学などが注目されました。


 もちろん、オウム事件が、日本社会の宗教アレルギーに拍車をかけたと思いますが、しかし、オウムの後にもかかわらず、今世紀になって、スピリチュアルブームという形で、宗教的なもの・霊的なもののブームが広がっています。

 
 これは、教団に属するのは嫌だが、宗教・霊性(スピリチュアリティ)に関する関心は、むしろ強まっていることを示していると思います。世論調査でも、宗 教団体に属することを肯定する人は2割程度だが、人間を超えた何か大きな力があると信じる人は過半数を超えているという調査結果もあります。

 
 こうした中で、死や死後の不安を持つ人は、日本社会にも、相当な割合でいると考える方が合理的ではないでしょうか。そういう人たちは、宗教否定の日本社 会の中で、それを他人に言いにくいかもしれません。そして、ひそかに、その不安を解消する道を自分一人で探しているかもしれません。 
 
 また、世界では、日本よりもはるかに宗教が重視されている国・地域の方が多いと思います。


 そもそも、アメリカでさえ、キリスト教を中心とした宗教大国とも言うべき一面があります。ブッシュ大統領のキリスト教の信仰と、彼の政権を支えたキリスト教保守主義の話はご存知の方もいらっしゃると思います。


 また、人工妊娠中絶の是非など、キリスト教の教義に関係する問題に対する考え方が、大統領やその候補者を選ぶ上で重要な要素になっています。大統領の就任式では、宣誓式というのがあり、最後に、「よって、神を私をお助けください」という言葉で締めくくられます。


 1990年前後に、自由主義対共産主義という米ソ冷戦が終了した後、一部の知識人は、これでイデオロギーや宗教などから解放された、科学合理主義が世界に広まると考えたようです。


 しかし、実際の結果は、アメリカの政治学者である「文明の衝突」という衝撃的なベストセラーを著したサミュエル・ハンチントン教授が主張したように、米ソ冷戦で抑圧されていた宗教が、あたかも復習を始めたかのように、息を吹き返し始めました。

 
 アメリカでは、先ほど述べたように、キリスト教保守主義を含め、キリスト教勢力が強くなったと聞いています。ある意味で、無秩序な現代社会の中で、重要 な精神的な規範・拠り所になったとも言われています。ブッシュ大統領も、アルコール中毒をキリスト教信仰によって克服したと言われています。

 
 イスラムの世界では、イスラム復興主義(イスラム主義)が広がりました。現在、イスラム原理主義などと欧米社会から批判的に呼ばれる活動も、実際には、 イスラム社会が、自分たちのイスラム教の信仰・伝統・文化を復興させようという流れと関係しています(イスラム原理主義という言葉はイスラム社会のもので はありません)。


 また、カトリック教会も、南アメリカなどで勢いを増したと聞いています。ソ連崩壊後のロシアでは、ロシア正教が勢いを取り戻しているとも聞きました。日 本では、先ほど述べたとおり、新新宗教ブーム、そして、スピリチュアルブームです。こうしてみると、ヨーロッパ社会を除いては、宗教勢力が増大したかのよ うに思えます。

  
 さらに、人生の終末になると、それまで死や死後の世界に関連して宗教に関心を持っていなかった人の中にも、多くの人が、死や死後の世界に対する不安・恐 怖を抱くと思います。いわゆるターミナルケアとされるものですが、その不安の軽減のために、キリスト教の牧師や東洋哲学を学んだ人が活動しています。


 こう考えてみると、死と死後の不安については、どんな人にとっても、全くの他人事ではないのではないでしょうか。
 
 さらに、そうした不安が比較的強い人たちに関しては、仮に、その不安の解消が、特定の宗教を信じること以外ではできないという状況があるならば、それ は、ある意味で、不安なく人生を送る選択肢がかなり限られている状況であり、本人が気づかないうちに、どこか精神的に追い詰められた状態であるかもしれま せん。


 次回は(次回こそ笑)、こうした認識に基づいて、宗教によらない、死と死後の不安・恐怖の緩和・解消について、自分の経験・探求を中心に、お話したいと思います。

※お知らせ

今週7日(土)は横浜で、8日(日)は福岡で講話会を行ないます。上記の内容を中心で講話を行う予定です。

詳しくはこちらをご参照くださいませ。


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 宗教とは何でしょうか。色々な定義があると思いますが、今回は少し荒っぽいお話になっても、学術的な考察は避けて、本質的なお話をしたいと思います。


