LM04C/日産スカイラインターボC
85年5月 富士1000キロ
LM04C最後のレースだが助手席側に計器類が積載されているようだ。
DR30後期型のイメージカー的デザインが施される。
イメージスケッチ

ここからは1984年の全日本耐久選手権を戦ったLM04C/スカイラインターボCについて記述します。

FRのスカイラインターボCから大幅なモデルチェンジを敢行。ルマン商会制作のミッドシップCカーに生まれ変わったスカイライン。当初ローラ製シャーシ購入も検討されたが前年フェアレディZターボCとして制作したLM03Cの進化版LM04Cに決定した。フロントオーバーハングを100mm短縮など03Cで露呈したダウンフォースとボディ剛性の不足を補い幻のマシンR383のカラーリングを纏ったスカイラインターボCに日産ファンも期待した。ただしエンジンは相変わらずLZ20Bターボ。タービンを小径化しピークパワーを落としても燃費とレスポンス改善と耐久力のアップを狙う。新型エンジンFJ20ターボは開発中で3月にはベンチテストの予定でありシーズン途中には実戦投入出来る見込みであった。テールランプにR30後期型のレンズを使ったのがせめてものスカイラインを名乗る方策か。
スポンサーは引き続きトミカ、タイヤもダンロップ、ホイールはSSR。
5月の発表会でR383と共にする。長谷見選手の姿も見える。
スーパーシルエットスカイラインとのショット。

ホシノレーシングとセントラル20は前年と同じ体制
マーチ83G/シルビアターボC  現存するシンプルなツートンカラーに変更
LM03C/フェアレディZターボC キャノンのサブスポンサーが付き白地塗装になる。4月に行われた菅生チャレンジカップ(30ラップのノンタイトルスプリントレース)で優勝。
LM04C/パナスポーツ日産ターボC
対するライバル勢は日産系は前年と同じ3チームに加えパナスポーツとルマン商会がLM04CにLZの供給を受け鈴木利男選手/中子修選手のコンビで参戦。タイヤはブリヂストン、ホイールはパナスポーツ、ゼッケン12。翌年のLM05Cにつながる。開幕戦の鈴鹿500キロから参戦したLM04Cの1号車、スカイラインが2号車、追浜が購入したテスト用シャーシが3号車になる。ヘッドライト周りのデザイン以外にもルーフ後端のエア導入口やバックミラーの処理にスカイラインとの違いが見える。シーズン途中からサウンデバイスのスポンサーを得てホワイト/グリーン塗装になる。
アドバンアルファポルシェ956(写真は962C)
ポルシェ956勢は前年のトラスト以外にも2台増加。アドバン(83年WEC JAPANから参戦)とフロムAが加わった。アドバンチームは翌85年シーズンからいち早く956の進化型962Cを導入し国内ポルシェ勢の中核となっていく。
トヨタトムス84C
83Cからフルモデルチェンジ。サイドラジエターからフロントラジエーターに変更。ヘッドライト周りは斬新なデザインだがライト位置が低過ぎてマイナーチェンジ車85C-Lによる85年ル・マンの夜間走行では支障が出た。エンジンは引き続き非力な2バルブ4T-GTだがレスダウンフォースボディと日本電装の電子制御燃料噴射EFIで燃費がいいのが強み。ターボチャージャーもトヨタ内製で型式は古いが制御系は最新装備だった。トヨタは86年から3S-Gエンジンにチェンジする。トムス、童夢、チームイクザワの3台体制。
マツダ727C
前年の717Cの改良型。空力を追求したムーンクラフト設計の車体に13Bロータリーエンジン。空力の見直しと40キロもの軽量化でル・マンの予選タイムでは17秒短縮されたが決勝ではサスペンションやミッションのトラブルで結果を残せなかった。
727はC2クラスなので絶対的な速さでは劣るがマツダの目標はル・マンであり他の国内メーカーに惑わされることなく地道な開発を続けていく。

丸型テールランプが僅かに覗く。
84年5月の発表会でのショットなのでゼッケンが付いていない。リアカウルは03Cよりスマートになりリアウイング翼端板がボディと一体になる。

富士500キロ
フロントフェンダーアーチにRSの赤バッヂ、テールエンドの3角デザインはR383からの継承。R30スカイラインの特徴であるルーフアンテナも付く。上の03Cと比べてフロントオーバーハングが短くなりカウルの傾斜がついた。ホイールベースも短縮されたか。03Cはエキゾーストパイプが後方センター排気だったが04Cは左サイド排気に改良された。

