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石川県で引き寄せ!

生まれ育った北陸・石川の地で、「引き寄せ」に出会い、そこから本来の自分自身に戻っていく・思い出していくことを記していきます。

今年は「連休当たり年」です。

 

カレンダー3連休が毎月のようにあるし、

 

GWもお盆も年末も長期連休になりやすいです。

 

立春が過ぎ、冬の寒さもピークになっていますが、

 

もう少ししたら春になりますよ。

 

 

・・・

 

 

新しい職場に行って3か月以上経つのですが、

 

やはり最初の頃はモヤモヤしていましたね。

 

 

10年以上働いた職場から変わるのですから、

 

その変化に戸惑うのも当然です。

 

働いていても「うーん・・・」という気持ちが出てくるのですが、

 

その正体が言うほどハッキリするわけではないのです。

 

なんとなく「うーん・・・」というだけです 笑

 

 

これが変化への戸惑いの症状ですね。

 

 

前の方が良かった・・かな(←そもそも前も良かったのか?)

 

という気持ちもありながらモヤモヤするのです。

 

 

 

 

ずっとモヤモヤしても仕方ないので、

 

少し時間をとって、

 

 

今の職場のイイとことそうではないとこを

 

書き出してみました。

 

 

熟考して出す答えではなく、

 

瞬間的に浮かぶ答えです。

 

ワンフレーズ・ワンセンテンスで答えていきました。

 

 

ここで出てくる答えで、

 

イイとこというのは、

 

以前の職場よりも良くなった部分ですよね。

 

そうではないとこというのは、

 

以前のほうが良かった、もしくは思っていたのと違った

 

という部分です。

 

 

A4の紙の右半分・左半分で線を引き、

 

思い付いた答えをどんどん書いていきます。

 

想いつかなくなるまで。

 

似たような言葉が出てきても関係なく書いていきます。

 

 

そしてこれ以上は出ないな~と想ったらそこで終了。

 

 

イイとこ/そうでないとこ、

 

どちらが多いのかは一目瞭然です。

 

 

 

私の場合は、

 

イイとこのほうが多かったです。

 

 

ということは、

 

今の職場のほうが良いと感じてるわけですね。

 

 

これでモヤモヤは取り払われました。

 

 

「少ない」そうではないとこに意識や目が行き、

 

気持ちが持って行かれているわけです。

 

 

本当はイイとこのほうが断然多いのに。

 

 

頭で考えていても、

 

イイ方というのはなかなか意識が定着しにくいです。

 

悪いほうの方が意識が定着しやすいです 笑

 

 

 

それを目で見るという客観的視点で見るわけですね。

 

 

主観は悪いほうが勝っているけど、

 

客観的に見たらイイほうが勝っている

 

 

そのことを素直に認めると、

 

途端にモヤモヤが晴れます。

 

 

そうなると、

 

その途端、そこは良い職場に変わります

 

良い職場に変わると良い仕事ができます。

 

良い仕事ができるとそこは良い職場だと感じます。

 

 

そのループですね。

 

 

 

自分のモヤモヤに振り回されず、

 

いったんその場から離れて、

 

自分とその周りを見てみましょう。

 

 

思っているほど悪くないと思いますよ。

 

 

ということは、

 

 

むしろ良い!

 

 

ということです。

 

 

 

・・・終わり・・・

前回のブログ内容からちょっと逸れた感じの内容です。

 

 

「明日が来るのを止められるか?」

 

 

「明日になることに抵抗できるか?」

 

 

 

このスピ界隈である程度過ごしている方々なら、

 

 

実際には「今」しか無いから

明日になっても「今」だよ

 

という答えが返ってくるかもしれませんが、

 

 

そういう概念的なことは置いといて、

 

 

明日になることに抗えるか?と聞かれたら、

 

ほぼ100%ノーですよね。

 

 

 

もっと言えば、

 

時間を止めることができないでしょう。

 

 

 

時間が早く感じる/遅く感じる

 

という体感的なことはあっても、

 

 

1分を60秒から80秒にすることはできないでしょうから。

 

※もしかしたらできる人が居るかもしれませんけど※

 

 

 

この次元で生きている以上は、

 

時間的な制約を受けるのは普通のことですし、

 

時間的な制約を受けているから

この次元に存在している

 

とも言えます。

 

 

 

そういう意味では、

 

私たちは決まったことの中で生きている

と言えるでしょう。

 

 

ある制約の中で生かされている

とも言えますし、

 

ルールの在る範囲内で存在している

とも言えます。

 

 

 

自分では100%自由だと思っていても、

 

その自由には少し制限がかかっているようなもの。

 

 

