【ワード・サマナー本編】stage39-act2:若気 | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

・act2 若気・

”俺は君を守りたい。この世のあらゆる不幸から”

家を出た七瀬はとにかく走った。
とにかく、息が切れるまで走った。

体力が切れると、携帯電話を開いた。
そして恵に向かってメールを打つ。


『今から行く!』


短い言葉。
それが彼の気持ちを全て表していた。

思いを送信した後は、電話はポケットにしまわれたままになった。
それからまた彼は走り出した。

「はあ、はあ、はあ…!」

雨が降り出した。
小雨が少しだけ強くなり、普通の雨になった。

恵からだろうか、電話はポケットの中で震える。
七瀬もそれをわかっている。

だが電話には出ない。
全力で走り続けた。

「はあっ、はあっ、はあっ!」

雨はさらに強くなった。
彼は、自宅からの最寄り駅に着いた。

その駅は私鉄と市営地下鉄とが接続する駅だったが、彼は迷わず地下鉄を選んだ。
改札口への階段を降り切ると、上りエスカレータの壁をつかんでターンする。

切符を買い、地下鉄に乗り込む。
ずぶ濡れになった彼は、シートには座らなかった。

「…はあ、はあ、はあ…」

電話を取り出す。
恵からの着信は4回あった。

彼女はメールも送っていたらしく、2通来ている。
彼はそれを読んだ。


『七瀬くん、電話に出て!』
『今から行くって、どういうことなの?』


”どういうことかって? こういうことさ”

息を切らしながら、彼は笑顔でメールを見つめている。
だが返信はせずに、電話をたたんでポケットにしまった。

地下鉄が発車した。
この駅は終点のひとつであり、地下鉄は地上に出ていたが…発車して1分近く経つと完全に地下へと潜った。

客はまばらだった。
座ろうと思えばシートに座れたが、彼はそれをしなかった。

それは、シートを濡らして迷惑をかけることを、彼が嫌がった…からではない。
今の彼はただ、地下鉄の窓にぼんやり映る自分の顔を見つめていた。

「…」

電話がまた震える。
だがそれはすぐに止まった。

地下鉄が圏外に入ったためだった。
七瀬はそれがわかっていたので、特に電話を見るということをしなかった。

やがて地下鉄は、彼が目指す駅へ到着する。
そこは空港だった。

ドアが開くや否や、駆け出すように地下鉄を降りる七瀬。
全力疾走がまた始まり、改札も風のようなスピードで抜けていく。

「はあっ、はあっ、はあっ!」

空港に直結している駅らしく、他の駅とは様相が違っていた。
壁は無機的な白ではなく、深みのある茶色い石でできている。

当然他の客もいたが、彼はできるだけそんな人たちを避けつつ走り続けた。
空港会社のカウンターへ行き、座席状況を尋ねようとする。

「あ、あのっ…はあ、はあ…すいませっ…」

「お、お客さま? 大丈夫ですか?」

「あ、ああ…悪いね、心配かけて…それより、空席はあるかな?」

「恐れ入ります、どちらへ向かう便でしょうか?」

「はあ、はあ…ふぅ」

息を整えながら、七瀬は微笑む。
そして、受付の女性に向かってこう言った。

「彼女の町へ向かう便なんだけど」

当然、女性たちは呆気にとられた顔をする。
だが七瀬は、とても嬉しそうな笑顔を浮かべるのだった。


その後、七瀬はちゃんと行き先を告げ、目指す便に乗ることができた。
ずぶ濡れだった体も、地下鉄に乗ったことと駅から受付まで走ったことで、かなり乾いていた。

「…ふぅ…」

息も完全に整い、彼は座席に座っている。
もし濡れていたとしても、さすがに飛行機では座らないわけにはいかなかった。

そして飛行機は飛び立った。
恵と会う時に、新幹線と併用して飛行機を使っていたこともあり、利用の仕方はよくわかっていた。

ヘッドフォンを装着し、シートでチャンネルを合わせる。
すると、邦楽のポップナンバーが流れてきた。

『にわか雨が通り過ぎてった午後に 水溜りは空を映し出している…』

学生時代からメタリカのファンだった彼だが、邦楽も聴かないわけではなかった。
この曲は彼も知っていた。

ただ、今まではそれほど感慨深いものでもなかった。
しかしこの歌詞が、彼の琴線に触れることとなる。

『歪んだ景色に 取り囲まれても 君を抱いたら 不安は姿を消すんだ』

”…ああ、そうだ…そうだよ。君がいれば、俺は何も怖くない。なんだってできる…なんだってできるさ!”

