歎異抄第5条最終回で~す!
パチパチパチ!
(↑長かったんだわw)
(↑ごみーん!)
ってことで、最終回ゆえに今日もまた長いので、さっそく本編に入りましょう~
ポイントは
①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしている
②念仏を「供養」に用いているリーダーへの批判
③親鸞のフシギ体験と、ヘミシンカーさんの非物質体験は同じ
④フシギ体験をすると「善悪はない」「自力は要らない」と気づく
で、最終回の今日は④になります
「概念」「ことば」が極端に少なかった800年前
親鸞はフォーカス27をじっくりとっくりと体験した後で
民衆にも分かりやすく、キャッチーなことばで惹きつける「偈(げ)」として「ひとこと」で表現した
といいました
現代でもフォーカス27をことばで言いあらわすのは至難の業です
「こまごま」とは表現できるのですが
全体として「ひとこと」で言うなら「ひたすら愛」としか言いようがありませんw
比叡山でトップの成績だった親鸞ほどの知識人でしたら「こまごま」と表現できたかもしれませんが
義務教育で学校で学ぶことのない当時の民衆に「知識人」は滅多にいません
なにしろ「共通語」がありませんので、となり村では「方言が違う」「ことばが通じない」ということが普通でした
(それを「書きことば」で解決したのが「文語体」です)
参照:
なので親鸞としてはフォーカス27(以上)のはなしを「こまごま」と言いたいのだけれど
言えば言うほど伝わらない!のですねw
じゃあ、あなたならどうしますか?
そうですそうです~
「こまごま」言うのは諦めて、周囲にも分かりやすく「ひとこと」で表現するしかない!
に決まってます
なにしろ
比叡山で難しい勉強などする必要などない!
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよいのだ!
と「ひとこと」で「人間はすでに救われている」ことを表現した親鸞ですw
「比叡山での勉強」はいらない
これは第2条でも確認しました
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
しかし、さきほどからうかがっておりますと、あなたがたは、なにか念仏以外にも極楽往生の道があるのではと考え、それをわたしにおたずねになりたい一心から、ここへおいでになったように見うけられます。
率直に申しあげるが、それは大きなまちがいです。
わたしたちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、ただ念仏する以外にはありえない。
そのことのほかに、もっと大事な極意があるかもしれないとか、特別な秘法についての知識をわたしがもっているのではないか、などと勘ぐっておられるとしたら、それはまことに情けないことです。
そういうお気持ちなら、奈良や比叡山などに、有名なすぐれた学僧たちがたくさんいらっしゃいます。
そのかたがたにお会いになって、極楽往生のさまざまな奥義をおたずねになってはいかがですか。
わたし親鸞は、ただ、念仏をして、阿弥陀仏におまかせせよという、法然上人のおことばをそのまま愚直に信じているだけのこと。(翻訳は五木寛之さん)
前回まで確認してきた「親鸞のフシギ体験」でも分かりますように
「悟り」とは「F27(以上)の体験」であり
少なくとも言えることは
親鸞もブッダも「お勉強をして悟ったわけではないw」のです
「夢告」というフシギ体験をした親鸞ですが
「こまごま」言ったってどうせ伝わらないので
「偈(げ)」として7文字4句に「ひとこと」でまとめたわけです
さて、ここで「悟り」が出てきたので
「悟り」を再確認をします~w
重複ですが、私は「悟りを定義」しましたw
それは
「悟り」とは「特殊で苦しい修行を経て仰ぎ見る、特別にして深遠なる何かw」
ではなくw
目に見えない世界(フォーカス27以上=波羅蜜多)を正確に理解した上での「気づき」であり「心境の変化」である
ですですw
なので、多くのヘミシンカーさんは、もうすでに悟っているのですよ!
