遅くなりましたが、12月2日開催した「城野遺跡群重留遺跡の銅矛祭祀とその意義」のご報告です。今後、数回にわたり連載しますのでご覧ください。

 

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1996年1月、城野遺跡のすぐ近くにある重留遺跡の竪穴住居内で祭祀用の広型銅矛が発見されました。

 

当時、西谷正九州大学教授(現 海の道むなかた館館長)は、その発見の特異性から「銅矛祭祀という重要な事象に関し、確固とした情報を提供した」「今後の弥生時代研究史の1ページを飾るとともに、邪馬台国時代の地域史の解明にとって議論の対象となる」と、重留銅矛の発見の重要性を訴えられています(下記朝日新聞記事より)。

 

発見から20年後、2016年8月にこの重留銅矛が国の重要文化財に指定されました!広型銅矛では全国唯一の国指定であり、北九州市の考古資料では初めての国指定です。北橋市長も記者会見で「北九州市に“国の宝”ができた」と喜ばれていました。

 

今回の講演会は、この重留銅矛を切り口に城野遺跡の重要性や魅力を知らせたいと、弥生時代青銅器研究の第一人者である吉田広先生(愛媛大学ミュージアム准教授/日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会副委員長)を講師に迎えて開催することができました!

 

吉田先生のパワーポイントを使っての講演はとてもわかりやすく、大ホールの大画面は大迫力でした!

 

先生は、弥生時代の青銅器(銅剣、銅戈、銅矛)の特徴や変遷、地域性など縦横に説明された上、重留遺跡で出土した銅矛が、弥生時代の青銅器としていかに重要な歴史的意味をもっているか、周辺の城野遺跡や重住遺跡を含めた城野遺跡群として評価することの重要性、そこに城野遺跡の玉作り工房を伴う集落や方形周溝墓の被葬者がどう関わっていたのか等丁寧に語られ、参加者は熱心に聞き入っていました。

 

講演会で重留遺跡や城野遺跡への関心も高まり、参加者88名のうち、なんと30名近くが、小雨が降り始めたにもかかわらず、20分歩いて現地見学会にも参加しました。現地を見ながら、参加者からも質問が相次ぎ、吉田先生も丁寧に説明していただき、現地見学会も大いに盛り上がりました。

 

城野遺跡の現地見学会では、東エリアがショッピングセンターとなり、玉作り工房が見つかった貴重な竪穴住居(5m×5m)部分だけでも現地保存が願ったが叶わなかったこと、市計画の小さな「遺跡広場」ではせっかく現地が残る方形周溝墓も台無しであること等、北九州市の文化財行政の無責任さを改めて実感しました。

 

西エリア全域からだったら、弥生人も眺めていた足立山が見えます。北九州市の豊かな古代の歴史を学び、語り継ぐために、西シリア全域を九州最大級の方形周溝墓と幼児の朱塗り石棺を活かした、北九州市で初めての「人々が集い、学び、歴史体験できる本格的な遺跡公園」への思いと確信に満ちました。

 

とても有意義な講演会と現地見学会でした。

吉田先生はもちろん、ご参加いただいたみなさま、ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました<(_ _)>

 

※私たちは、城野遺跡の重要性と魅力を広めるために講演会を開催しています。今回の講演会は、2015年12月に開催した「学習会&現地見学会」を含めると第9回目の講演会です。今回、主催者の大ホールの使用申込方法の誤解で、宣伝期間が1か月しかなかったこともあり、参加が少なかったのがとてももったいなかったです<(_ _)> 今回初めての利用でしたがとても使いやすい会場でした。

 

  

発掘ばい(ほるばい)に、重留銅矛が国の重要文化財に指定されたときの記事「『企救国』って何?北九州市の弥生遺跡群に注目 古代国家の形成を考える手がかり―2016年9月8日付西日本新聞朝刊文化面―」がありました。をクリックしてご覧ください。

https://horubai.jp/content/nnp_news/37

 
 
●吉田広先生の講演の様子。左端に展示しているのは、会がつくった重留銅矛の同じ大きさのレプリカです。
 
 
●1996年1月、重留銅矛が発見された直後の朝日新聞の記事です。
 
 
●講演会当日に配布した資料です。活動報告については紙面の都合で記載できていない部分もあります。1頁~4頁
 
 

●ご参加いただいた方々にプレゼントした城野遺跡公園実現祈願の粗品「JOUNOISEKI」です。バックや買い物袋に着けて広まったらいいな!(^^)! 幼児の朱塗り石棺の頭部の小口石に描かれた全国初例の絵画文様。これが子どもを悪例から守る役人「方相氏」であれば、日本における節分の始まりを400年早める大発見だとか…。