その制限は、

 

自分で決めたものもあれば、

 

外から決められたものもある。

 

 

 

その中で、

 

自分の自由な想いで日々を過ごしていく

 

というのが人生の歩み方になっています。

 

 

 

 

自分自身では、

 

「私は自分の想い通りに生きている」

と思っていても、

 

 

実は

 

その「想い通り」すら

何かに決められているかもしれません。

 

 

 

 

その辺は、

 

この世界(次元)を離れてみないとわからないものでしょう。

 

 

 

 

自分で歩んでいる と捉えている人も

 

自分は歩まされている と捉えている人も

 

 

どちらにせよ、

 

この世界(次元)で生きているのですから。

 

 

あとは、

 

その歩みを日々楽しめるかどうかですね。

 

 

 

 

・・・終わり・・・

もう10日ほど経ちましたが、

 

あけましておめでとうございます。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 新年早々いろいろなことが起きていますが、

 

それをどう生きるかは、

 

自分次第です。

 

 

 

・・・

 

先日、ドラマ「のだめカンタービレ」を映画版までイッキ見したのですが、

 

その中のセリフで、

 

「楽譜には一音も無駄なものはないんだ。」

 

というものがありました。

 

 

 

この「楽譜」という部分を、

 

「人生」や「自分」という言葉に置き替えることができるでしょう。

 

 

そして「一音」と言う部分は、

 

出来事・現象・行動と言い換えられるかも。

 

 

 

いろんな音階や音符を使って、

 

真っ白な譜面に記していくことで、

 

ひとつの楽譜ができます。

 

 

ひとつでも違う音があれば、

 

そこにハーモニーは生まれません。

 

 

ゆったりとしたテンポから転調し、

 

激しく高鳴るリズムからの静粛など。

 

 

まるで人生そのもの、

 

自分自身そのものですね。

 

 

 

いろんな音階や音符がありますが、

 

どの一音も自分にとって必要であり、

 

自分にとってプラスになるものだ

 

ということですね。

 

 

 

 

そこで考え方・捉え方が2つ生まれます。

 

 

ひとつひとつの音符(出来事)が積み重なって、

 

ひとつの譜面(人生)が出来上がる

 

 

となるのか、

 

 

もともと一つの楽譜(人生)があって、

 

今はその音符(出来事)通りに奏でられているのか。

 

 

 

さて、どっちなんでしょうね~。

 

 

 

 

前者だと、

 

 

今起きている出来事(音符)の書き連ねる(経験する)ことで

ひとつの楽譜(人生)が出来上がる

 

となりますし、

 

 

後者だと、

 

 

もう出来上がっている人生(楽譜)を

その通りに今、演奏(経験)している

 

となりますから。

 

 

 

 

さて、どっちなんでしょうかね

 

 

ひとそれぞれ捉え方は違うでしょうから。

 

 

 

 

どちらにせよ、

 

 

「私は自分の人生を生きている」ということです。

 

 

誰かに決められた人生でも無いでしょうから。

 

 

状況・環境はある程度は生まれた時に決められるでしょうけど、

 

それからの細部をどう生きるかですね

 

 

 

今年2024年という日々は、

 

カレンダー上では曜日も含めもう決められていますが、

 

その中でどう生きるかは人それぞれです。

 

 

 

自分で日々プラスしていくんだ、という生き方も、

 

もう決まっている中で今目の前を、という生き方も。

 

 

 

あまり難しく考えず、

 

今日と言う今ここを楽しんでいくだけですね。

 

 

それこそ、のだめ的生き方になるんでしょう。

 

 

 

・・・終わり・・・

事実

 

記憶

 

感情

 

 

 

どれも自分の中のものですが、

 

果たしてそれが本当なのかどうか。

 

 

 

事実を正負の面で見た時に、

 

そこで自分に刻み込まれたものが

その正負のままなのか。

 

 

 

記憶を正負の面で見た時に、

 

そこで自分に刻み込まれたものが

その正負のままなのか。

 

 

 

感情を正負の面で見た時に、

 

そこで自分に刻み込まれたものが

その正負のままなのか。

 

 

 

 

以前にも書いたように、

 

負のイメージを持っていた記憶や事実が、

 

今現在ではまったくその負のイメージを引きずらなくなったこと。

 

 

その時はそのイメージで固定されているけど、

 

その後の出来事や自分次第で、

 

その正負はひっくり返ることが多々あります。

 

 

 

そうなると、

 

事実や記憶や感情は、

 

自分次第で何とでもなる

 

ということですね。

 

 

 

今の自分では変わることの無いもの

 

という感覚で、

 

