映画や演劇で語られているストーリーはみんな、「自分探し」なんです。

 

 

 

「本当の自分」を探しているんです。

 

 

 

「ありのままの自分」を探しているんです。

 

 

 

自分自身の「本当の願望」を探し、それを叶えようとするストーリーなんです。

 

 

 

 

 

 

 

悪役や敵役は、それを食い止めようとする「心のブロック」なんです。

 

 

 

でも、主人公は、仲間たちによって(時には、敵役によって)、本当の自分を知り、それを叶えていくんです。

 

 

 

 

 

 

それが、映画や演劇で語られていることです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、あらゆる時代、あらゆる国で作品を創造した作家たちもまた、その「本当の自分探し」に悩み、生きづらさを抱えていたんです。

 

 

だから、その思いを物語の中で表現し、乗り切ろうとしたんです。

 

 

彼らの「生きづらさ」がなかったら、物語はこの世に誕生していません。

 

 

 

 

 

 

 

先日、僕らが上演した「ストップ キス」の主人公・キャリーもまた、同じ。

 

 

物語には「メタファー」と呼ばれる比喩が用いられ、それによって「本当の自分」や「心のブロック」が表現されます。

 

「ストップ キス」では、「本当の自分」(願望)は、猫のシーザーとして。

 

それに対する「心のブロック」(ブレーキ)は、「勝ち抜くこと」として(キャラクターとしては、ジョージというボーイフレンド)。

 

 

 

 

彼女はかつて、一度だけ、「勝ち抜くこと」「競争」から解放されて、自分の願望を叶えた過去がありました。

 

夏休みのテニス・スクールでの出来事です。

 

運動音痴だったキャリーは、そのスクールのトーナメントで、1回戦目で惨敗。

 

 

 

 

そして、家でゴロゴロ、好きな時間を過ごすのです。

 

 

それは、彼女にとって、たった一つの「最高に光り輝いた時間」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画や演劇で語られているのは、そういうことです。

 

そして、そういう作品が生まれたということは、世界中の誰もが、そうした生きづらさを抱え、そこから抜け出したいと願っているからです。

 

 

 

 

 

ミュージカル『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンだって、そうじゃありませんか。

 

妹の子を救えなかったという過去のため、彼は、人を「救う」ことが自分の願望になった。

 

ところが、人を救おうとしたその瞬間、ジャベール警部という敵役が現れる。

 

 

 

愛する人が、そして、自分自身が救われ、幸福になりそうになると、決まってジャベールが現れる。

 

 

 

『レ・ミゼラブル』で用いられているメタファーは、まず、名前。

 

彼が、自分らしさを失ったことが、「24653」(原語では「24601」)という囚人番号で表現され、「市長」というニセの肩書と名前で表現される。

 

 

 

それから、ジャベール警部。

 

彼は、ミュージカル版では「牢獄で生まれた」と表現されるが、それはまさしく、ジャン・バルジャンが自分の名前(=自分らしさ、ありのままの自分、本当の自分)を捨てた場所。

 

つまり、ジャベールという存在は、ジャン・バルジャンの心の中にある「心のブロック」の象徴であり。

 

バルジャン自身が、「自分なんて、幸福になってはいけないんだ。許されないんだ。なぜなら自分は囚人で、妹の子すらも救えなかった男だから」という心のブロックのメタファーなのです。

 

 

 

 

『ストップ キス』では、主人公キャリーに、本当の願望を気づかせた人物が登場します。

 

サラです。

 

 

 

『レ・ミゼラブル』での、サラに相当する役は、一番近いのはマリウスなのかもしれません。

 

マリウスは、各キャラクターたちが本当の自分に気づく際、必ずその隣にいて、本当の自分の姿に気づかせることに手を差し伸べます。

 

女性であることを捨てたエポニーヌが、死の間際、女であること(=本当の自分)を思い出す瞬間。

 

コゼットとの恋。

 

バルジャンに、名前を告げるのも、マリウス。

 

さらに言えば、身分を偽ろうとしたテナルディエに対して、彼の詐欺師的な生き方に引導を渡すのも、マリウスの役目なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

物語とは、こういうものです。

 

非常に内面的なものであり、我々の心の葛藤を描き出しているものなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

『エリザベート』だって、そうでしょう。

 