戦績
6月3日 
全日本富士500キロ
35周リタイア 電気系トラブル

7月29日 
全日本富士1000キロ
4位完走 215周
終盤3位走行中に接触でフロントカウルを破損するもテープで補修しての完走。
富士1000キロ

8月26日 
全日本耐久選手権鈴鹿1000キロ
予選7位
決勝81周デフトラブル リタイア
鈴鹿1000キロのみサードドライバーに舘義泰選手が参加。

鈴鹿1000キロのグリッド

9月23日 
WECJAPAN富士1000キロ
予選10位
決勝17位179周
タービンとブレーキトラブルに見舞われ長時間ピットに滞留しトップからは47周遅れ。他の日産勢はリタイアに終わり全国中継されたレースで惨敗し日産本社役員の怒りを買うことになる。
ロスマンズポルシェとのリアウィングサイズの違いが全てを物語る

11月25日 
全日本富士500マイル
30周オーバーヒート リタイア
FJ20ターボ搭載

完走レースが2度あり耐久力の向上はあったものの表彰台はない。もっとも日産勢ではフェアレディZターボCの3位表彰台が一度あるだけで惨敗と言ってよい。散々な成績に終わった83年シーズンとスカイラインターボCがLMシャーシになったこと以外ほぼ変わらない体制で臨んでいるのだから結果は見えていた。
LMシャーシのアルミモノコックは剛性不足でレースを重ねていくうちにサスペンションジオメトリーが狂う症状が現れた。Cカー製造の経験不足が露呈していたのだ。ロングディスタンスを走れなかった熟成不足及びトヨタトムスより50キロ程度重い車体重量は燃費も1.8Km/L(トムスは2.0〜2.3Km/L)で成績不振に拍車を掛けた。予選だけはブーストアップとスペアエンジン大量投入でポジションを確保していたがやがて予選でも奮わなくなる。
トヨタ勢は2位3位が一回ずつ、WECでも6位と8位完走。ポルシェは参加6戦中5勝を上げ(7月の富士1000キロのみ燃料系トラブルで2位)国産勢はまるで歯が立たなかった。特に日産勢はポルシェはおろか熟成が進んだトヨタトムス84Cにも予選決勝で後塵を拝するようになる。
前述の通りWEC JAPANでの惨敗は日産本社でも問題化されたわけだがTBSテレビの実況生中継(当時モータースポーツ番組と言えばTBSかテレビ東京だった)で日産フェアレディZのCM明けにトヨタとポルシェしか映らないのであれば当然だろう。逆に言えば日産、ニスモを本気にさせるきっかけとなったレースだった。
84年WEC JAPAN

FJ20型ターボエンジン搭載
このシーズンで特筆すべきは遂に日産の新型エンジン、FJ20ターボがデビューしたこと。スカイラインとシルビアのRSグレードに搭載されたエンジンをターボで武装し電子制御インジェクション導入も検討されていた。
FJ20型エンジンについて説明する。
日産ではC10型、C110型スカイラインGT-R及びS30型フェアレディZ432に搭載されたS20型直列6気筒エンジン以来のDOHCエンジンでありトヨタ製DOHCの2バルブを凌駕する4バルブでレースでの使用を前提とした設計との触れ込みだった。
スカイラインGT-Rに搭載された直列6気筒DOHC S20型エンジン