事実・記憶・感情を捉えているかもしれませんが、

 

 

実際は変わります。

 

 

自分次第で、いかようにも。

 

 

事実も自分の紐づけ次第。

 

記憶も自分の紐づけ次第。

 

感情も自分の紐づけ次第。

 

 

勝手に物事が起きて、

正負が決められるわけじゃない。

 

 

自分で決めているわけですから。

 

 

物事が起きてくるのは変えられないので、

 

あとはどのように紐づけするかです。

 

 

事実も、記憶も、感情も、

 

周りに振り回されないで、

 

自分で決めて紐づけしていきましょう。

 

 

・・・

 

 

今年一年もいろいろありましたが、

 

それもすべて楽しい一年の一部です。

 

 

来年もいろいろと起こるでしょうが、

 

それらもすべて受け入れて、

楽しく過ごしていきましょう。

 

 

 

今年もありがとうございました。

 

 

来年もよろしくお願いいたします。

 

 

・・・

記憶喪失の話のドラマを見ていて、ふと思ったことが。

 

 

この人は今の時点では記憶は「無い」けど、

 

まったく無くなったわけではなく、

 

隠れているか表に出ていないだけ。

 

ちゃんと「裏」にはしっかりと存在している。

 

 

今の自分では記憶が「無い」と思っているが、

 

本当の自分は記憶が「有る」。

 

 

「無い」と思っている自分が居るだけで、

 

本当は記憶が「有る」自分が居ます。

 

 

 

 

そこからちょっと派生・飛躍して、

 

ちょっとスピ的な話に持って行くと、

 

 

・記憶が無くても過去は消えない

 

 

ここでいう過去とは

 

「生まれてくる時にした設定」と言えますし、

 

その過去を忘れたまま現世に来たけど、

 

そのことも忘れてしまっている(=記憶が無い)

 

という状態で生まれてきます。

 

 

だから、

 

この世には真っ新な状態で生まれてきた

 

とみんなは思っているのですが、

 

 

ただ過去(=設定)を忘れたという記憶が無い

 

というだけことです。

 

 

生きて行くなかで思い出す(=記憶が戻る)人もいるでしょうし、

 

忘れたままの人もいるでしょう。

 

 

どちらが良い悪いではなく、

 

ただ記憶が戻るか戻らないかの話です。

 

 

 

そんな設定は無い

 

そんな記憶が無い

 

 

ただ単に忘れているだけです。

 

 

本当は「裏側にはある」んですよ。

 

 

裏側というより、本当の自分だから「表側」ですね。

 

 

だから本当の自分が「ここに在る」ことを信じて、

 

日々楽しく過ごしていきましょう。

 

 

 

それが記憶を思い出す一番の方法です。

 

 

 

・・・終わり・・

自分とはいったい何だろう?

 

 

と考えた時に、

 

すぐに目・意識が行くのは

 

「身体的特徴」であったり、

 

「性格」であったりすることが多いと思います。

 

 

それも間違いではないと思いますが、

 

それらは外見・外観の部分ではないかなと。

 

 

外から見た自分

 

他人から見た自分

 

それらが身体的特徴や性格に現れています。

 

 

 

じゃあ内見・内観の部分でいう自分とは何か?

 

となったら、

 

それは「経験」や「人生そのもの」を言うんじゃないのかなと

 

思うわけです。

 

 

 

経験や人生そのものは、外から見ただけではわからないものです。

 

 

人生経験が顔や表情に出る

 

という言葉も在りますが、

 

よほどの能力者じゃない限りは、

 

その人がどういう経験をしてきて、

 

どういう人生を歩んできたのかは

 

見ただけでは測り知れません。

 

 

やはり内側に秘めているものなんでしょう。

 

 

それこそが「真の自分」ではないでしょうか。

 

 

 

自分がわからない

 

本当の自分を知らない

 

いろいろと考える人が居るかもしれませんが、

 

 

 

真の自分とは、

 

今までの自分の経験と人生そのものだよ

 

ということが分かれば、

 

少しは気が晴れるのではないでしょうか。

 

 

 

その経験や人生そのものに点数なんか付けないで、

 

その自分自身を楽しみましょう。

 

 

それでこそ100点満点な自分ですね。

 

 

 

・・・終わり・・・

先週は初めての日光からの東京という旅を楽しんできました。

 

スケジュールはあまり詰めずに、

 

1日1場所みたいな感じで、

 

その場、その場をじっくり味わう旅に。

 

 

美味しいものを食べて、きれいな景色・建築物を見て、

 

楽しく過ごす。

 

贅沢そのものです。

 

 

旅行代金の大小や、泊まったホテルのランクで決まるんじゃないですよ。

 