主人公・シシィ(エリザベート)は、若い日に事故で「死」とリアルに向き合ってしまったがために、それを意識し、「死」に向かう自分自身と戦い始める。

 

だから、物語の中で彼女は、「老い」と戦い続けるのです。

 

そして、「死」を意識してしまうことで、自分の「生」が非常に窮屈になっていく。

 

それが「トート」という登場人物の役割。

 

しかし彼女は最後に、「死」によって自分が生かされていたことを知る。

 

「死」のせいで「生」が窮屈だったのではなく、王妃としての窮屈な生活から「死」への意識が自分を救い出してくれていたことに気づく。

 

 

 

彼女の本当の願望は、父親から譲り受けた「自由・奔放」に生きる人生。

 

 

 

トートは、その風貌や「死」というイメージから、一見、彼女の敵役のようにも見えます。

 

しかし、物語構造で言えば、トートとは、ドラえもんでいうところの「ジャイアン」みたいなもので。

 

一見、自分の人生の行く手を阻む敵役なのですが、実は彼のおかげで、ドラえもんという存在と繋がり続け、人生を切り開いてゆくのです。(なんなら、映画版だと、ジャイアンは毎回「いいやつ」になる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は、俳優を目指し、俳優として活動する中で、そうした「人間の普遍的な意識構造」を学び続けてきました。

 

それがこの数年で、他の様々な分野と結びついていったのです。

 

 

 

 

でも、それは当然でしょう。

 

 

演劇が「生きづらさを抜け出して、幸せになること」を目的としているなら。

 

他のどの分野の学問や芸術だって、あらゆるものが、同じ目的に向かっているのですから。

 

 

 

 

 

 

 

悪には悪の理由がある、という、物語の悪役の論理然り。

 

「悪いと知っていて悪行を行う者はいない」(みんな、良かれと思ってやったことが、他人にとっての悪行になっている)というソクラテスのパラドックス然り。

 

どんな人間も、皆、本当は「幸せになりたい」のです。

 

それが目的なのです。

 

 

 

 

 

 

だから、どんな分野も、その目的達成のための手段が違うだけで、同じ方向を向いている。

 

 

 

 

 

 

この世界は、至って単純なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての道が、「幸せになる」という目的に向かい。

 

 

 

全ての人が、「幸せになる」という方向を探し続け。

 

 

 

 

 

 

 

そして、「幸せになる」とは、「自分を偽って窮屈な生き方をする」ことではないと、本当は誰もが気づいているはずです。

 

 

 

 

 

 

物語の主人公は、その窮屈な生き方から自分を解放する。

 

だからそこに、感動があり、達成感があり、癒しがあり、カタルシスがあります。

 

 

 

 

 

 

みんな、そこに向かいたがっている。

 

 

 

 

 

 

そして、その単純なことさえ気づいてしまえば、例えば映画や演劇は、とたんにわかりやすくなる。

 

 

 

 

だって、全てが同じ方程式の上に成り立っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕が伝えたいのは、こういうこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「生きづらさ」は、誰にだってある。

 

 

それどころか、その「生きづらさ」が、世界の芸術の名作を創り出す。

 

 

その「生きづらさ」こそが、様々なテクノロジーを開発し、さまざまな娯楽を生む。

 

 

 

 

 

 

 

ただし。

 

その道を間違えると、その「生きづらさ」は牙を剥く。

 

 

 

 

他者を攻撃し、他者から奪い。

 

 

 

あるいは、自分を無価値な存在だと決めつけ、自分の首を締めようとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕が伝えたいのは、そういうこと。

 

 

 

 

「生きづらさ」は、誰にでもあるのだから。

 

 

 

どうか、その「生きづらさ」への接し方を、誤らないでほしい。

 

 

 

道を誤らないでほしい。

 

 

 

 

 

 

 

そのための道しるべを、僕は皆さんに提案したい。

 

 

 

 

 

その道しるべを、僕は、演劇や意識の研究から学び続けてきた。

 

あるいは、自分の人生経験から、学び続けてきた。

 

 

 

 

 

道を誤りそうになる気持ちなら、痛いほどよく分かる。

 

 

 

 

 

いくらでも、話を聞こう。

 

 

 

 

そして、道しるべになろう。