こうやって言うと
「悟りとはそういうものではないのだよ、ジーナくん…」
「悟りとは言葉にできないものなのだよ、ジーナくん…」
「悟った人ほど悟りとは?などと言わないものなのだよジーナくん…」
って言われるの確定!なのですが
ヘミシンクが開発され、世界中でフォーカス27(以上)の体験者がわらわら増えた現在
それ、もう古い逃げ方~w
なわけです
じゃあ逆に
お前さんがいう「悟り」って何だよ?
日本語でちゃんと言ってくれよ
ってお聞きしたいですw
「定義化されてないことば、概念」を扱って話すほど、バカバカしいことはありません
「りんご」「ごりら」「らっぱ」「ぱいぱい」は、「定義化されている」から話が通じるのです
(↑やめとけw)
もちろん「悟り」は、ヘミシンクが開発されるまで「定義化できないもの」でした
なので、これまでは「悟りとは言葉にできないものなのだよ、ジーナくん…」でよかったのですw
しかし、世界中でフォーカス27(以上)の体験者さんがあらわれている現在
「体験することが前提」ではありますが、かりに未体験でも
「悟り」は、現代の豊富な概念やことばを駆使して「知識として定義化でき、多くの人たちと共有出来うる」ものになりました
では、私がいう「悟りとはフォーカス27(以上)の体験」なら
そいつはどんな心境になるのか?
ってな話はこれ↓に書きました
ひとことでいえば
不偏不党のスタンス
「ただ在る」と眺めるスタンス
ですです~
第5条⑪で
フォーカス27(以上)を体験した親鸞は
◯この世に善悪・優劣はない
◯自分の力でやった!ということは何1つない
という「悟り」を得た
と言いました
「善悪・優劣がない」と分かったので、誰をも責めず、すべて許すって感じです
「自分の力ではない」と分かったので、努力はもちろんするけど、結果はガイドさん任せって感じです
ここで、めでたくポイント④の
④フシギ体験をすると「善悪はない」「自力は要らない」と気づく
に着地しましたw
着地したところでサッサと終わりにしますが
最後にポイント④にからめて1点だけw
ウクライナやイスラエルが戦争中ってこともあり、歎異抄の解釈も
戦争はよくないものだ…
人間は愚かな生き物だ…
っていう解釈をされる方もいらっしゃいます
(とりわけ「善人、悪人」あたりで)
一般論として、戦争はよくないし、はっきり言って愚かな行為です
私も人間ジーナとしては「バーッカじゃねえの?」と感じるところはあります
ただ、フォーカス27を体験されますと
殺し合いさえ許されているし、そこに善悪はない
この世はゲームの世界(そらごとたわごと)であり、善悪のジャッジは自分だけのモノサシ
ということに気づいちゃうことでもあるのです
フォーカス27の体験者親鸞も
死に方にさえ善悪はないんだよ
(まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず)
と言っていることを改めて付記しておきます
…ふぅw
終わりました~w
このたびもつたない文章に最後までおつき合いくださり、誠にありがとうございました
m(__)m
このシリーズ1か月かかっちゃったにもかかわらず、読者登録を解除しないでいただいて、ありがとうございましたw
m(__)m
これでも大急ぎでやってきたので、ことば足らずで誤解を招いたり、どこかに敵を作っちゃったかもしれませんw
そこはまあ、私の不徳の致すところってことでお許しくださいませ
m(__)m
ちな、今回のシリーズはこちらのコメントが原動力になりましたw
ありがとうございます!
お返事しないシステムになりましたが
コメントはすべて股間ぽりぽりしながr…手を合わせて読ませていただいております!
