東京レポート 前回からの続き です。

82日(水)

三菱一号館美術館で、伝ミケランジェロの大理石像とグレコの銅像を観たあと、近くの皇居前広場に建つ楠木正成(くすのきまさしげ)銅像を観ることにしました。 妙なバランス感覚です。
 
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皇居外苑1-1に建つ「騎馬の楠木正成銅像」を訪れたのは久しぶり。20年は経っています。像の周りで元気な声の中国人グループが写真を撮っていました。
 
若い女性添乗員に、「台湾からですか」 と聞いたところ、不機嫌な顔をされました。重慶市からとのことで、何かデリケートな問題に触れたのでしょうね。
現在の重慶は、高層ビルが林立する大都市ですが、日中戦争の時は日本軍が一般市民を巻き込んだ重慶爆撃をしたところです。 
 
楠木正成は、足利尊氏から逃れた後醍醐天皇の忠臣でした。
 
南北朝時代―― 足利尊氏に押し込められた後醍醐 天皇は、京都を脱出して吉野(奈良県)に移り、皇居を定めました。 奈良・吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝)が抗争した約60年間 、二つの朝廷があった時代をいいます。
 
その南朝の忠臣、健武中興の忠臣の像を、重慶市の旅行団が記念撮影していることに感無量です。 このグループには、江戸城、皇居二重橋前でも会いました。
 
 
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1891(明治23)年、住友家が別所銅山開山200年記念事業として献納するため、東京美術学校(現・東京藝大)に製作を依頼します。 高村光雲を主任として彫刻家や美校生たちの総力をあげた銅像は1900年に完成。 別所鉱山の銅をふんだんに使用した像の内部は空洞ではなく、すべて銅だとのことです。表面を叩いて確認できればいいんですが。
 
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高村光雲の息子の高村光太郎は、父の作品を「五月人形」 と評しました。
その真意は分かりません。 二世としてのプライドと屈折を感じます。
 
このポーズ、楠木正成公が1333年(正慶2年)、隠岐の島から戻る途中の後醍醐帝を、兵庫の道筋でお迎えした折の勇姿を再現したそうです。―東京都案内より
 
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彫刻家や鋳造家たちの気迫が伝わり、光太郎が言うような「五月人形」には見えません。 上野公園の西郷像と同じ作者ですが、圧倒される点では、こちらに軍配です。
はるか昔から、銅剣、銅鐸、銅鉾、銅鏡、そして東大寺大仏などの高度な製作技術があり、その技術の総力戦がこの銅像に反映されたと思いました。
 
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銅像の後方に見えるクレーンは、丸の内3丁目10番地の商業施設新築工事現場のもの。 そこの工事予定表には、地上30階 地下4階 高さ最高150m 来秋完了予定と書いてありました。
東京駅舎を見下ろしたり、正成公を見下ろしたり、 なんだかなぁと思います・・・
 
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正成が皇居・二重橋方向を向くように設置されています。
 
 
先の大戦の金属類回収令により、国内にあった銅像の7~8割が溶かされたそうです。特に、学校の二宮金次郎像や、軍人、貴族の銅像は率先して戦争協力しました。 供出されなかった銅像は、よほど上手く隠したか、軍部に都合のよい条件をクリアしたものに限られました。
意外だったのは、昭和18年、旧東京府庁舎の正面玄関に設置されていた江戸城築城の太田道灌と、徳川家康の銅像が溶かされたことです。家康を溶かすことに反対意見は無かったのでしょうか。
 
今残っているものは、金属類回収令や空襲や地震を潜りぬけてきた強運の作品と言えましょう。
 
(日本の銅像、仏像を除いて個人像は明治になってからです。それまでは木彫か石彫、または漆を使った像でした。
屋外に建てられる金属製の肖像彫刻の概念は、明治以降のものでした。)
 
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大声で話す中国の観光グループが去った後の皇居二重橋前。
霧雨が降りはじめ、静寂が戻りました。
 
 
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福岡への帰途、羽田空港の新聞販売コーナーで撮影。 俗世間に戻ります。
 
これで東京レポート2017夏 は終わりです。
 
パブリックアートとしての彫刻について、アメリカから気になるニュース。
南北戦争で南軍の英雄だったリー将軍の銅像を撤去の集会に、白人至上主義者たちと反対派の衝突事件がありました。(バージニア州)
 
その後も、南軍兵士の像が引き倒されたり、トラブルを避けるため深夜に銅像や記念碑を移設している自治体が増えているそうです。 
全米に広がる この動きに、象徴としての彫刻や、宗教・政治・差別問題で翻弄される彫刻について考えさせられる このごろです。