ただし直列4気筒だったのでGT-Rの名は冠されずRSという独自のグレードが用意された。営業からはGT-Rにしてくれとの要望があったがそもそもスカイラインの歴史の中で4気筒モデルにGTは存在せずGLやTIと名乗るこだわりがあってのネーミングだった。(日産でスカイライン以外にGTを名乗ったのはL20型6気筒を搭載した73年登場の610ブルーバードU通称サメブルのみ)カタログではブロックから専用設計で当時OHCエンジンのヘッドだけDOHC化していたトヨタ製エンジン(T型R型M型)を上回る高性能をアピールしていた。ただしタクシーなどに搭載されたH20型OHVエンジンの生産ラインを流用したのでボアピッチはH20と共通する。またボアストロークは参考にしたF2レースの直4カスタマーエンジンBMWM12/6と同じである。燃料供給制御は最新のインジェクションシステム日産ECCSが採用された。設計開発はスカイラインGT-RやR38シリーズに携わった旧プリンス自動車出身の桜井真一郎氏。そのため設計にはS20型エンジンとの共通点が多く80年代のエンジン設計思想としては旧いと言わざる得ない。桜井氏としては6気筒DOHCエンジンでGT-Rのエンブレムを復活させたかったがスカイラインのためだけに6気筒エンジンを作ることは許されず汎用性のある4気筒ならばという条件で開発されたのがFJ20型である。既にL型エンジンの後継機となるV型6気筒VGエンジンの開発は進んでおりフェアレディZ、セドリック/グロリア、レパードなどはモデルチェンジを機にVG型にシフトしていく。直列6気筒エンジンをメインに搭載するとすればスカイラインかローレルというラインアップしかなく(次期C32ローレルも発売当初のメインエンジンはVG20になる)この時点では仕方ない選択だった。桜井氏の考えたGT-Rは2.6L程度のNA直6を想定していたようだが時期尚早だったと言えよう。桜井氏の構想は92年R32オーテックスカイラインで実現する。
市販デビューはR30型スカイラインRS発売の81年10月でNA150PS。S110型シルビア後期型HT、S12型シルビアにも換装される。910型ブルーバードにも換装される計画もあったがZ18型ターボ搭載車SSS-Sが大ヒットしていたこともあり見送られブルーバードRSは幻となった。83年2月にはターボ化されFJ20E-Tとなり190PSは当時史上最強のスカイラインと謳われた。R30型のマイナーチェンジ後にインタークーラー付が発売され205PSまでパワーアップした。

スカイラインRS発売時のプレスリリース
写真は市販車のスカイラインRSターボ。赤い結晶塗装のカムカバーがカッコいい。
CMキャラクターに米俳優ポール・ニューマンを起用。ボブシャープレーシングの280ZXでレースに参戦していた縁だろう。

CMでデイトナスピードウェイオーバルコースを疾走するスカイラインシルエット、ドライブはポール・ニューマン。長谷見車とは別にCM用に作成されたグループ5仕様詳細不明。ホワイトボディのまま富士でシェイクダウンの後輸送された。ゼッケン25はスカイライン誕生25周年のため。
ボンネットにはNISSAN PDCのステッカー。フロントフェンダーのBLENDYステッカーは当時ニューマンがコーヒーのCMに出演していたため。

富士でのシェイクダウン。ドアだけオリジナルだろうか塗装が違う。テストドライバーが誰かはわかりませんでした。

FJ20型エンジンのレースでの活躍
全日本F3選手権
ニスモの広告に載るF3用FJ20

1984年から追浜が全日本F3選手権用FJ20エンジンを開発し長谷見昌弘選手がテスト担当。途中から日産ワークス入りした鈴木亜久里選手にバトンタッチしセントラル20からのエントリーでシーズン終盤にはレースにも参戦。85年には供給され片山右京選手もドライブしニスモエントリーの亜久里選手が鈴鹿と西日本で2勝を上げたがシリーズ2位に終わり後のF1ドライバーを擁してもタイトル獲得はならなかった。亜久里選手は「FJはいいエンジンだったがいかんせん重過ぎた。コーナーの立ち上がりで軽量のVWに追い付けなかった」と語っている。堅牢なブロックと抜群の耐久性を持つがリストリクターによる出力規制のあるF3では仇となった。単体重量120キロでVW製エンジンとは40キロ近い差があったのだ。86年は中川隆正選手がニスモから参戦したが成績は残せなかった。87年から日産はCA18DE改2Lで参戦したが多数参戦のトヨタ3S-Gには対抗出来なかった。
84年 セントラル20マーチ793/日産FJ20 鈴木亜久里選手
セントラル20からのエントリーなのでキャノンとコカコーラのスポンサーが付いている。10月の筑波チャレンジカップでニスモ設立後初勝利を飾る。85年鈴鹿BIG2&4でも優勝を記録している。
マーチ793に搭載されるFJ20型エンジン

