人間をはじめ生物は、遺伝子を後代まで継承していく「器」に過ぎない……こんな論をどこかで見聞きしたことがある。となると、この世に生きとし生けるものの存在および活動は、所詮「我儘な遺伝子」の所業である、ということになる。遺伝子ではないが、細胞の中で核に“支配”されているミトコンドリアが反旗を翻し、人間ごと細胞を支配する、なんて邦画も昔あったが(『パラサイト・イブ』)、そうなると人間の生きている意味は何……?  去る12月25日(日)に、“いつもの”イオンシネマ西風新都で『月の満ち欠け』を観賞した際、ふとそのことが脳裏をよぎった、

 

 この『月の満ち欠け』は、1980年から2007年にかけての27年間という長いスパンで展開する何とも切ない壮大なる“ビター”なファンタジー映画だ。

 

 

 最愛の妻と娘を同時に交通事故で喪い、絶望と悲嘆の日々を送る小山内堅(大泉洋)の許へ、三角哲彦(目黒蓮)と名乗る男が訪ねてきた。彼は、亡くなった小山内の娘・瑠璃(菊池日菜子)は、かつて自分が付き合っていて、18年前に列車事故で命を失った最愛の人・正木瑠璃(有村架純)の生まれ変わりだったと告げる。そのあまりにも荒唐無稽な話を俄かに信じがたい小山内だったが……。

 

 そこまでの情報はチラシで入手していたが、実際には、現在と過去、時間と空間が入り乱れる、ある種極めて“映画表現的”な映画だった。

 

 この物語は、小山内の許に、三角が訪れた1999年から8年後の2007年を“リアルな現実”に設定し、そこから時間軸は過去と現在を何度も錯綜する。家族を失った小山内は実家の青森・八戸で老齢の母親と共に過ごすのだが、時代設定が東日本大震災の4年前、というのも、何とも意味深だ(実際は八戸では犠牲者の数は他都市と比較したらまだ少なかったようだが)。

 

 遡る時代は、小山内と妻・梢(柴咲コウ)が結婚し、三角が正木瑠璃と出会い彼女に惹かれる1980年、正木瑠璃が列車事故で命を落とし、小山内瑠璃が誕生する1981年、そして梢と小山内瑠璃が不慮の事故死を遂げる1999年を中心に、小山内瑠璃の成長過程と、それに伴う不思議な出来事を織り交ぜながら、現在と過去を何度も何度も行き来する。それは時系列というよりも、「列伝」の如く個々の登場人物のエピソードによって往来するので、観る我々に軽い混乱を抱かせる演出かもしれないが、この技法こそが、小山内瑠璃が正木瑠璃の生まれ変わりであることに説得力を持たせるために、最も効果的な、映画(ドラマ)独特の手法だったといえる。

 

 そんなわけで、一言でいえば本作品は「輪廻転生」の物語である。古今東西、映画やドラマ、もしくは小説の世界でも、「輪廻転生」の物語は何度も何度も……描かれてきた“手垢のついたジャンル”である。それでいうなら、かつて“パラサイコホラー”と呼ばれた『オードリーローズ』だって、本作と同じ「生まれ変わり」の物語だった。ただその多くは「ある日突然誰かの魂が憑依して」なんて設定だったりするが、この『月の満ち欠け』で特筆すべき点は、生まれた時から”誰かの生まれ変わり”である、という設定だ。それも「幼少期に原因不明の高熱に数日間晒される」というのをきっかけに、自分が「憑依した誰か」であることを自覚する、という共通点があり、小山内瑠璃の高校時代の親友だった緑坂ゆい(伊藤沙莉)の娘・るり(小川紗愛)も同様の体験(覚醒)をする(だからら名前も「るり」=瑠璃)。そして思いがけない別のキャラクターも……。そうなると、小山内夫妻は最初から「憑依した誰か」を自分の子供として最大の愛情を注ぎながら育ててきたことになる。これじゃまるで“カッコウの托卵(他の種の鳥の巣に卵をこっそり産み落とし、何も知らないその別の鳥に自分の卵を育てさせる)”と一緒だ。自分の娘という「器」に入った別人格なんだから。

