力の源泉 《岩戸を開く道》 | 神人一致の癒奏術・響庵

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人を癒す【力】とは一体なんなのか?

ということをセラピーの仕事を始めた時からずっと考えている。

そして、それを突き詰めていけば必ずといっていいほど帰結していく場所がある。

【神】

それは、「人が何故存在しているのか?」ということに、最終的にはたどり着くということになるからだ。


人の【癒し】とはつまるところ「生命としての存在の赦し」である。

その【赦し】とは【在るがまま在ること】であり、それは「生命の危険」に侵されず、「存在の自由」が侵されず、【恐れ】の元となるものが無くなることであるだろう。

だから太古の人々は、様々なカタチでそれを追い求めたどり着いていった。


私自身、覚醒して後も自分の【力の源泉】とは「何であるか?」ということを、自分自身と照らし合わせながら探っている。

ヨーガ、タオ(道教)、仏教、古神道など、自分の身に起こり湧き出てくる【力の源泉】の「理(ことわり)」がいったいどのようなものなのかを知るために学んできた。


恐らく、何らかの「悟りを得よう」「力を得よう」としてこれらを学ぶのと、「自分が得た力とは?悟りとは?」を知るために学ぶのは、全くの逆の視点となる。

かつて「悟りとは?」を求めて実践していた【禅】も、まったく「逆」から求めていくと違ったものが見えてくる。


ヨーガなども同じで、「チャクラ」というものの存在を学んでイメージしても、けっして「たどり着けない」ということがわかる。

それは、奥深く学ぼうとすればするほど「全体」を見失ってしまうからに他ならない。

実際にチャクラと言うものが「発動」するためには様々な要素がクリアされなければならない。

だが、多くの書物は「チャクラ発動」という「枝葉」に囚われて、森全体を見失ってしまっている。

チャクラが発動するまでに、心の問題、身体の問題、生活や習慣の問題、そして自分自身の「在り方」の問題など、様々なクリアすべき課題がある。

それを飛び越えて「クンダリーニ開発」などをするから「クンダリーニは危険」などということになる。

 

だから、そんなことよりも「クンダリーニ」が発動してチャクラが開花しても「大丈夫」という【状態】に自分を持っていくことが【先】なのである。

だからそのために「禅」では【捨てろ】という言葉が出てくる。

では何を捨てるのか?

それが【囚われ】というもの。

仏陀が言う通り「世界は無常」なのである。

だから人も【無常】であることが最も自然なこと。

人本来の自然な姿である【無常】であることを妨げているのが「囚われ」である。

そんな「人が囚われてしまう」ものを説いたのだが、その説いた言葉自体がただの「方便」であり、本当はそんな「方便」にも囚われてほしくないというのが仏陀の思いだ。


老子のタオ(道)も同じである。

上善如水(じょうぜんみずのごとし)

