『カオスを超えて富士は晴れ行く』~国常立神の御言給いき | 神人一致の癒奏術・響庵

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国常立の神様との対話は、疑問を思った途端に返事の言霊が現れる

いつも丁寧な言霊を下さるその姿は

言霊により変化する

様々な分け御霊の姿で言霊を語る

だからわかりやすいのだ

 

 

 

 

世界が一つへ集合せる時

民族は彩りを強める

確固たる個として連携するためであり 

彩り薄弱なるものは何ものかの彩りに染め上げられる

 

同じ一つにならぬものを

無理に一つにしようとしても 

色が変われどカタチは変わらず 

カタチ変われど匂い変わらず

匂い変われど音色変われず 

音色変われど味わい変わらず

味わい変われど質感変わらず

質感変われど重さ変わらず 

重さ変われど温度変わらず 

温度変われど本質変わらず

 

 

いかに同一性へ染め上げることに無理があるかということである 

ゆえに調和へと進む 

調和のために個が強まる

 

 

 

彩り香り味わい音色質感重さ温度全て本質より出てたる現象であるから

ゆえに個である本質が露わに示現し個が強調されるわけである

 

 

本質を歪めようとすれば免疫反応が現れる 

それが争いとなる 

ゆえに本質を触るなという主張が現れる 

本質を理解し認め受け入れるゆえに自己も受け入れられる 

それが調和の基本である

 

 

仕事という働きにおいては個を埋没させ全体の一部となる 

だがそれは仕事という「働き」に限ってである

 

 

存在そのものの自然の働きと人が計画した仕事という働きは全く違う 

人が計画した働きに対して無用でも自然の働きにとっては有用なものが沢山ある 

仕事の働きと自然の働きを同列に並べて今の世界は働きを間違え歪めている 

そして視野が狭く偏り目先の事象しか見えないゆえに働きの帰結を見誤る 

それが歪みの原因であり穢れが湧く原因である

 

 

視野が狭くなればなるほど同一性へと思考は狭まり

視野が広くなればなるほど調和のための個の本質へと回帰し視野は広がる

 

 

多様性とは差別化するところから生まれる 

それを区別という

区別されなければ多様の認識は生まれない 

差別区別の否定は多様性の否定なのである

 

 

賢さを信奉したあまりに世界は狭くつまらないものへと進んだ

陰気で真面目で能率ばかりを尊べば世界は面白みのない陰気な世界となる 

陰気な喜びや悦楽を追い求めれば気分は陰気で沈鬱が晴れることはない 

ますます張り巡らされた壁は狭まりさらに沈鬱へと進む

それは能率という個を埋没させる機序によって建てられた壁ゆえである

 

 

自然の機序には能率重視は無く常に遊びがある 

そして遊びがあるゆえに進化変化が出現する 

遊びとは変化であり常態を破壊するがゆえに変化を生む 

自然の本質はそのような常態異常すら本質として内在させている

常態異常が発生することも自然の機序の中にある 

ゆえに常態を異常たらしめる存在も内在しておりそれも多様性として内在されるものである 

ゆえに排除できず存在し続ける

 

 

人の世界が調和へと進む時個が本質を主張し始めるのは自然の理である 

同じにしようとすればするほどその先にある調和を予測し本質が表出される 

それが変化という機序の自然な流れであり変化するために遊びという異常を表出させる

変化させるのは個の本質あってのものであり本質と本質が反応して異常が現出して変化となる

 

 

淘汰とは一つになることではない 

一つ消えれば一つ生まれるという変化が淘汰であり消えたものだけを見れば消えただけであるが生まれたものも同時に存在しておりその連続を結びつけられずに淘汰を消えることと勘違いしているだけである 

実際は変化であり転化である

 

自然界に存在するものは、必要だから存在している

人間の浅はかな知恵で「不要」と思ったところで自然の摂理には必要なのである

だから無くしてもまた現れる

ただ現れた時に少し姿が変わっているだけである

 

 

 

 

 

ひふみ神示 秋の巻 第九帖
みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、独自のものとなるのであるぞ。ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ。

 

 

黄金の巻 第八十八帖 

日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢゃ。分けへだてするのは神の心でないと申す人民 沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理よく心得なされよ。総てのものを先づ感受せよ。その後に感謝せよ。感謝すれば弥栄えるぞ。

 

 

五十黙示録 五葉之巻 第九帖 

平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。

 

第十帖 

悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。