彼の琴線に触れたのは、サビ前の歌詞だった。
だが彼にとっては、サビはほとんどどうでもよかった。

今の彼が抱いている思い。
それを燃え立たせてくれるのは、全てサビ前の歌詞だったのだ。

『表通りには 花もないくせに トゲが多いから 油断していると刺さるや』

”めちゃくちゃなことばっかりがまかり通っているんだ。それが君を傷つける…でももう、何も怖くなんかない。俺が君を守ってみせる!”

『繋いだ手を 放さないでよ 腐敗のムードを かわして明日を奪うんだ』

”悲しいことがもし起こりそうでも、ふたりならそれを回避できるはず。そうさ…俺たちはなんだってやれるんだ。ふたりでいさえすれば、なんだって…!”

まぶたは閉じている。
だが、心は躍っている。

親も、親から授けられた宗教も、仲間も、故郷も。
全てを捨てたというのに、彼の心は躍っている。

”もうすぐ会える。心配させたから、きっと怒っているだろう。でも、そんな恵に俺は言ってやるんだ…”

飛行機は、とてつもない速度で彼を運ぶ。
そして、1時間も経たないうちに目指す空港へ到着した。

”俺が君を守り続ける! これからは、絶対に悲しいことは起こらないって!”

飛行機を降りてある程度進んだ後で、彼は携帯電話を開いた。
当然、飛行機に乗っている間は電源を切っていたので、それを入れるためでもある。

だが、最も大きな目的はそれで恵に電話をすることだった。
彼女は心配して待ち続けていたのだろう、1コール目で出た。

「七瀬くん!」

「恵…来たよ、今空港だ」

「ばか…! どうして…」

恵の声は震えている。
七瀬は笑顔で、彼女に向かってこう返した。

「君に会いに来た。俺が君を好きな気持ちは、最初っから全然変わっちゃいない!」

「七瀬くん…ううっ…!」

「だから、死にたいだなんて言わないでくれ。俺は今も、たった今も、君が好きだ」

「ばか…ばかあ…!」

「恵が、好きだ!」

一点の曇りもない、素直な想い。
七瀬はそれをそのまま、純粋に恵にぶつけた。

それが彼女の心をある程度癒したというのは、想像に難くない。
彼女は家から出られるまでになり、彼を迎えに来ることさえできた。

「七瀬くん!」

「恵っ!」

直接会えば、ふたりは抱きしめ合える。
その感触が、ぬくもりが…ふたりを強く結びつけた。

「あたしのために…あたしなんかのために…そう思っていいの?」

「当たり前だろう! 君がいない町に行ったって意味がない! 俺が君を守る…そう決めたんだ!」

「…えっ?」

ここで、恵の表情が変わった。
抱きついていた彼から体を離し、まじまじと顔を見る。

「守る、って…」

「俺はもう、帰らない」

「ええっ!?」

彼の告白に、恵は驚愕する。
彼女は冷静になって、彼にこう言った。

「だけど、家も何もないのに…!」

「住み込みでも何でもやるさ! とにかく俺は、君がいる町に住むって決めた! これでもう、君にひどいことなんて起こらない…俺が全部ぶっ飛ばしてやるよ!」

「七瀬くん…!」

「それに、住み込みがなくたって少しは貯金もある。君と会うために貯めてた金さ…それを使えば、頭金くらいにはなるはずだ。だから君は何も心配しなくていい!」

「…うん!」

彼女は女性らしく、現実的な問題を重要視している部分があった。
だが彼の言葉に、自分の心配が杞憂であることを悟る。

そうなれば、もう迷う理由は何もない。
彼女はまた、彼に強く抱きつくのだった。

「七瀬くん…! 本当に嬉しい! あたしなんかのために、こっちに来てくれるなんて…!」

「恵」

今度は七瀬が体を離した。
きょとんとする彼女の目を見つめる。