85年 オートルックハヤシ322/日産FJ20 片山右京選手
オートルックからの紹介でハセミモータースポーツから参戦、ゼッケン11。FP用の旧型シャーシで参戦し最高位は富士と西日本の4位、西日本では予選もPPの亜久里選手に続く2位を記録し実力の片鱗を見せた。最終ランキングは6位。84年に長谷見選手からスカイラインターボCのテスト走行に誘われ85年にはテストドライバーとして240RSやLM05C/FJ23ターボのテストも行った。86年渡仏することになるが長谷見選手の推薦で日産ワークス契約も考慮されていた。
85年 ニスモラルトRT30/日産FJ20 鈴木亜久里 
エンジンテスト用型遅れのマーチから第4戦筑波でスイッチし2位、次戦西日本で優勝を飾るが後半戦の鈴鹿2戦がスロットルやクラッチのトラブルもあり不調に終わる。11月のマカオグランプリに遠征したがクラッシュによりリタイア。まだ初期のイエローカラーSHOEIヘルメットの亜久里選手。翌年からF1でも被る白赤黒にカラーチェンジ。

全日本ツーリングカー選手権
開発車両のDR30スカイラインとS12シルビア

1985年から始まったグループA規格の全日本ツーリングカー選手権に日産はDR30で参戦。ひっそりと始まった感のあるグループA選手権初年度は長谷見、星野の日産ワークス両エースは参戦せず(長谷見選手はインターTEC、星野選手は筑波ラウンドにスポット参戦)注目度は決して高くなかった。長谷見選手は86年から、星野選手は89年からレギュラー参戦。トヨタAE86レビン、ホンダシビックSi、三菱スタリオン、BMW635CSiなどが主な参加車種。
初年度最高位は西日本での2位。86年にはニスモ23号車が2勝を挙げるなど活躍しメーカーチャンピオンを獲得。87年11月のインターTECからRB20DET-Rを搭載したHR31型スカイラインGTS-Rがニスモエントリーで参戦。88年には日産系チームはHR31へバトンをつなぎこの流れは後のBNR32型GT-Rで昇華する。DR30の最終戦は88年開幕戦鈴鹿300キロで長谷見昌弘/高橋健二のリーボックスカイラインが5位入賞を果たしている。
グループAレースから退役したDR30はその多くがJSSレースに転用されプライベーターにより息の長い活躍を見せた。その為かDR30型グループA車両は現存せず86年仕様ヂーゼル機器P'スカイライン24号車のレプリカが保管されている。
86年ヂーゼル機器P'スカイライン(レプリカ)
関根基司/三好正巳
関根選手は85年のマカオグランプリギアレースに遠征し4位入賞を果たしたほかDR30で全日本ラリーにも参戦していた。ヂーゼル機器はゼクセルに社名変更後、現在はBOSCH社の子会社。
85年 日産プリンス千葉スカイライン  マカオグランプリ出場車
国内では17号車として出場。PMC・S(プリンスモータリストクラブスポーツ)のステッカーがハコスカGT-R以来の復活。第1回インターTECでスカイライン勢最上位の5位入賞。86年からプリンス千葉はヂーゼル機器22号車をサポート。後にN1耐久レースをプリンス東京と共にサポートする。まだ4穴ホイールです。
85年 日産プリンス千葉スカイライン   インターTECでの17号車
関根基司/関実
85年 ニスモスカイライン
星野一義/近藤真彦
レース・ド・ニッポン筑波にスポット参戦した車両。柳田春人/鈴木亜久里ニスモ23号車の代替エントリー。タイヤがDLからBSに変更。ゼッケン19はその頃のホシノナンバー。
星野選手が1.04:98でPPを獲得。決勝も全車ラップ遅れにする力走を見せ近藤選手に交代したが2周でギアボックストラブルリタイア。
亜久里選手はマカオグランプリギアレースに出場し6位。
ニスモ19号車のインパネ

DR30ニスモ19号車やHR31GTS-Rのテスト風景など

85年 オートテックニスモスカイライン
長谷見昌弘/鈴木亜久里
ニスモ23号車がインターTECのみオートテックのスポンサードで参戦。柳田選手から長谷見選手に交代している。予選ではファンベルトが切れるトラブルでオーバーヒートし下位に沈んだが決勝では中盤までハルトゲBMWと3位争いを展開するもターボトラブルで脱落した。
この車両は86年シーズンをオートテックスカイラインとしてセントラル20 柳田春人/中川隆正 がドライブした。