 

 ただ、“小山内瑠璃”という「器」に正木瑠璃が「間借り」するとはいえ、その人格こそが小山内夫妻にとっての愛娘・小山内瑠璃そのものであり、彼女が高熱の果てに“正木瑠璃”を自覚する前もその後も、彼らにとって彼女は確かに娘そのものだったはずだ。そもそも“小山内瑠璃”という独立した人格は存在しなかったのである。だから、リアルな現在においてゆいから、そして8年前には三角から、そのことを告げられた小山内はその都度ひどく動揺し狼狽もするが、やがて“真の救い”を悟ってか、最終的にはその事実を受け入れようとする。絶望的な不幸の果てに全く異なった価値観(救い)にたどり着く……そんな韓流映画の世界観にも一脈通じるような印象を覚えた。何せ本作は、主人公が最愛の家族を失うという、取り返しのつかない絶望からスタートする物語なのだから(そして当然ながら家族は物理的には戻ってこない)。

 

 昨年の12月に観賞した『そして、バトンは渡された』では、梨花(石原さとみ)が最初に結婚した水戸秀平(大森南朋)の連れ子であった「みぃたん」こと夕子(永野芽郁)が、その後梨花が離婚と再婚を繰り返す過程で、血のつながらない義父となる泉ヶ原茂雄(市村正親)、森宮壮介(田中圭)にあたかも「バトントス」のように預けられ受け入れられ、梨花の死後、“3人の”父親として優子の結婚式に参列する、という感動作だった。それでいうと、『月の満ち欠け』は、小山内瑠璃、そして緑坂るりの肉体に受け継がれた正木瑠璃の“魂のバトン”を描いた作品だったといえるかもしれない。ちなみに『月の満ち欠け』の脚本は、『そして、バトンは渡された』と同じ橋本裕志である。

 

 本作の真の主人公と言える正木瑠璃を演じた有村架純の、実に大人びた演技はそれまでのいかにも少女然としたキャラクターを考えると意外だった。もっとも彼女も既に御年29歳、今回のような小悪魔的な妖艶さを醸し出しても不思議はない。そして彼女にある種翻弄される、(当時の)大学生・三角の設定も実によかった。何といっても、彼は映画界を目指し、8mmカメラを持っている、ってのか素晴らしい。設定の1980年当時は、まだビデオカメラは“高嶺の花”で、専ら8mmフィルムが映像制作の中心だった。そんな昭和の郷愁に浸れるのがいい。しかも、彼は「憧れの女性の所作を8mmカメラで撮る」という、80年代青年の(そして実際に8mm映画を撮っていた自分の)究極の夢を、この映画の中で具現化する。何とも素敵で、それでいて胸をかきむしりたくなるくらい羨ましかったよ(;^_^A  私も大学4年の時、映画(ドラマ)制作の過程で、似たような体験があるけど、それは飽く迄映画制作でのこと。彼のように、憧れの女性が自室まで訪れ、しかも自分にカメラを向けられていることに気にすることなく、しかもカメラ目線で微笑みを向けてくれるのである。ホント観ていてキュンとする。この映画が好きになった瞬間でもあった(;^_^A

 

 一方、正木瑠璃にDVを働き事故死のきっかけを作り、しかも梢と小山内瑠璃の事故死にも関与するなど、本作品において時空を超えて唯一無二の究極ヒール役を一手に引き受ける、正木瑠璃の夫役・田中圭の演技も強烈だった。最近は前述の『そして、バトンは渡された』やドラマ『あなたの番です』など、お人よしの男(夫)役がすっかり板についた田中圭だが、本来は、それこそ『キュア』の萩原聖人の“正式な後継者”といっていい、どこか掴みどころのない、本心が読めない演技を得意とする性格俳優だったはずである。それ故、ある種サイコバスを思わせる本作での演技ぶりは、まさに彼の面目躍如といっていいものだった。