「あたし『なんか』っていうのは、もうやめよう。君は俺にとって、この上なく大事な彼女なんだから」

「う…うん」

「素直でよろしい」

「七瀬くんっ!」

ふたりは何度も抱き合い、キスをした。
空港の駐車場には他の客たちもいたが、もうふたりは止められなかった。

そして彼…七瀬は、M市に住むことになった。
恵はまだ実家を出ることはなく、週に一度ほど会うという形になった。

彼女の両親の方針として、同棲などは許してもらえないらしかった。
七瀬も別にそれは構わなかったし、それがまっとうな考えだとも思ったので、特に文句を言うことはなかった。

だが、不思議に思ったこともある。
それは、彼女を襲った男たちに対する処遇だった。

「家を教えてくれ。知ってるんだろ?」

「う、うん…でも、どうして?」

「どうして、って…恵にひどいことしといて、どうしても何もないだろう。きっちりケジメをつけておかないと、また危ない目に遭うかもしれないじゃないか」

「だけど、向こうはあたしの家知ってるんだよ…? 七瀬くんはそれでいいかもしれないけど、あたしにもっとひどいことしてきたらどうするの?」

「…え?」

「それに、もうそのことは忘れたいの…お願いだから、大事にはしないで。ほっとけば、いずれあたしなんて忘れるよ。そうでしょ?」

「…」

「お願い」

「あ、ああ…」

直接の被害者である恵にそこまで言われては、七瀬も黙るしかなかった。
警察が動いてくれなかったことも合わせ、この件については彼女の言う通りにしておいた方がいいのだろうと判断した。

それが功を奏したのか、彼がやってきてから彼女に悲しいことは起こらなくなった。
ふたりは週に一度会うことで互いの愛情に触れ、またそれを深めていった。

七瀬もM市で仕事を見つけ、工事現場で働き始めた。
向いているとは言えなかったが、真面目な勤務態度は先輩たちから好感を持たれた。

携帯電話には、親や新教会からひっきりなしに着信やメールが来ていたが、彼はそれには出なかった。
ただ、捜索願を出されても困るので、親にはメールでM市にいることを伝えた。

それに加えて「絶対に来るな」という言葉を添えることも忘れなかった。
新教会の教義もそうだったが、それを子どもの頃から自分に叩き込んできた親もまた、彼の中では憎むべき敵になっていた。

とはいえ、何ができるわけでもない。
彼はこの頃まで、まだ普通の青年だった。

彼が変わるには、それから数年を待たなければならない。
恵に親を紹介され、彼女との結婚を意識する時まで待たなければならなかった。

「…結婚…?」

「うん! あたし言ったよね? お嫁さんになるのが夢だって!」

「あ、ああ…それはもちろんわかってるけど」

「七瀬くんも仕事慣れてきたみたいだし、お父さんにも気に入られてるし。いい感じだと思わない?」

穏やかで幸せな暮らしは、「会える」ことを当然のことにし、それを幸せに感じることはなくなっていった。
広いとはいえない彼の家で、ふたりは食事をしている。

「いい感じ…なのか」

「少なくともあたしはそう思うけど…どうしたの?」

「え? いや、何でもない…」

そう言いながら、彼は味噌汁を飲む。
それを見る彼の表情は、空港に降り立った時とは別人のようだった。

”結婚…? 俺が結婚だって?”

七瀬の中には、疑念があった。
恵と結婚して、うまくやっていけるのかどうかという疑念があった。

彼女とはうまくやれるだろう。
彼女の親ともうまくやれるだろう。

そこは問題なかった。
ただひとつ、問題があるとすればそれは…

”結婚して、子どもを作って…そういうことだよな? 俺の子どもができるってこと…だよな?”

