丘 奈凰妃(おか なおひ)が、

「見えないものを見る人」

「ほんとうのこころの声を通訳する人」

「あなたのこころをぽんと押す、ヒーラー兼石屋」

にころがるまでのストーリー。

 


前回の記事は
1. 石が好きでもなく、霊感もなく、「先生になりたかった子」


今日は、私の人生の根っこに、とても大きな影響を及ぼした「家族内勢力図」について語ってみたいと思います。

これ、今までは一切書いたことがなかった話ですね。


* * * * * * * * *


福井県は、共働き率日本一の県だそうです。

わたしの両親も教師で共働き、忙しい日々を送っていました。
 
今のように長期の産休・育休制度はなく、母は、私を産んでから数ヶ月後には職場復帰したと聞きます。


わたしの面倒を見、育ててくれたのは、同居していた父方の祖母でした。

私にとっては、「優しくて大好きなおばあちゃん」。

アルバムには、幼稚園の遠足など、祖母が側にいてくれている写真が何枚もありますし、一緒の部屋でテレビを見、おやつを食べ、幼稚園の送り迎えをしてもらい、といった記憶があります。


ただ、状況が少し複雑だったのは、「母が家にいる間も、私は祖母に育てられていた」ということ。

家族揃っての夕飯が終わると、父母は2人の部屋と寝室がある2階へ、わたしは1階で、祖母と寝ていたそうです。

祖母の部屋で寝て起きて、幼稚園の送り迎えも祖母にしてもらい、園から帰って来ればまた祖母と過ごし、夕食と束の間の家族団らんが終われば、また祖母と眠る。

同じ家に暮らしていた親子であったにもかかわらず、私が母と過ごしていた時間は、とても少なかったと聞いています。


何故そんなことになっていたのかと言えば、家族関係における様々なヒエラルキーとドラマの中で、「祖母がわたしを母に渡さなかった」ということのようです。

祖母は看護婦として長年働き、婦長を勤め上げたほどの職業婦人で、沢山のひとにとって情に厚い姉御肌であったようですが、とても負けん気が強く、恐らく周りにいる人の敵味方の別もはっきりとあったひとでした。

まるでテレビドラマで見るような、「昔ながらの嫁姑ヒエラルキー」の典型のごとく、祖母が母にとても厳しくあたっていたことを聞いたのは、わたしが大人になってからでした。

祖母の母へのふるまいや、エピソードの数々を聞く限りでは、それはかなり辛辣なもので、もしわたしが母の立場だったら、早々と嫁いだ家から泣いて逃げ出していたと思うほどです。

 

理不尽なふるまいに対する母の忍耐強さ、それでも人を攻撃しない優しさと穏やかさには、本当に頭が下がります。

「我が子を胸に抱き、一緒にいたかったのに、それがかなわなかった」と、母はわたしに語ってくれました。

 


ただ、不思議なことに、わたしには、母と祖母の間にあった軋轢の記憶は、一切ないのです。

普通に考えれば、母と離れていることに対する寂しさや悲しさもありそうなものですが、わたしは、祖母といることに疑問や不満を抱いた記憶すら、全くありませんでした。

母への思いを完全に抑圧していた、ということに気づいたのは、20代後半に、心理学を学び始めてからのことでした。

母と一緒にいたいのにいられない、その思いは、わたしの人生にとても様々なものをもたらしました。
 

次回につづきます

 

次回のおはなしは…

3. 心の中ではいつだって「母をたずねて三千里」

 

 

 

 

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