私はかねがね、政治や宗教上の悪質なプロパガンダ以外の映画は全てその存在を認めるべきだと考えている、だからFacebookやその他のSNSで、制作者サイド(主にインディーズ)からの「こんな映画は映画じゃない」的発言を見かける度に胸が痛む。

 

 しかし「好きか?嫌いか?」と問われたら話は別で、否定はしないが観たくない映画(ジャンル)はある。その筆頭が「特攻映画」だ。為政者(軍部)が「‟国体”の保持」に名を借りた自己の保身のために、自国の若者を大量にシステム的に死に追いやった、いわば自国民に対する「ホロコースト」である日本の特攻隊を描いた映画は当然のこと、『さらば宇宙戦艦ヤマト 藍の戦士たち』や『ディープインパクト』『アルマゲドン』でさえ、人類を守るためとはいえ誰かが自ら犠牲になるという意味での「特攻映画」も嫌いだ。だから『鉄腕アトム』や『ジャイアントロボ』のラストも、『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』で、ゴジラを覚醒させるために芹沢博士(渡辺謙)が手動で核兵器起爆装置のスイッチを入れるシーンも、「特攻映画(ドラマ)」だと感じている(おっと、“アラン・スミシー”監督の『クライシス2050』を忘れていたよ(;^_^A)。

 

 だから、そんな私がこの度、「月に一度は劇場で映画観賞」の2023年最後の月に『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を選んだのは我ながら異例中の異例だった。まあ、これにはありきたりとはいえ、女子高生のタイムスリップモノという味付けや、後述する理由があったからなんだけどね。

 

 

 さて、本作は、進路や複雑な家族関係に悩み、いささか世をすねた女子高生・加納百合(福原遥)が、親子喧嘩の果てに家を飛び出し、立ち入り禁止の崩れかかった防空壕で一夜を明かした後に出てきたら、そこは1945年、太平洋戦争末期の日本だった、という、「タイムスリップ」モノの王道を行く形でスタートする。異郷(「時空を超えた」という意味で)の世界で路頭に迷い途方に暮れる(といいつつ意外に早く状況を理解する)百合を救った男性が、数日後に命を散らすことが決まっている特攻隊員の佐久間彰(水上恒司)だったことから、その先に当然待ち構えているであろう悲恋と離別に向かって物語は怒涛の如く展開していく。ちなみにこの水上恒司という男優は、以前は岡田健史の芸名で、一昨年観賞した『そして、バトンは渡された』では類まれなるピアノ奏者で永野芽郁の恋人・早瀬賢人役を演じていた。演技を始めたきっかけが、高3の時演劇部の舞台で特攻隊員を演じたことだったらしいから、本作には奇妙な因縁があったようである。

 

 ところで、この佐久間彰が所属する部隊は、後に佐久間の口利きで百合がお世話になる、女将のツル(松坂慶子)がやりくりする鶴屋食堂常連の、自称「はらぺこ隊」なのだが、この「はらぺこ隊」の面々やその演技を観て、ある記憶が甦ってきた。

 

 実は今年の10月、職場の仕事の関係で鹿児島に行き、そこで「知覧特攻平和記念館」を見学した。その際、館内で上映されていた陸軍特別攻撃隊を解説する映像の中に一枚の写真が登場し、それにいたく感銘を受けた。それは第七十二振武隊(自称「ほがらか隊」)の特攻隊員5人が、子犬を抱いて仲良く写真に納まっているものだったが、その5人の表情が愛嬌も湛えた、まさに「ほがらか」であり、しかもこの写真が、彼らが出撃する予定時間の僅か2時間前に撮影された事実を知るにつけ。彼らの屈託のない笑顔と、その後のあまりにも傷ましい運命にギャップに、恐怖すら感じたものだった。実際のところ、この日の出撃命令は延期になったそうだが、彼らは結局その翌日出撃し、「散華」したそうである。映像観賞後、どうしてもこの写真が気になって、それを表紙にした本を購入した。このメンバーは皆17~18歳で構成されていたことを考えると、こんな子らに‟覚悟”をさせた当時の日本が許せない思いや、彼らを慮ってのやりきれない思いに駆られる。

 

 