たったひとつ。
子どもだけだった。

子どもが嫌いというわけではない。
どちらかと言えば、好きな部類に入る。

だが、彼の中にはとても大きな恐怖があった。
他人の子どもなら全く問題ないのだが、まだ見ぬ自分の子どもに対する恐怖があった。

”俺に子どもができたら…絶対に俺は、その子どもに殺される。なぜかはわからないが、きっと殺される…そんな気がする。それがとても怖いんだ”

それは、他人には意味のわからない恐怖だっただろう。
だがそこには理由があった。

彼は小さな頃から、親に新教会の教義について教えられてきた。
英才教育を受けてきたと言ってもいい。

それによって考え方の基本的な部分が、教義に即した内容になってしまっていた。
当然今の彼はそれを憎んでいるが、憎んだところでまだ消すことができない。

20年以上かけて熟成されてきたものを、そう簡単に消すことはできなかったのである。
そして、自分をそのように育て上げた親に対して、彼は憎悪の念を持っていた。

”俺は親を憎んでいる…とはいっても、別に殺すとかそんなことができるわけじゃない。せいぜい電話やメールを無視するくらいだ。だが、果たして俺の子どももそうだろうか?”

自分が子どもに間違ったことを教え続けた時、ただ無視する程度で許してくれるのか?
我が子は自分を、くびり殺すのではないか。

そんな恐怖が彼の中にはあった。
だからこそ、結婚というキィワードを聞くと、心が薄ら寒くなっていくのを感じていた。

”恐らくこれは『予感』だ…間違いなく俺は殺される。だが、言ったところで恵には理解できないだろう…いや、彼女だけじゃなく誰にも理解できない。これは、俺だけの恐怖なのだから”

だが結婚を夢見る恵は、彼の恐怖など知らないまま…彼に結婚という言葉を意識させるため、様々なアプローチをしてくるようになっていた。
最初は結婚情報誌のCMを見て「いいねー」と言うくらいだったのが、今はその雑誌を買うまでになってきている。

”俺に結婚なんていうものは無理なんだ…結局家族さえ壊れるということを、俺は知ってしまっている。俺自身が壊したんだからな…! それはとても寂しく、悲しいことだ!”

七瀬は、様々な思いを総動員し始めた。
その思いたちは、結婚というものに対する恐怖を、さらに高めていってしまう。

しかしどこかで希望もあった。
彼女との間にできた子どもなら、もしかしたら自分の恐怖も杞憂に終わるのではないかと。

だがそれは彼の中では絶対ではない。
対する恐怖は、彼の中では絶対だった。

”だが…恵の夢が結婚だというのは、俺が一番よく知っている! そのためにあいつも努力している…俺がこっちにきたのは、あいつと一緒にいるため…”

今まで努力はしてきた。
結婚するにはやはり定職が必要だろうということで、工事現場で働き続けてきた。

同僚や先輩たちとの関係も良好であり、後輩たちもできた。
体力的には辛い仕事だが、給料を考えるとそれほど悪くなかった。

だがその努力も、まだ見ぬ我が子のことを考えると全て霧散するように思えた。
これは恐らく…彼の中で何かが砕けた時、一緒に心が壊れてそのままになっているためだったのだろう。

