ちょいと前に新宿のK’sシネマでドキュメンタリー映画「道草」 を見た際、

ロビーにたぁくさん並んだフライヤーの数々の中で「お!」と目を引くものがありました。

こちらです。


「ソヴィエト映画の世界」@シネマヴェーラ渋谷

渋谷のシネマヴェーラで開催される企画上映「ソヴィエト映画の世界」というもの。

ソビエト時代のロシア は、美術も音楽も映画も、とにかくあらゆる芸術を

プロパガンダにしてしまっていたのではと思ったりするところですが、

その描き方にはそれぞれに今だからの解釈のしようもあろうかと思うところです。


それだけに食指をそそられるところがあり、といって何本もの上映作品の中で

何を見るか(時間的に何が見られるか)が思案のしどころだったのですけれど、

取り敢えず一本、見てきたのでありますよ。タイトルは「ロマノフ王朝の最期」です。


ちなみに上のフライヤーで真ん中にあるガスマスク姿の兵士のショット、

これが「ロマノフ王朝の最期」からの一場面でしたですね。

ロマノフ朝の最期は、毒ガスが使用された第一次大戦のさなかのことですから。


と、それはともかくこの映画、確かにロマノフ王朝崩壊期を扱ってますけれど、
基本的にはグレゴリー・ラスプーチン(の醜悪さ)を描く映画だったようですなあ。


怪僧と言われることもあるラスプーチンは、皇帝一家に取り入って信頼を得、
お告げ的に政治向きのあれこれを進言して、国家を揺さぶったとされる人物でありますね。


大局的に見ればおそらくラスプーチンがいなくとも、もはや歴史の流れはとどめようもなく、
早晩、ロシア帝政は瓦解したとも思われる一方、ラスプーチンがいたことで

それが早まったようにも思うところです。


ロシアでは1861年にアレクサンドル2世による農奴解放令が出されましたですが、
アメリカは奴隷解放をめぐる南北戦争 が続き、日本も未だ幕藩体制の身分制があっただけに
もしかしてロシアは進歩的?てなふうに思ってしまうところながら、
農奴という最低身分から解放はされたけれど、すこぉしばかり良くなったかなくらいの層に
相変わらず圧倒的多数の人たちがいたのでありましょう。


なまじ国土が広大なだけにそこには膨大な労働者階級がいて、
ほんのほんの僅かな数の貴族が特権を握っている社会であったという想像は難くなく、
革命には当然にして数の力が必要ながら、ロシアで革命が起こったというのも
むべなるかなと改めて思いましたですよ。


そのあたり、折々差し挟まれたドキュメンタリー・フィルムと思しき映像を見るにつけ、
なんだか得心がいった気がしてきたものです。


一方で、ラスプーチン。どこからどう見ても胡散臭いとして言いようのない人物ながら、
(映画では取り分けそれが協調されていたように思いますですね)
ロマノフ家の人びとを始め、受け入れてしまう素地には「ユロージヴィ」を聖人視する
ロシアならではの受け止め方が関わってもいるのかなと思ったり。


翻って、ソビエト政権下でこのロマノフ朝崩壊期の物語を映画にしたことを思うと、
かほどに醜いのはソビエト体制が持つ宗教イメージそのものなのかなとも思ったり。
もっとも、ラスプーチンのあまりの所業にまっとうなロシア正教聖職者が
その行いを改めるよう求める場面なんかもありましたけれど。


ラスプーチンをロシア正教そのものに見立てるのは行き過ぎとしても、
ことほどかほどに胡散臭い人物にころりと取り込まれてしまう帝室や貴族社会を
揶揄する側面はあったかもしれませんですなあ。


見る前にはタイトルどおりに「ロマノフ王朝の最期」が歴史的な流れの中で
描かれているのでもあろうかと思っていただけに、思惑外れだった点は否めませんですが、
いろいろなところで頭を捻りながら見ること自体は詰まらないものではなかったかと。


例えばですが、ラスプーチン暗殺の企てが進められていく場面では
「ヤンキードゥードル」(北軍の曲ですな)と「ディキシーランド」(南軍の曲ですな)、
それぞれの断片が現れるような、いかにもアメリカを思わせる曲が流れていたのはなぜ?
とまあ、そんなことに思いを巡らしますと、分からないということも面白くなったり
するではありませんか。


てなわけで、他の作品も気になったりする「ソヴィエト映画」なのでありましたよ。