 この「知覧特攻平和祈念館」での感慨が、「特攻映画」嫌いの私が敢えて本作を観ようとした動機の一つである。それ故、この「ほがらか隊」の写真から感じ取られるイメージと、劇中の「はらぺこ隊」のイメージがシンクロし(同じ5人組だし)、更に言うならば、劇中『今日から俺は』の伊藤健太郎演じる石丸と、写真右上の髙橋伍長(当時17歳)の雰囲気が実に似ていて、この点にも衝撃を受けた。実は髙橋伍長は、別の写真では子犬とマスコットの女性人形を抱いている姿もあって、劇中石丸が自分を慕う千代(出口夏希)から自らを模したお手製のマスコット人形を出撃前にプレゼントされるシーンとこれも重なる。

 

 

 

 

 本作の原作者である汐見夏衛氏は鹿児島出身で、中学生時代この「知覧特攻平和記念館」に社会見学に訪れた際、衝撃を受け、これが本作を執筆した動機だったらしい。おそらく汐見氏はその時この「ほがらか隊」の写真を見たはずである(もしかしたら人形を抱く髙橋伍長の写真が掲載されている上記の本を所有しているかも?)。そう考えると、石丸のモデルは髙橋伍長であると推測しても間違いないだろう。

 

 物語は、百合の視点を中心に、いつの間にか「何かと因縁深い、それでも今どきの高校生の‟リアル”平和教育」のノリで展開していく。「生神」である特攻隊員に誠心誠意尽くすツルは‟完全無欠の善人”で、それが百合にとって、また彼女に感情移入する観客にとって‟救い”になっているし、ツルが「散華」する直前の特攻隊員から、軍の検閲を逃れるために私的に彼らの‟遺書”を預かり極秘に家族の許へ送るなど、きちんと「戦争批判」「先の大戦の為政者・軍部の断罪」役を彼女に託している描写もあり、先の大戦批判もスタッフは忘れていない。同じ「特攻映画」でも、慎太郎や百田某などの“お花畑”なそれとは雲泥の差だ。

 

 また、“異世界”で百合を取り巻く面々も一応理解ある優しい者ばかりで(唯一、津田寛治が、「百合の戦争批判を責め立てる警官」役を‟いかにも”の演技で嬉々として演じていたが(;^_^A)、その点も百合が自分の素性をきちんと説明することなく物語が進行していく一助となっている。もっとも、特攻隊員たちを、国家や「国体」といったものに翻弄された「無知な被害者」としてだけ描いているのではなく、彼らの葛藤もうまく表現できていたと思う。止む無く‟敵前逃亡を”を企ててる年少兵に対する皆の対応も、従来の戦争映画にはなかったものだったかもしれない。

 

 もし本作を「既存の歴史すら変えてしまう」タランティーノが撮っていたならば、「特攻」の歴史的事実を反故にしてでも、百合と佐久間を無事結ばせるだろう(もし彼が「タイタニック」ものを監督したら「沈まずにニューヨークにタイタニックが入港する」映画にしてしまうかも知れない(;^_^A)が、それも叶わない。またタイムスリップ前の時点で‟伏線”を張っていなかったから、今更『ファイナルカウントダウン』のオチ(離島に不時着したため現世に戻れなかったリチャード・T・オーウェンス中佐が、その後空母ミニッツ建造に関与した云々)のような‟時空を超えた再会劇も期待できない。

 

 そんなわけで本作は、結局のところ百合は何もできないまま‟歴史”は“淡々と遂行”していき、やがて百合は唐突に‟現世”に戻ってしまう。ただ優しいスタッフは、それでもラストに、百合に心から泣かせてあげる、思いがけない‟伏線”を張っていた。それもあってか、劇場で私の右隣の席の娘さんの集団はみな号泣して映画が終わっても席から立てなさそうだったんで、反対側の出口から出たよ(;^_^A

 

 世の若者たちが本作を観たならば、きっと劇中の百合と同様、「リアル平和学習」を体験できるだろう。そのためにはしっかり「戦争批判」しながらも、ライトなラブロマンスを中心に展開する本作のようなものが実に効果的だと思う。百合と佐久間の悲恋を目の当たりにして、本当に戦争はいけないと思ってほしい。そして悪辣な為政者が、届きもしない北朝鮮のミサイルを巧みに利用して国民を不安に追い込み、莫大な税金をアメリカから押し付けられた墜落必至の航空機や莫大な維持費を要求されるミサイルに使わさせるようなことが二度と出来ないように、次の選挙で民意をアピールしてほしいものである。