 

 主人公を演じた大泉洋もすっかり演技派の俳優となった。最近の彼からは「水曜どうでしょう」の頃の“お笑い”の要素は、殊映画ドラマの世界では殆ど感じられない。本作を演出した廣木隆一監督の弁によると、主人公を2枚目にしてしまうと、あまり観客が感情移入できないだろう、との思いから、敢えて大泉洋を抜擢したそうである。その選択は実に功を奏していたと思う。家族の死に対し、人目もはばからず激しい嗚咽もららして座り込んでしまう演技は、彼以外にあり得なかったかもしれない。私も近くファンタジー系の作品を撮りたいと考えているので、廣木監督の教えは参考にしたい。

 

 柴咲コウが高校生の母親役なんて、有村架純同様時の流れを感じずにはいられないが、彼女ももう四十路。それでも今年は『ホリック xxxHOLiC』での妖艶な演技や、また『ガリレオ』の再放送でシャキシャキした女刑事役など観てきただけに、落ち着いた、それでいて元高校時代の先輩後輩の間柄だった夫への一途な愛を貫く貞淑な妻役は実に新鮮だった。

 

 世代的には、多感な高校時代を送った1980・1981年や、ようやく採用試験に受かって現職を手に入れた1989年という、個人的に思い入れのある時代が設定されているのは興味深かったし嬉しかった。その回想シーンに主に登場する高田馬場駅界隈の風景は、実際の当時の高田馬場を観たことがないので「ここって今の高田馬場で撮ったんじゃないか? だったら時代設定がおかしくなるだろう」なんて思ったが、パンフを観るとロケセットとCGを駆使して、当時の高田馬場駅の風景を再現していたそうだ。まさかあれだけ大規模なロケ場所を作り上げるなんて……いやはやCG技術の進歩には今更ながら目を見張る思いだ。また、前述の8mmに加え、三角がバイトしているのがアナログのレコード店ていうのもいい。時代設定上当然ながら、昭和のカルチャーがぎっしり詰まっていたよ(;^_^A  三角が正木瑠璃の手を掴んで歩道を走るのを移動撮影で捉えるってカットも、まさに“昭和の演出”だったよなぁ(;^_^A  1980年がジョン・レノンの殺害された年だったとは、すっかり失念していたが、当時のカルチャーとしてジョン・レノンの聴き慣れた楽曲が物語の随所に挿入されるのは、何とも郷愁を誘った。ラスト、正木瑠璃の魂を宿った緑坂るりが(おそらく今の三角に逢うために)歩道を駆ける姿をスローで追うカットのバックに「Woman」が流れるシーンは、実に感動的だった。でも著作料は大丈夫だったのかなぁ。同じジョン・レノンの死にアプローチした『悪霊島』の劇場版ラストに「Let it be」を流した時には、莫大な著作料を請求されたみたいだし……

 

 

 このブログの最初に書いた「我儘な遺伝子」の例になぞらえるならば、この『月の満ち欠け』においては、たとえ不幸な身の上だったとはいえ、その無念さを小山内瑠璃や緑坂るりの肉体を借りながら何度も晴らそうとするのは「我儘な正木瑠璃」って言えるかもしれない。そしてこの映画の論で言うならば、世の中には限られた魂しかなく、新たに生まれる生命はそんな限られた魂の単なる「器」に過ぎないって、あたかも幸福の科学のトンデモ映画『ノストラダムス戦慄の啓示』の世界観みたいではないか!(ちなみに私は政治や宗教のプロパガンダ映画だけは大嫌い!) でもそこに「生まれ変わり」っていう発想の根底があるのも確かだ。そういえば『僕のワンダフル・ライフ』もそんな映画だったかな。

 

 それにしても本作は、数多の“生まれ変わり”映画・ドラマにとどめを刺すような、ある種”完全無欠”な「輪廻転生」の物語だったと思うよ。