86年 ニスモスカイライン
和田孝夫/鈴木亜久里
3月の西日本と11月の鈴鹿で勝利。涼しい時期はオーバーヒートの心配がなく速かった。夏場も水温上昇に苦しみながらもノーリタイアでコンスタントにポイントを稼いだ。和田選手と亜久里選手のコンビネーションも冴えていた。インターTECでは長谷見組に次ぐ4位入賞。ドライバーズチャンピオンは周回数の多かった亜久里選手が獲得。
レギュレーションでターボチャージャーの変更は出来ないので参戦初期で250psから最終型で300ps程度と思われる。
車載のエアジャッキが装備された。
日産系チームのパドック風景
このマシンは2024年、レーシングパレス館長 原田淳氏の手によりレストアされ和田孝夫氏がテストドライブを行った。
当日は平行してレストアされたHR31カルソニックスカイラインも走行した。和田孝夫氏は当時のレースで両車両ともドライブしている。

ニッサングローバルモータースポーツの公式Xにもポストされた。
エンジンルームもピカピカですね。
レプリカではなく86年のマシンがレストアされたそうなので感激です。ヘリテージコレクションにも無かったのでJSSに転用されてしまったと思っていましたが現存していたんですね。86年インターTECを現地観戦しておりました。終盤雨が降り出してヒヤヒヤしましたが無事に4位入賞してホっとしたのを思い出します。
https://www.instagram.com/reel/C81dYYMvuAb/?igsh=dW8xbWJnbjR1c2hw


レーシングパレスさんのインスタグラムより。

87年仕様のスペック表

86年 トミカP'スカイライン
長谷見昌弘/舘善泰 ハセミモータースポーツ
当時スピードスターレーシングに共に在席していた舘選手とコンビ。
西仙台でクラス優勝、インターTECでは雨の降り出した最終盤に長谷見選手が23号車の和田選手を交わして3位入賞。スカイライン勢はセンターロックホイールになる。
86年のスカイラインはニスモ、ハセミ、ヂーゼル機器のカラーリングデザインが統一されていた。P'(ピーダッシュ)は当時の日産プリンス自販のキャンペーン。
87年 ヂーゼル機器P'千葉スカイライン
都平健二/神岡政夫
神岡選手はZ31フェアレディZで85年全日本ラリーに参戦しチャンピオンになっている。
カウンターステアの22号車
都平選手はJSSやN1耐久でもスカイラインで活躍し85年は萩原光選手とコンビを組んでいた。
22号車はBS、24号車はDLとタイヤの違いがある。ヂーゼル機器チームはZEXELスカイラインに代わる90年N1耐久BNR32型までこのカラーリングデザインを継続した。
87年 レイトンハウススカイライン
北野元/影山正彦 ホシノレーシング
往年の日産ワークスドライバー北野選手が星野選手の請われて参戦。北野選手はJSSレースにS12シルビアでホシノレーシングより参戦していたこともある。88年和田選手、89年星野選手とカルソニックブルーのGTS-Rで参戦する。影山選手は後に日産ワークスドライバーとして活躍。98年ル・マンに日産R390GT1で参戦し星野一義/鈴木亜久里と共に3位表彰台を果たした。
ゼッケン16番はレイトンハウスのスポンサードを受けていた故・萩原光選手のメモリアルナンバーでありレイトンハウスF1のイヴァン・カペリ選手もゼッケン16番。影山選手のヘルメットデザインも萩原選手のデザインのアレンジ。
87年 アドバンスポーツ東名スカイライン
高橋健二/和田孝夫 東名レーシング
F3000やGCでヨコハマタイヤ契約ドライバーのコンビが参戦。和田選手は79年FPを東名自動車マーチ79B/日産LZ14で、82年富士マイナーツーリングレースをB110アドバンつちやサニーでチャンピオンになっている。
和田選手は「鉄仮面はすぐ横を向いてしまい真っ直ぐ走らせるのが大変でした」と語っている。
87年 ダンロップハセミスカイライン
長谷見昌弘/鈴木亜久里 ハセミモータースポーツ
87年シーズンはDR30のニスモエントリーはなくセミワークス体制。日産と取引のあるタイヤメーカーに配慮したかBS DL YHのチームに分かれた。これまでピットからはサインボードだったが無線が入りルーフにアンテナが立つ。
ニスモはHR31GTS-Rの開発に注力したので大きなアップデートも追加公認パーツもなく苦しい戦いとなる。ハセミ車は予選でPPを3度獲得するなど速さを見せたが決勝はトラブルが多く最高位は鈴鹿ファイナルの2位。ライバル勢のトランピオフォードシエラRS500やA70トヨタスープラ3.0Lターボに対抗出来なくなる。
菅生300キロレース
インターTECでの32号車。オープニングラップの1コーナーでジェフ・リース選手のスープラ37号車と接触したため左フロントが破損している。

