レッテル上等
後ろ指上等
陰口上等
村八分上等
どこぞのヤンキーのような言葉ですね😊
人は【始めから汚れて】見えるものには見向きもしません。
汚れてないものに【ほんの少しの汚れやシミ】を見つけたとき、ハイエナのように群がります。
『綺麗なものを汚す』
それが【快楽】であるからです。
中世の魔女裁判は形を変えて現代にも連面と続いています。
攻撃して抵抗するものには【遠巻き】で眺めながら、石つぶてを投げて、やがて群がり貪り己の中の【獣】に支配される。
【欲望】の捌け口を【正義】にすり替えて、【穢れ無き魂】を汚れた手で振りかざし、自らの穢れを擦り付ける如く【偽善の獣】に支配されゆく。
『みんながするから』
『やらないと自分がされるから』
『仕方ない』
『でも間違いではないから』
『私が言ったんじゃないから』
数々の言い訳を心の中で反芻しながら、神の光たる【良心】を覆い隠してゆく。
光を失った心は当然【闇夜】となる。
【闇夜】となれば【魔】が現れる。
その【魔】に翻弄され気付けば己が【魔獣】と化している。
まさに【魔女裁判】は【魔獣】を炙り出す裁判である。
【魔獣】と成り果てた【魂】は何処へ行くのやら・・・・
どんなに【神の名のもとに】行おうとも、【神】すら穢した魂がどうして【神の御胸】に抱かれようか。
己の【神】を塞ぎ隠し、【魔獣】を【神】とした魂の【光】は、漆黒の太陽となるのだろう。
【神の光】と【闇の光】
それは人の心の中にある
その心を【神界】とするも【魔界】とするも選ぶのは自由である。
己の心に【神】を見出ださねば、外に顕る【神】はわからず。
それが【閻魔の裁き】
選ぶのは自由である。
【神の光】を隠されぬよう・・・・・
・・・・・・
中世の魔女裁判が広がった背景には【お墨付き】という要素があった。
これが非常に大事なところである。
神学者や教会側が魔女裁判に【お墨付き】を与えた。
それはまるで【神】のお墨付きをもらったと錯覚させるに値する。
だから人はいとも簡単に【魔獣】と化した。
『だから仕方なかったからいいんだ!』
などという理屈は通用しない。
神の光を塞ぐ『理由』に歓喜して己の『快楽』に走っただけである。
誰のせいでもない、自分で決めたことである。
現代でもそんな【お墨付き】が空手形のごとく連発されている。
そしてそれを『理由』にして自らの手で【光】を塞いでいる。
そして【お墨付き】を理由にどんどん闇が広がった。
光を外に求めるなとはこのこと。
自分の中にある。
誰にでもある。
しかし心を曇らせ光を塞げば【魔】が顕れる。
【獣】となるなかれ