すこしでも気分をあげようとして、『恋するフォーチュンクッキー』のYouTube動画を観ながら書いている。

この動画は昔から大好き。なんだか元気が出る。

 

前回(これ)に関連した話を、つづける。

 

私のメンタルの弱さは、機能不全家族に育ったことが大きいと自覚している。

 

特に素晴らしくなくてもいいから、虐待しない家庭だったらよかったのにと思う。

 

私からみると、良い家庭に育った人は、自分を肯定する力がある。

これは、この世を生き抜いていく上での何よりの財産だと思う。

学歴よりも、家柄よりも、お金よりも。

 

機能不全家族出身の私には、無条件で家族がいいものだとか、親はありがたい存在だとかいう前提がない。

いまでこそ「毒親」などということばが市民権を得てきているが、私の若いころは、われわれのような人間を説明するのに必要な「用語」すら存在しなかった。

 

だから、自分の方が異常なのではないかと人知れずなやんだ。

明るい無垢な翼を持っている同級生がまぶしかった。

40歳をすぎて、向き合う決心をしてから、この世界のことを知った。

若い人から年配の人までたくさんの仲間と出会った。

 

この種のことが分からない人は「いい歳していつまでも親のせいにするな」みたいなことを言ったりする。

それは深い部分では正しく、表面的にはまちがっている。

 

いいたいのは、私にとっては結婚して家をでて、自分の家族を持つことが、原家族から脱出する唯一の道だったということ。

それでずっと幸せにやってきて、いま、自分のこどもが結婚したり独り立ちしたりする時期になった。

うちの子どもたちは、毒親からやっと独立できた、これで金輪際親とは縁切りだ、なんて思ってないだろう(きっと……)。

 

でも、私には一抹の不安、というか、かなり大きな不安があるのだ。

子供が一人前になったんだから、私はもう不要な人間? 夫もいないのに? たったひとりでこのあとの人生をやりすごさなければならないの?

大げさだと言われるかもしれない。

これを笑い飛ばせる人は、健全な家族で育った人だ。

私に刷り込まれているのは縛る家族。

 

もちろん、簡単に白黒はつけられない。

オールオアナッシング思考になってしまうのは認知のゆがみだと習った。

100パーセント悪い親も100パーセント良い親もいない。

100パーセントの善人も悪人もいないように。

 

けれど、だから困るんだよね。悪度数100だったら悩まないですむ。

 

機能不全家族は連鎖する。

連鎖を断ち切るには、まずそれを自覚しなくてはならない。

その意味では、私は長いこと十分に機能不全だった。それが生きづらさにつながっていた。

でも、夫はすなおな育ちをした人間だ。

そして、私はそういう人間と巡りあった。

二十歳の私は何もしらなかったけれど、きっと自分に何が必要か本能的に嗅ぎ分けていたんだろう。

 

夫の励ましと、40歳以降に出会った新しい世界とで、私のおかしさはだいぶ軽減されたのではないかと思う。ホントに、自分を褒めてあげたい。

 

夫が亡くなってしばらくして、こんな考えが浮かんだ。

人生の最初の20年は暗くて独りぼっちだった。その後の40年は光のなかにいた。

あかりを灯してくれた夫がいなくなり、このあとの20年はどうする?(平均寿命を考えると20年以上あるのだ)

最初の20年と同じように生きるつもり? それはぜったいイヤだと思った。

だって、そんなことになったら、夫が与えてくれた40年が無駄になる。

明るく生きられる自信は今のところ皆無。でも、人生最初の20年にしちゃいけない。

 

※書いているうちにYouTubeをフラフラして、今は2006年つま恋ライブを観ている。中島みゆきとの『永遠の……』はステキすぎる。そして今は吉田拓郎の『今日までそして明日から』。なんかピッタリだ。