88年 リーボックスカイライン
長谷見昌弘/高橋健二 ハセミモータースポーツ
ダンロップスカイラインと同じ車体。この年だけなぜか1月開催の開幕戦でGTS-Rが間に合わなかった。GTS-RやGT-Rの印象が強いリーボックカラーもデビューはRSだった。寒さ対策でフロントグリルが塞がれている。
優勝はHR31型リコースカイラインGTS-Rニスモ 鈴木亜久里/A.オロフソン


長谷見昌弘選手「RSターボはよく壊れた。それに車体剛性もまったく足らなかった。生産車の段階でグループA対策が施されていない車種でしたから無理もないですがフォードシエラと戦うどころではなかったですね。GTS-Rも基本的にはRSターボと同じでやはり設計段階でグループA対策はとられませんでしたから車体関係はダメでした。ただ、大型タービンや大容量インタークーラーを備えたことでパワーは向上。その分シエラとの差は詰まりましたが逆に中速以下のトルクがなくなりピーキーな特性となりました」


リコースカイラインと亜久里選手、日産ワークスチーム
これは珍しい豪州日産の広告に載るDR30。豪州にはL24.20.18のシングルキャブ仕様しか輸出していなかったはずなのでこのDR30は日本のグループA仕様を輸出したと思われる。
フロントフェンダーに日本とは異なるロゴのNISMOステッカーがあるのでパーツ供給程度のサポートはあったのでしょうか?
1986年バサースト1000キロでのスカイライン
2台体制で参戦し予選はPPと3位。決勝は約6時間半のレースを3位でフィニッシュ及びクラス優勝。コモードール、BMW635、ベンツ190E、マスタングなどが出場し日本から中谷明彦選手がスタリオンで遠征していたがパートナーのクラッシュによりリタイア。中谷選手は「コモードールとスカイラインは信じられないくらい速い」とコメントしていたので日本国内仕様とはエンジンのチューニングが違ったのかも?
JSS ジャパンスーパースポーツセダンレース
NP ニュープロダクションワンメイクレース
こちらは珍しいラリー仕様 82年アクロポリスラリー

84年全日本ラリー選手権

92年 FISCOでのIMSA GT CHALLENGEで混走したJSSのDR30
95年の全日本GT選手権 GT2クラスに参戦したナックウエストスカイラインはJSSレースからの転用車両。R30.31.32が同時にレースに出場していた。

HR31型スカイラインデビュー
85年8月R31型スカイラインのデビューでRB型に移行。RSグレードは消滅し86年5月に登場した2ドアスポーツクーペには新たにGTSの名称が与えられた。86年2月S12型シルビアのマイナーチェンジに伴いFJ20型搭載車は廃止になり併売していたCA型に統一されRSグレードは残ったがCA18DET搭載車になる。
DR30型スカイラインRSはその販売生産が終了した後も全日本ツーリングカー選手権に87年シーズンまで参戦し続けた。日産としてはHR31型で参戦したいのも山々だが大柄になったボディと新型エンジンでの勝利は難しくイメージダウンになることを恐れた。結局87年8月に登場したエボリューションモデルGTS-Rが誕生するまで待つことになる。

85年モーターショーの展示用に作成されたHR31 4ドアHTGTパサージュグループA仕様。ラグジュアリー路線に走ったスカイラインに対するユーザーの拒否反応に焦って作られたがこのマシンがサーキットを走ることはなかった。RB20DETはレッドのカムカバーがブルーに変更されストラットタワーバーが付いていた。RB20DE型エンジンはSOHCのRB20Eとブロックは共通でいわゆるトヨタ式のヘッド換装型DOHCになったが(後のVG型CA型も含め)時代の流れとは言え名称までトヨタ式のツインカムと呼び始めたことには相当がっかりさせられた。7thスカイラインのためゼッケン7。このモデルはスカイライン史上唯一の4ドアピラーレスハードトップ車。