 私は、宗教の本質の一つが、死と死後の不安への対処だと思います。


 第一に、宗教以外に、死と死後の不安に対処するものがあるか、というとなかなか見当たりません。実際に、心理学の三大巨頭の一人とされるアドラーは、大自然に比べ、人間があっという間に死んでしまうことによる苦しみ(一種の劣等感)から、宗教・哲学などが生まれたとしています。

 第二に、いったん宗教を信じた場合、それをやめたくてもやめられない大きな理由の一つが、その宗教・教祖・教えに背くと、死後の世界で苦しむ(たとえば地獄に落ちる)という不安ではないかと思うからです。


 これは、私がオウム真理教(現アレフ)を脱会する前にも対峙しなければならない不安でした。麻原とオウムの教義にそむけば、グルを裏切れば、最悪の地獄=無間地獄に落ちると説かれていました。


   つい最近も、私をテレビで見たアレフの信者からメールをもらいました。彼は、私が教団の事件に関して語っているの見て、教団が一連の事件に関与したこと を改めて認識し、やはりアレフを続けるのは問題だと思いつつも、どうして、私が、獄に落ちることが怖くないのかを必死に尋ねてきました。


 かつての自分を思い出しながら、彼の気持ちは痛いほどわかりました。


 なお、笑い話ですが、そんな自分を見て、公安当局の一部の人は、上祐は内心では麻原への信仰を捨てていないから、獄に落ちる罪を犯していないと思っているのだと邪推しているようです。


 またアレフの信者の一部もそうかもしれない笑。そうした信者・元信者の心理を知らない外部の人たちや、自分が怖いから他人も怖いはずだと考えるばかりの方々にも、この記事は、読んでもらいたいと思います。
 
 
 さて、宗教の本質が、死と死後の不安に対処だと、と私が考える第三の理由が、キリスト教が世界最大の宗教であるということです。


 キリスト教は、開祖のイエスが、人類の罪を背負って十字架の上で死に、その後復活して、救いの教えを説いたとされます。そして、イエスの復活を信じるか否かが、キリスト教徒か否かとされるほどの重要な教義です。


 もちろん、人類の罪を背負って死に、その後復活したという教義は、それ自体が、(少なくともキリスト教の信者と信者になる人には)非常に感動的でドラマチックな物語だと思います。


   しかし、単に感動的なだけでなく、この教義は、イエスこそは、いったん死んで、死後の世界を知って、その後、この世界に戻ってきて、救いの教えを説いた 人である、ということを意味します。ないし、イエスことは、生と死を自在にコントロールし、死を超越した者である、ということを意味します。


 そして、これが、キリスト教徒に、自分たちでも気づかないうちに、イエスこそが、この世界で、最も死を超越した者であり、死後の世界と救いの道を最も知る者であるというイメージを強力に形成していると思うのです。


 世界の多くの宗教があって、死後の世界と救いの道を説きます。しかし、キリスト教に次ぐイスラム教の開祖ムハンマドでさえ、生きながらに天界を体験したとはされていても、実際に死んで(あの世に行って)戻ってきたいう話はありません。


 こうして、宗教の本質の一つが、死と死後の不安への対処だとすれば、キリスト教が世界最大の宗教となった理由も、その最も重要の教義である開祖の死と復活が、正に死と死後の不安への対処そのものだからである、と説明できるのではないでしょうか。


 なお、私は当然ですが、キリスト教信者ではありません。とはいえ、オウム真理教は、麻原が、聖書の預言する再臨するキリストであると主張していたこともあって、新約聖書・旧約聖書などは、ひととおり熟読したこともあり、非常に関心があります。


 さて、二つ目のお話に移りたいと思います。それは、キリスト教は世界最大の宗教にはなりましたが、世界の唯一の宗教には全くならなかったこと、そして、その結果です。


 キリスト教が広まっても、世界には、さまざまな宗教が成立し、それぞれが別々の死後の世界と救いの道を説きました。そして、それぞれの教祖・宗教が説いた死後の世界と救いの道は、異なるものでした。どんな死後の世界があるのか、そして、誰が、何が、救いの道なのか。