「水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」

そのあ「ありのままの姿」が【無常】である。


その【無常】の状態に自分自身がならなければ、その先にあるものにはたどり着けない。

【無常】であることが「その先」へ行く【スタートライン】なのである。

その【無常】の先が【次の次元】ということでもある。

過去に囚われ、思いに囚われ、恐れに囚われ、慾に囚われている状態では「スタートライン」にすら立てていないのである。


心が何かに囚われていれば、同時に身体も囚われている。

心に重くのしかかるものがあるなら、身体にも重くのしかかっている。

心の囚われは即自分の霊体に現出している。

その霊体が重なる肉体もその影響を受ける。

しごく当然なことである。


だから「力の発動」や「クンダリーニ」「チャクラ」などに囚われていれば、それは一つの大きな【シコリ】となって、霊体、肉体の【枷】となる。

そんな【枷】を付けた状態で飛び上がろうとすれば支障が出るのは当然である。

脚に重りを付けてジャンプしているようなもので、必ず支障が出るだろう。

だから「クンダリーニは危険」ということになる。


チャクラを開発するのに「クンダリーニ」や「チャクラ」に凝り固まって念じるということは、それ自体まるで我が身に「呪い」をかけているようなものである。

そんな「呪いの力」でクンダリーニやチャクラを開花させようというのである。


古神道というものを若干ではあるが学んでわかったことであるが、【神】というものを「現出」させるのには二通りある。

二通りあるがそれは「似て非なるもの」である。

【念】を凝らせて現出させるものと、【無常】で現出されるものでは全く違うのである。

【念】を凝らせて現出させ得るものとは他ならぬ【蛭子(ひるこ)神】である。

そして、【無常】で現出される神はまさしく【神】の化身。

その違いたるや歴然である。



だからクンダリーニの発動もチャクラの開花も全く同じである。

ヨーガの古典で書かれているのは【神話】である。

シャクティがシヴァを激しく求めてシヴァのもとに昇ってゆく。

それが答えである。

自らが【無常】というスタートラインに立って【神】を求めるということである。

恋してやまないほどに求めて求めて・・・・

霊身共に【無常】の状態であるならば、シャクティが起き上がる。

そしてシヴァを求めて駆け上る。

シャクティがシヴァのもとにたどり着いたとき、祝福の華が開く。

それがチャクラの開花。

それと同時に求めて求めた【神】が現れる。

自分自身がシャクティそのものであるように、現れた【神】はシヴァそのものである。


それは「次元の垣根」が取り払われた「イワトアケ」の状態であり、高次元の【神】と「一致」する次元に自らが【在る】ということである。

それが「次元上昇」の姿なのである。


【念】を凝らして【神】のようなものを現わしても、それは「同次元」のものでしかない。

自分の重い「霊」の次元に念を凝らして現した「霊」にすぎないのである。

それは「次元上昇」でも何でもない。

ただの「霊懸かり」というものでしかないのである。



心の【癒し】とは様々な「枷」となる絡まった【思い】を解くことである。

身体の【癒し】とは様々な枷となる凝り固まった【重石】を解くことである。

どちらか片方だけではやがてもとに戻ってしまう。

そして、それらの枷が生まれるのは、日常の状態がそれを生み出す状態であるということ。

何かに「囚われ」ながら送る日々が、心に身体に「囚われ」を生む。

その日常の「囚われ」の絡まりを解くのが、神人一致するための【癒し】である。


だがしかし、何度解いてもすぐにまた「握って離さない」状態へと戻る。

岩戸の「向こう側」を見るだけで、魂は肉体の「魄(ぱく)」に引っ張られて元に戻ってしまう。

心や体が「戻ろう」とすれば、「魂魄(こんぱく)」は分離し「魄」が「魂」の枷となる。


なぜ戻りたがるのか?

自らの潜在的な「恒常性」に逆らえないのである。



他人が出来るのは「解く」まで。

けっして消し去ることは出来ない。

それは自らが「手放す」ことをしなければならないのである。

すぐに「握ろう」とする自分を戒めて【無常】の位置に立てるか・・・

そこが【岩戸】のあちら側とこちら側。

次元の分かれ目。


どちらに行きたいのか?


自分に問うてみることだ。




次元のあちら側とこちら側ではまるで違う。

それは「次元の岩戸」を越えねばわからないだろう。

超えぬ間は同じに見えても、超えて見ると全く違うことがわかる。



本当に次元の壁を越えたいなら

岩戸を開きたいのなら

心だけでは駄目

身体だけでも駄目

在り方そのものを【無常】に置くことが出来るか・・・

それが分かれ目である。


屁理屈捏ねて駄々こねていつまでもそこに至ろうとしないのであれば、私の施術は意味を成さない。

本当に【次元の向こう側】へ行きたいと願うものだけ来てくれればいい。

本当に【無常】に至るという強い意志があるなら、【神】も【仏】も【龍】も【眷属】も共に【共生】する次元世界へ誘うことが出来るのである。

そして、そこへ至れば【力の源泉】が何であるのかがわかる。


クンダリーニもチャクラも単なる「使われていない機関」であり、その「機関」が動くのが「上昇した次元」である。

その「機関」は人が【無常】の状態になければ意味を為さないもの。

ただ単にその「機関」を動かしても弊害が出るのはそのためである。



【癒し】の根源

【力】の源

その行きつく先はただ一つ

【神】である。


ただそれにはやはり「自分自身」と戦わなければならない。

その「自分自身」との戦いを避けていては、けっしてたどり着けないだろう。