FJ20型エンジン搭載車
S110型シルビアHTRS 82年4月グレード追加、富士スピードウェイで星野一義選手との広告写真。右周りの富士で逆向きに停まっている。SSシルビアは当時流行りのHBクーペだったので見えないような処理か。HBモデルにはRSは設定せれずHTもNAのFJ20-Eのみ。空力的にはHBが有利だがボディ剛性はHTのほうが高い。通常グレードのトップモデルはZ18ターボ。アメ車風の角張ったデザインでヒット車となりモデル末期に差し掛かっての登場だったがRSグレードもそこそこ売れた。このモデルは後のラリーカー日産
240RSのベース車両になる。
こちらはガゼールRSの広告写真
スーパーシルエットのZ-sportsガゼールを配置
BS110型日産240RS
FJ24型エンジンを搭載するが追浜の設計開発で市販のFJ20型との互換性は無い。
S12型シルビア 83年8月発売。 クーペ、HB共にRSグレードが設定される。ボンネットのパワーバルジは全高の高いFJ20型のための処理でありエアの導入はなく4VALVEDOHC TURBOのロゴが入る。元々ボディデザインの段階ではFJ20搭載を想定していなかったらしく無理矢理押し込んだのでサージタンク、カムカバー、インテークマニホールド、オイルフィラーキャップのデザインもR30型とは違う。L20型6気筒がベースデザインのスカイラインとはエンジンルームのキャパが違うのだから当たり前だが。FJ20E-Tモデルは設定されたがインタークーラー付は企画されたものの市販化には至っていない。存在価値の薄いCA18ターボモデルも併売したがCAエンジン車にはパワーバルジはない。流行りのリトラクタブルヘッドライトだがスペシャリティクーペ市場はホンダプレリュードに圧倒され人気はなく累計販売台数3万台に満たず(S110は12万台、S13は30万台)当時から希少車。RSグレードの価格設定がラグジュアリーな内装と相まってスカイラインと20万円程度しか変わらずプレリュードやセリカとの価格競争力で勝負にならず途中から宣伝広告をCA18ターボモデルに振ったが1.8LSOHCターボでは商品としての魅力はなく販売は低迷。MC後はスッキリしたデザインになりCA18DETエンジンをトップモデルに据えたがもはや手遅れで88年登場S13型で逆転する。
このモデルは初期のJSSやグループA(DIV2のノンターボモデルなのでシビックや86より遅かった)に参戦した。VG30Eを搭載した北米仕様でWRCに参戦。88年にはアイボリーコーストラリーでFR車としてWRC最後の勝利を飾っている。この勝利は日産にとっても今もってWRCで挙げた最後の勝利になっている。
85年 プレイボーイシルビア
86年 JSSシルビア ドライブは近藤真彦選手、ニスモワークスカーで参戦。

FJ20型エンジンの終焉
FJ20型は僅か4年4ヶ月で生産終了し当時としては稀に見る短命エンジンであった。日産の主力エンジンがL型Z型からCA型VG型RB型へ移行する狭間のつなぎ役だったので致し方なく荒々しいエンジン特性も搭載車種のバリエーションが選べなかった要因になる。FF車に搭載出来るコンパクトな4気筒エンジンが求められる時期と重なり軽量静寂性が追求された。日産もシルビアを除き2L以下の小型車はモデルチェンジを機にFF化が進んでいく。単的に言えば旧世代のブロックとヘッドに新世代の電子制御を組み合わせた高回転高出力型の設計は82年8月に登場したトヨタ1G-GEU型ツインカム6気筒24バルブエンジンが作ったハイソカーブームの前にもはや時代遅れだった。FJとは対象的にトヨタは1Gをレスポンスと低中速域トルク重視の設計を施しスポーティカーのセリカXXのみならずマークⅡ/クレスタ/チェイサーやソアラ、クラウンにまで搭載する。
DR30の後継車 HR31リコースカイラインGTS-Rの活躍を伝える日産の広告。富士スピードウェイを疾走する姿は本当にカッコよかった。個人的には後の強過ぎたGT-RよりもRSやGTS-Rへの思い入れが強い。
カルソニックスカイラインGTS-R/和田孝夫
カルソニックスカイラインGTS-R/北野元
今となっては隔世の感がありますが当時はこんなスポーツライクなオフィシャル広告がありました。