しかし彼にはその自覚がなかった。
そしてそれを、彼女と一緒に癒していこうという気にはならなかった。

「…なあ、恵」

「ん?」

だから彼は、食事が終わった後、茶碗と箸を起き…
唐突にこんなことを言い始める。

「別れよう」

「…」

目を見開く恵。
彼女にとって彼の言葉は、青天の霹靂以外の何物でもなかっただろう。

「…えっ?」

そう訊き返すのがやっとだった。
この日から、七瀬は恵を自分から遠ざけ始める。

「七瀬くん…? わかんない。あたし全然わかんない」

「もう決めたんだ。別れよう」

「なんで? どうして? ちゃんと説明してよ!」

「教えても多分理解できない…そういう理由だ」

「なにそれ…あたしのこと、バカにしてるわけ!?」

「違う。とにかく、別れよう」

「本気で…本気で、言ってるの…?」

「ああ」

「浮気したんだ? だから別れようとか言い出したんでしょ? ねえ!」

「それは違う。だが、もう終わりなんだ」

「何が…? 何が終わりなのよ…! あたしにとっては、これからやっと始まりなのに…!」

全てを賭けた大恋愛の果て。
だがそれにしては、あまりに理不尽である。

恵にとってもそうだっただろうが、七瀬にとってもそうだった。
彼は彼女に、真の理由を説明したりもした。

「俺は、自分の子どもが怖いんだ…生まれれば必ず殺される! そういうのが心にあるんだ。だから結婚は無理なんだ」

「七瀬くん、言ってること意味わかんない…どうして? 結婚したくないから別れるってことなの? じゃあ、あたしとのことは遊びだったってことなの?」

「そんなはずないだろう! 遊びで全部捨てられるか…! とにかく俺に結婚は無理なんだ! そんなに結婚したいなら、それができそうなヤツを見つけてくれ!」

「ひどい…! 七瀬くん、ひどいよ…!」

だが彼女は、そう言いながらも彼にしがみつく。
彼から離れることはできないということを、行動で示してみせた。

「あたしには七瀬くんだけなんだもん! 結婚できないっていうんならそれでもいい…だから、別れるとかやめてよ…!」

「そういうわけにはいかない。お前の夢が、結婚してお嫁さんになるってことは、俺にもよくわかってる! 俺のわがままでそれを諦めさせるわけにはいかない…それにお前、子どもだって欲しいだろう?」

「う、うん…それは…」

「だったら無理なんだよ! 俺にはもう、お前を幸せにはしてやれない…!」

「どうして…! どうしてそうなるの? あたし、全然わかんないよ…わかんない…!」

恵は七瀬にしがみついたまま泣き始める。
彼はそんな彼女を、沈痛な面持ちで見つめた。

”俺と一緒に過ごして心の傷が癒えた今の恵なら、きっと…いいヤツを見つけられる。それに、今突き放しておかないと年齢的にもやばくなる…やるしかない”

右手を振り上げた。
彼はそれを一度止め、まぶたを閉じる。

”…やるしかない!”

直後、彼の右手は…彼女の頬を打った。
彼女は何が起こったのかわからず、打たれた頬を反射的に手で押さえた。

だがやがて、痛みが彼女に教える。
自分が、彼に何をされたのかを。

「あああ…ああああああッ!!」

恵は泣き叫び、家から出て行った。
その後ろ姿を、七瀬も泣きながら見送った。

「ごめん…本当に、ごめん…!」

最愛の女性を、彼はその手で殴った。
それからも恵は彼を求めたが、彼は徹底的に突き放した。

”俺が苦しいというのを、少しでも見せてはだめだ…徹底的にやらなければ!”

会うごとに、彼女の涙は増えた。
そして、彼の心も壊れていった。

彼女が完全に彼の元を去った時、彼にはもう仕事へ行く気力さえなくなってしまっていた。
暗い部屋に横たわり、ただ彼は笑っていた。

ただしその目からは、ずっと涙が流れていた。

”幸せにしてあげたかった…ただそれだけだったんだ。だが俺は何をどう間違えたのか…結局は君を泣かせることしかできなかった…”

心の中で、様々なものが壊れ続けた結果。
彼はひとりになった。

だが、彼にはもう帰る場所などなかった。
全て自分で捨てた後だった。

”これが…罰なのか…新教会を捨てた、罰…”

涙を流しながら、自嘲的に笑う。
しかしそれは、罰などではなかった。

「鈴村、おい鈴村ッ!」

「おい、反応ないぞ…ドア、破るぜ!」

「あ、ああ!」

突入してきたのは、工事現場での仲間たちだった。
七瀬は彼らに助けられ、病院に送られることとなる。

「いきなり仕事来なくなっちまったから、心配してきてみりゃー…」

「その歳で衰弱死とか冗談じゃねーぞ、おい!」

彼の意識を保たせるべく、必死に呼びかける仲間たち。
それに対して、七瀬はただうわごとでこう答えるばかりだった。

「申し訳…ありません…ぬま、た、せんせい…! 俺は…だれ、も…守れなかっ…」

「…」

七瀬のうわごとに、仲間たちのひとりがぴくりと反応する。
独特の格好はしていなかったが、その顔はどう見ても「スメラギ」となった七瀬の「友人」と全く同じだった。

捨てたつもりでも、まだ七瀬は完全には新教会の教義や、指導者である沼田のことを忘れることはできなかった。
しかし、新教会離れを決定付ける出来事はこれから起こる。

「…」

それは、七瀬がある方向へ歩き始める転機でもあった。
その鍵は、彼の友人…キサラギにそっくりな男が握っていたのだった。

>act3へ続く

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