心の満足度で決まります。

 

 

 

 

・・・

 

 

誰かの世界に、私が居るんじゃなく、

 

私の世界に、いろいろ入ってくるんです。

 

 

時間という概念

 

歴史という経過

 

自分の中の記憶

 

 

こういうモノに縛られていると、

 

 

すでにあった「世界」の中に私が生まれ、

 

その中でいろいろな経験をするという感覚ですが、

 

 

実際はそうではなく、

 

 

私が生まれたときに「世界」が生まれ、

 

その「世界」でいろいろな経験をする

 

というのが本来の流れのようです。

 

 

 

だから、

 

私が私の世界において、

 

いろいろな経験をすることが正解で、

 

 

誰かの作った世界があって、

 

私がその世界の中を生きるわけではないのです。

 

 

それだとほんと窮屈になりますね。

 

 

100歩譲って、

 

その誰かがいわゆる「神様」なら、

 

少しは受け入れてもいいかなと思いますが、

 

 

その誰かが自分以外であっては、

 

本来の自分の生きる姿にはならない。

 

 

そう感じます。

 

 

もうすでにあるから、

 

以前から存在しているから、

 

その世界に私が入り込んでいるんだ

 

その世界で私が生きているんだ

 

 

という自分が二番手の生き方をしていると、

 

何事も二番手になっていると思います。

 

 

そうではなくて、

 

 

自分が創った世界を自分が生きているんだ

 

自分の創った世界で私は楽しんでいる

 

そういう自分が一番手な生き方をしていると、

 

何事も一番手になっていることでしょう。

 

 

自分の創った世界で、

 

何の遠慮もいらないですよ。

 

 

自分のやりたいこと、

 

自分の好きなこと、

 

自分がイイと思っていること、

 

どんどんやっていきましょう。

 

 

自分で決めて、

 

自分で動く。

 

 

自分が創った世界で生きるとは、

 

そういうことだと思いますよ。

 

 

もっと、この世界を楽しみましょう!

 

もっと、わがままに、

 

もっと、自分らしく。

 

 

 

・・・終わり・・・

秋の実りを迎えて、

 

食欲の秋に向かって、爆走中です 笑

 

 

とは言っても、

 

私自身1日2食生活なので、太ることはありません。

 

美味しいものを集中して食べる。

 

食べたいものを食べたいときに食べる。

 

そんな日々を過ごしております 笑

 

 

・・・

 

 

「昨日、何食べた?」

 

すっと答えられるでしょうか。

 

 

「昨日夕食で食べたもの、どんな味した?」

 

すっと答えられるでしょうか。

 

 

もう10年以上前から

 

食事中のスマホやテレビのながら見などもあり、

 

今食べたものすら覚えていない人も増えているわけです。

 

自分のSNSの「いいね」の数しか見ていないのかもしれませんけど 笑

 

 

 

自分の食べたものが

 

どんなモノで、どんな味がして、美味しかったかどうか。

 

 

心に余裕がないときは、全部蔑ろ。

 

時間に追われて、ただ腹を満たすだけ。

 

お金を気にして、ただ腹を満たすだけ。

 

 

ただ腹を満たすだけだから、

 

何も残らない。

 

 

何も残らないから、何を食べたかわからない。

 

何を食べたかわからないから、

 

自分に何も残らない。

 

 

という流れですね。

 

 

もっと意識的にモノを食べてみましょう。

 

 

それが願望実現や引き寄せや何かに繋がるのか?

 

 

という意味不明な問いは無視して 笑

 

 

 

そんなことよりも、

 

今目の前の食べたいもの・食べるものに意識を向けて、

 

それを食す。

 

その時間を楽しむ。

 

 

そっちのほうが大事です。

 

 

それを続けていくと、どういうわけか

 

引き寄せや願望実現に繋がっていきますよ。

 

 

なぜかわからないですけどね 笑

 

 

騙されたと思って、

 

これからの一食に集中してみてください。

 

その一食を続けてみてください。

 

 

味わって、楽しんで、堪能して。

 

 

それを続けていくと、

 

本当につながっていきますよ。

 

 

 

・・・終わり・・・

他人を変えることは大変

 

自分を変える方が楽

 

世界を変えることは大変

 

自分の見え方を変える方が楽

 

 

じゃあ、どちらを選びますか?