スカイラインターボC/FJ20ターボデビュー
日産内部、特にスカイラインが主力車種の販売会社、日産プリンス自販からはFJ20をCカーに搭載してほしいと要望が強かったという。しかしエンジン開発は追浜担当でスカイライン=プリンスの血を惹いたFJエンジンの開発に乗り気ではなかった。当時の日産社内には1966年に吸収合併した旧プリンス自動車系部署との確執がまだ残っていたのだ。追浜のFJ20エンジン開発は細々として進まずテスト用にLM04シャーシを購入し市販の1990ccから2089ccまでボアアップされ鈴鹿1000キロの前には実走テストを行った。当初は9月のWECJAPANでのデビューが予定されたが練習走行でトラブルが発生し予選決勝共にLZで臨んでいる。結局レースデビューは84年11月の富士500マイルまでずれ込んだ。スカイラインターボCにだけ搭載されたFJ20ターボはLZの日産勢を練習走行で2秒近く引き離し実力の片鱗を見せ付ける。決勝でも序盤は唯一トラストポルシェと同一周回で健闘するも30周オーバーヒートでリタイアを喫する。
新型と言っても所詮は2リットル直列4気筒でブロック剛性は高く素性のよいエンジンではあったが基本的なスペックはLZと大差なくとてもポルシェ956を打ち負かす実力はなかったのだ。
富士500マイル
序盤のシーン、スカイライン以下フェアレディZ、パナスポーツ、童夢、シルビアが続く。
SSRホイール広告イラストのスカイラインターボC

1985年シーズン
前年9月にニスモが設立され日産ワークスのレース体制強化が発表される。追浜と大森の二元体制の一本化も決定された。特にグループCの対策は喫近の課題であり新しいエンジン探しから始まる。ニスモは直4のFJ20に見切りをつけZ31型フェアレディZやY30型セドリックに搭載されていたV型6気筒VG30型3.0L OHCエンジンに照準を合わせる。米国日産のセミワークス的存在エレクトラモーティブ社が開発中のVG30ターボエンジンを買い取りそれをマーチとローラ製シャーシに載せることを選んだ。
85年 IMSA GTP NISSAN ZX-TURBO
VG30ツインターボエンジン
写真はマーチ86G/日産R86V

その後のVG30エンジンの活躍を鑑みればこれは正しい選択だったと言えるが市販車流用のチューンアップエンジンを買うことで対応しなければならない程時間も予算も無かったのだ。ニスモが内製のシャーシとレース専用エンジンで臨むのはまだ先の話になる。
IMSA GTP仕様のVG30はシングルターボなのでグループC用ツインターボ化の開発に時間を要し新型車はシーズンに間に合わず初戦の鈴鹿500キロと2戦目の富士1000キロまでは前年と同じ体制で臨むことになった。(フェアレディZターボCは前年の最終戦でクラッシュしたためエンジンテスト用に購入したLM04Cに変更)鈴鹿500キロからシルビアターボCとフェアレディZターボCにもFJ20ターボが搭載されシルビアターボCは予選5位、雨の決勝2位の好成績を納める。シルビアとスカイラインはこのレースから遅ればせながら電子制御インジェクションを試験的に投入している。

LM04C/フェアレディZターボC
マーチ83G/シルビアターボCに搭載されているFJ20ターボ
鈴鹿や富士のイベントでは星野選手のドライブで勇姿を披露した。

戦績
4月7日
インターナショナル鈴鹿500キロ
予選7位 決勝51周リタイア 点火系トラブル

5月5日
全日本富士1000キロ
予選11位 決勝55周リタイア エンジントラブル ストレートエンドでエンジン停止のため2コーナー過ぎにストップ。
LM04C/スカイラインターボC最後のレース

85年よりスカイラインターボCは長谷見昌弘選手/和田孝夫選手に、フェアレディZターボCは柳田春人選手/鈴木亜久里選手に変更している。

85年LM04C/フェアレディZターボCに搭載されるFJ20ターボエンジン。
シルビアは後方排気だがZは左サイド排気なのでエキゾーストパイプの取り回しが違う。
WEC JAPANでのLM04C/スカイラインターボC ゼッケンは50

言うなれば日産が本格的にレースに取り組むまでの過度期のマシンであり成績も奮わなかったため存在感の薄いマシンになってしまいました。もう少し早くFJ20型エンジンが搭載出来ればと悔やまれる。

第四回へ続く