   その理由は何か。宗教を信じない人は、そもそも死後の世界などなく、それぞれの宗教の死後の世界の教義は、教祖の物語にすぎないから、と言うでしょう。 一方、信じる人には、他の宗教が間違っているからというでしょう。中立的な人には、そもそもが客観的・合理的に判断できない事柄(科学の範疇外)だから、 とでもなりましょうか。

 そして、自分の宗教とは異なる死後の世界とその救いを説く他の宗教に対して、それぞの宗教は、どう反応したか。残念ながらと言うべきか、当然というべきか、「そういう考えもあっていいんじゃない」というわけには、多くの場合行かなかったと思います。

 それは、「真理ではなく、間違っており、人を惑わし天国ではなく地獄に導くものであり、悪魔の罠だ」と解釈されることが多かったと思います(オウム真理教でも実際にそうでした)。その結果、宗教間の対立は、当然激しくなります。

 
 現実の世界だけに関係する事柄ならば、異なる宗教の間で妥協の余地がいくらかあるかもしれません。というのは、現実という、お互いが共有できる認識があるからです。

 
 しかし、死後の世界とその救い、地獄ではなく天国に行く道とは何か、という議論になれば、自分が信じる宗教・教祖とは異なる考え方があった場合に、その信者にとって、両者の溝を埋める手段や、互いが妥協する余地は、非常に乏しくなると思います。

 
 その結果、自分たちの宗教こそが正しいと信じる者同士が、お互いを邪教と位置付け、激しく対立することがしばしば起こったのではないでしょうか。宗教間の対立、紛争、戦争です。今もそれが続いています。
  
  
 そもそも、キリスト教でさえ、ある意味では、ユダヤ教内部の分裂から始まったものでした。イエスの教団は、ユダヤ教の新興宗派であり、既存のユダヤ教勢力によって妬まれ、イエスが殺される中で、始まりました。

 
 さらに、キリスト教は、カトリックとプロテスタントに分裂し、その間で戦争が起きました。さらに、その後に生まれたイスラム教も、ユダヤ教とキリスト教と同じ旧約聖書を共有しながら、色々な局面で、3者は対立しあってきました。

 
 ヨーロッパのキリスト教社会は、自分の開祖であるイエスを殺したユダヤ民族を迫害しました。さらに、中東のイスラム諸国の地域に対して、十字軍や植民地侵略を行いました。

   
 ユダヤ民族の迫害は、第二次世界大戦中のナチスのユダヤ人大虐殺で頂点を迎えました。大戦後に、迫害されたユダヤ人は、ヨーロッパではなく、中東に、ユ ダヤ人が安住できる国家(イスラエル)を建設しようとし、イスラム教徒との戦争を行ない、今日も紛争が続いています(パレスチナ問題)

 
 キリスト教国(英米)がキリスト教国が加勢したので、キリスト教国とイスラム世界の反目はいっそう深まりました。そして、今現在も、戦争やイスラム過激 派のテロが、イラク、シリア、アフガニスタンに限らず、中東を中心に、いたるところで続いており、近年むしろ増加傾向にあります。

 
 こうして、死と死後の不安を一つの背景として、さまざまな宗教が生まれ、それはお互いに対立し、皆が愛と平和を説きながらも、逆に、世界の平和を脅かす一面を持ってきました。
 
 
 では、各宗教が語る、異なる死後の世界とその救いの教えが乱立し対立するじこれまでの人類社会の流れに対して、これを和らげ解消するものはあるのでしょうか。


 言い換えれば、教祖によって異なる死後の世界とその救いの教えに頼らずに、死と死後の不安を超えることはできないのでしょうか。


 これは、死後の世界を非常に強調した麻原・オウムの信仰を脱却する際に、私がどうして見つけ出さなければならなかった答えでもあったのです。それについて、次回以降、お話したいと思います。

※お知らせ

今週7日(土)は横浜で、8日(日)は福岡で講話会を行ないます。上記の内容を中心で講話を行う予定です。

詳しくはこちらをご参照くださいませ。


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