私は昔からメンタルが弱い。
夫が生きていても、人生がいろんな面で生きづらかった。
そして夫はいつも私の味方で、生涯私を励まし続けた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と。
“根拠のない励ましだ”と私はときどき呆れ反発もしたけれど、夫はもっと深いところ、理屈じゃない部分で信じていたのだ、私は「だいじょうぶ」だと。
今思えば、なんてぜいたくな環境で悩んでいたんだろう。
私の生きづらさのもとは、「機能不全家族」で育ったことにある。
このことに気づいたのは40歳を過ぎてから。
それまでは記憶に蓋をして生きてきた。40歳になったとき、友人の何気ないひとことから記憶が呼び覚まされ、向き合う決心をした。
おそらく、そういう時期にきていたのだと今はわかるけれど、決心したときは恐ろしくてたまらなかった。
父親が私を殺しに来るのではと本気で怯えて、とある施設に身を潜めたこともあった。
詳しくは書かないが、実父によるsexual abuse と、「ためいき母」(=精神科医齋藤学のことば)という環境で私は20歳までを独りぼっちで過ごした。
真っ暗な海を小舟で揺れながら漂っているかんじ。
20歳で夫に出会い、5年後に結婚し35年。
私はやっと、安らげる家族を手に入れた。子供が3人いて、騒がしくて忙しくてたいへんだったけれど、私の家族だった。
そして、40年。私は支えだった夫を喪い、ふたたび独りぼっちになった。
いや、そうじゃないでしょう、と人はいうかもしれない。
子どもたちがいるじゃない、と。
それはそうだ。自分でもそう思おうとしている。
20歳までの私とはちがう。
でも、私はいわば同志を失ったのだ。この場所を代わりに埋めるものはいない。
夫の遺言のひとつに、私の両親と仲よくしてくれ、というのがあった。
ほとんど出ない声をふりしぼっていた。「わかった」と答えた。
私は40歳で問題と向き合う決心をして以来、自分の親と会っていなかった。
きっと死ぬまでこの状態だろうと思っていたし、それでいいと思っていた。
事情をすべて理解している夫が、私と私の親との間にたってくれていた。
でも、約束してしまったのだ。
葬儀からひと月後、私は子どもたち全員(と孫ひとり)と一緒に、実家の敷居を踏んだ。
感情にはふたをした(葬儀の時のように)。
このイベントは、正直、とても苦しかった。
そして、一回きりでおわった。
夫の望んでいたこととは少し違うかもしれないけれど、じぶんの精一杯でやるしかない。
私の80代の親にとっては、死ぬまでに娘に会うという願いがかなった形にはなった。
そして、ひとつ発見した。
それまでは、人生で両親とのことが私の最大のネックだと思っていた。
でも、夫が死んでしまうという、それをはるかに上回る出来事があったあとでは、親とのことも「些事」の部類にはいってしまうということ。
なんてことだろう!
人生はときに、思いがけない形で、思いがけない解決がやってくる。
おもいがけないといえば、あるカウンセラーに言われたことば
「自分の人生にこんなこと(夫の死)が起きるなんて! というのとまったく同じ確率で、こんなに良いことが起きるなんて! ということもおこるのですよ」
そうかなあ。いまはまったくそうはおもえない。
でも、人生は意外性に満ちている、きっとそれは事実。
※タイトルと離れた内容になってしまったきがする。メンタル弱い話は、今回書いたことと関連している。それは次に。