最後に原文と翻訳を改めて載せます~
(↑これも長げーんだってw)
【歎異抄】第5条(原文)
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。
「翻訳」
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。
というのは、 命のあるものはすべてみな、 これまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中で、 父母であり兄弟・姉妹であったのです。 この世の命を終え、 浄土に往生してただちに仏となり、 どの人をもみな救わなければならないのです。
念仏が自分の力で努める善でありますなら、 その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、 念仏はそのようなものではありません。
自力にとらわれた心を捨て、 速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、 迷いの世界にさまざまな生を受け、 どのような苦しみの中にあろうとも、 自由自在で不可思議なはたらきにより、 何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。
このように聖人は仰せになりました。
「ジーナ訳」
おいら親鸞は、死んだ両親の供養のために念仏を唱えたことは、一度たりともないよ。
そんなものはムダムダw
意味がないんだよw
その理由は、フォーカス27の「生まれ変わりシステム」で分かる通り、死んだ両親とは何度も父母きょうだい等の関係を、この世で何度も繰り返しているからだ。
いわば、「同じクラスの中で何度も席替えをしている」ようなものさ。
誰もがこの人生で、まず「自分自身がすでに救われている」ことを知ることがもっとも重要で、他人をレトリーバル(救おうと)するのは、自分が肉体を卒業して、いわゆる仏さんになってから考えればいいのよ。
もし、念仏というものが「私は良いことをしているぅぅぅ!という自力で頑張っちゃう善」であるならば、亡き両親をも救えるという理屈なんだろうが、それはそもそも念仏を勘違いしているぞ。
念仏は「ありがてえなあ」という感謝の心境の発露であり、それは自力でも他力でもなく、ただガイドさんに任せ切る「絶対他力」のスタンスなんだ。
「非物質の世界」に思いを馳せ、ガイドさんをはじめとする「非物質の存在たち」の応援を感じれば、この物質の世界でどんな苦しみの人生を歩もうとも、時間・空間・物質の制限を超えた縁がはたらき、結果的に他人を救うということもあるだろう。
ただね、初めから「人を救わん」というのは傲慢であり、お前が自力でそいつを救うのではなく、そいつが絶対他力に目覚めたら、そいつは自然に自分は救われていることに気づくんだよ。
と親鸞はおっしゃった。
最後に「ラーメン」訳~
(↑はいよ~w)
(ラーメンバージョン)
おいらは、チャーシューを有り難がるために「いただきます」と言ったことは、一度たりともないよ。
そんなのはムダムダw
意味がないんだよw
その理由は、「来来亭システム」でも分かる通り、メンマやネギ、もやし、背油、チャーチューといったトッピングの無限の組み合わせは、どんぶりの中で何度も繰り返されているからだ。
いわば、「同じどんぶりの中で、大将のおこのみを表現している」のだ。そして、それでいいのだ。
誰もが目の前のラーメンで、まず「この一杯が食えることがすでにありがてえ」ことを知ることがもっとも重要で、トッピングをあれこれ考えるのは、仮にお前さんがオーナーになってから考えればいいのよ。
もし、ラーメンというものが「私は悪いものを食べているぅぅぅぅ!という自力で落ち込んじゃう塩分、脂質過多」であるならば、食べないに越したことはないという理屈なんだろうが、それはそもそもラーメンを勘違いしているぞ。
お前は日本にいるからいろえろなラーメンを食べることができるのであって、仮に海外に居たらどのお店のラーメンも食べられないのだ。だから、目の前の一杯のラーメンは、とてつもなく尊い存在であることに気づいてほしい。
つまり、ラーメンは「ありがてえなあ」という感謝の食べものそのものであり、それは自力でも他力でもなく、ただ大将の努力と美意識に任せ切る「絶対他力」なんだ。
「麺とスープのえもいわれぬ融合」に思いを馳せ、チャーシューをはじめとする「トッピングの存在たち」のいろどりを愛でよう。すると、このラーメン店乱立時代の世界で大将がどんな経営の苦しみを歩もうとも、醤油・味噌・塩・とんこつといったお前さんのおこのみを超えた縁がはたらき、結果的にこのお店にまた来たいなぁという思いが湧くのだ。
だからね、初めから「われ具を選らばん」というのは傲慢であり、お前さんなぞが自力でトッピングを選ぶのではなく、お前さんが大将のおススメのラーメンに目覚めたら、数々のトッピングの組み合わせもお前ごのみに自然に変わるんだよ。
と親鸞はおっしゃった(わけがない)。
参照:これまでの【歎異抄】シリーズ