 

ということで。

 

 

 

他人を変えるのが大変だから、自分が妥協しよう

 

ということじゃないですよ。

 

 

自発的に変わることのほうが早いので、

 

自分が変わると他人も変わっていくことが多いのです。

 

 

「アイツ、何にも変わらねぇ!」と思うなら、

 

別にアイツを変えなくてもいいんじゃないでしょうか 笑

 

 

そのアイツが変わらなくても、

 

自分のことに大きな影響は無いでしょうから。

 

 

もし、アイツが変わらないと自分が大変だというなら、

 

そもそも自分が大変なんでしょうから、自分が変わりましょう。

 

アイツのせいではないです。

 

自分がそんな状況に置かれているのが間違いです 笑

 

 

自分のことを変えていきましょう。

 

その置かれているシチュエーションも変わっていくでしょうから。

 

 

他人を動かすのって大変なんですよ。

 

自分のカラダを動かすことは楽にできるけど、

 

他人のカラダを動かすことがどれだけ大変か。

 

 

自分の体重が70kgとして、

 

その70kgの自分のカラダは自分で動かすことができますが、

 

70kgの人間やモノを動かすのはとても大変です。

 

ちょっとやそっとでは動きません。

 

 

70kgの自分はジャンプして宙に浮きますが、

 

70kgのモノを宙に浮かせてみてください。

 

どれだけのパワーが要るか。

 

 

それだけでも

 

自分を変える(動かす)のは楽、

 

他人を変える(動かす)のは大変

 

というのがわかります。

 

ちょっと強引な例えですけど 笑

 

 

 

自分が動く・変える・変わるのは

 

自分のチカラを使って自分を動かすから、

 

レバレッジが効いて楽なんですよ。

 

 

他人を動かす・変えるのは、

 

自分のチカラだけじゃなく他人の分も要るので

 

自分だけのレバレッジじゃ効かないんですよ。

 

 

相手も同様に動いてくれる(変わってくれる)と、

 

「相乗効果で良くなる」んですけどね。

 

 

 

いろいろ書きましたが

 

 

自分が変わる方が楽、

 

自分の見え方が変わる方が楽

 

 

 

この2点がポイントですね。

 

 

 

・・・終わり・・・

B'zライブからの大阪の旅も無事終わり、

 

いわゆるシルバーウィーク的なものも終わりました。

 

カレンダー上は、今月から3か月連続で3連休があるので、

 

まだまだ楽しい日々が続きますね。

 

 

 

・・・

 

 

過去にあった苦い思い出。

 

その当時は本当に苦しかったし、

 

頭からなかなか離れず、

 

ずっとそのことを考えていた日々だったのに、

 

今となっては「そんなこともあったな~」とふと思い出す程度のこと。

 

 

 

その時は、

 

「嫌な記憶を消したい」

 

「こんな日々を思い出したくない」

 

「毎日最悪だから何とかしたい」

 

とずっと願っている 

 

なんてことはしていません。

 

 

 

だけど今となっては、

 

そんなことは思い出すこともない状況になっています。

 

 

 

それなのに、

 

なぜか願いを叶えようとするときは、

 

ずっと願っていたりするわけです。

 

 

「こうなってほしい」

 

「アレが欲しい」

 

「コレが欲しい」

 

 

時間が経った今になっても、叶っていなかったりします 笑

 

 

 

ずっと願っていたわけでもないのに、

 

嫌なことはす~っと忘れ、

 

良いこと(=叶えたいこと)はいまだに忘れず願っています。

 

そして叶っていないと嘆く。

 

 

この差に気づけるか。

 

 

同じ叶えたいことでも

 

イヤなことは案外忘れるように叶い、

 

イイことは忘れない上になかなか叶わない、

 

というギャップがある。

 

 

 

両方叶えるのが早い人も居るかもしれませんが、

 

少なからず上記のような人が居るのではないでしょうか。

 

 

忘れるように叶うことと、

 

叶うまで忘れないようにしていること。

 

 

その差を執着というのか、重さというのか

 

いろんな表現があると思いますが、

 

 

ことあるごとに叶っていないことを思い出しては、

 

また叶うように願うという日々を過ごすよりは、

 

忘れるくらいのほうがいいのかもしれません。

 

 

いったん忘れて、今没頭・集中できることに意識を向けていく。

 

それを続けていると、

 

いつの間にか忘れた頃に願っていた状況になる。

 

 

「あ~、そういえば、、、」というくらいがちょうどいい。

 

そんな感じですね。

 

 

 

叶っていない状況を見ることは、

 

今・目の前に意識が向いていない証でもありますね。

 

 

叶っていないとネガティブになるくらいなら、

 

今・目の前にあることを楽しむ

 

それを続けていく。

 

 

それでいいんだと思います。

 

 

 

願いは、「言うほど重要じゃないな」と気づけたとき、

 

それはもう叶っている状態ということで。

 

 

・・・終わり・・・