昨日は『歎異抄』の「第2条」をあげました
太文字下線部を再掲します
【原文】
念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり
あなたがたは、なにか念仏以外にも極楽往生の道があるのではと考え、それをわたしにおたずねになりたい一心から、ここへおいでになったように見うけられます。
率直に申しあげるが、それは大きなまちがいです。
わたしたちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、ただ念仏する以外にはありえない。
念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。
そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。
たとえ法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。
ここまで正直にお話ししたうえで、みなさんがたが念仏の道を信じて生きようとなさるか、またはそれをお捨てになるか。
その決断はどうぞ、あなたがたそれぞれのお心のままになさってください。
親鸞に何が起こっているのかといいますと
この部分は
「善鸞義絶事件」
と呼ばれているところです
善鸞(ぜんらん)は、親鸞の長男です
ウィキ先生にはこうあります
父親鸞が関東布教から京都に戻った後、関東における門弟たちの信仰上の動揺を鎮めるために、善鸞は実子の如信とともに関東へ派遣された。
しかし関東で、善鸞は邪義とされた専修賢善(せんじゅけんぜん)を信仰するようになった。
現地でひそかに善鸞に伝授された法門教義が正統であり、善鸞自身は善知識すなわち生き仏であると訴えたため、異義異端事件となった。
その結果、建長8年(1256年)5月29日付けの手紙が東国に送られ、父から義絶された。
その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。
ただし、高田派専修寺に収蔵されている顕智による写本が存在するのみで、親鸞の真蹟のものは発見されていない。
というわけで
親鸞が関東での布教の後、京都へ帰った
↓
関東では横曽根門徒、高田門徒、鹿島門徒が主たる3グループに成長
↓
親鸞がいなくなった関東で、しだいに教えがゆがめられた
↓
親鸞「しゃーない、息子善鸞を派遣して関東の混乱を収めるかなーん!」
↓
善鸞「関東来たよ!高田馬場のBIGBOX集合か…」
↓
関東の3グループと善鸞が対立
↓
善鸞「やっべえな…あのねえ、じつは俺父ちゃんから『秘密の法門』を教わってんだわ~。それを知らないと浄土にゃ行けないぜ?」
↓
門徒らー「え~!でもそれって違うんじゃ…」
↓
門徒らー「せや!親鸞に直接会って聞きに行こう!」
という流れがあり、この「第2条」は生まれました
一説によれば、『歎異抄』の筆者唯円も
この「直接会いに行ったグループ」の一員だったということです
さて、ウィキ先生に
「しかし関東で、善鸞は邪義とされた専修賢善(せんじゅけんぜん)を信仰するようになった」
とありますが
「専修賢善」とは何か?
といいますと
龍谷大学の元学長、千葉乗隆さんによれば
専修賢善は、親鸞聖人は仏の救いを信じ念仏するだけでよいというが、ただ念仏だけとなえることに満足せず、善い行いをして念仏のたすけにして浄土に生まれることを求めるという考え
(引用元)
ということです
そして、関東の3グループはじめ
善鸞のいう父親鸞から教わったという「秘密の法門」は
「かくし念仏」などと呼ばれました
その内容ですが
秘事法門と呼ばれるものの内容は一様ではないが、特別の宗教儀礼によって人為的に感動をあたえ、恍惚状態に導く場合が多くある。
儀礼が文献によって紹介されているものに、
御庫秘事(土蔵秘事)や
かくし念仏がある。
特定の指導者から信心が授けられるとする善知識だのみ、
罪悪感を強調し異常経験をあたえる地獄秘事、
儀礼を終えた者を仏に擬する一益法門、
不拝秘事、
十劫秘事
などは秘事法門の例である。
というわけで
特別の宗教儀礼によって人為的に感動をあたえ、恍惚状態に導く
っていう感じです
いやあ、ろくでもねえなw
現在の「クソスピ」に通じるものがありますw
ただ、
「善鸞はろくでもない奴だなーw」
という認識だけでは
善鸞がお気の毒~
ですので
けっこう説得力のある反対意見w
を明日ご紹介してバランスをとっておきたいなっとw
今日は
○親鸞が去った関東では親鸞の教えがゆがめられた。その1つは「専修賢善」と呼ばれ、特別の宗教儀礼によって人為的に感動をあたえ、恍惚状態に導くものであった
ということを確認しました
ここまでの【まとめ】
○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある
○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった
○『歎異抄』の筆者唯円は「読者に分かってもらえる」と確信して筆をとったので、後に発禁処分になったり、『歎異抄』は理解できなくてもいいという雰囲気は、筆者唯円にとってかなり想定外であるはず
○「覚者の姿」の一般的なイメージは「聖人君子」である
○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった
○「人気のある人」の条件は現代と鎌倉時代とでは大きく異なるが、「面白い人」という点は共通している
○「覚者」のイメージは「陰キャ」よりも「陽キャ」のほうが、人前で説法する外面的なイメージとしては正確である。すなわちユーモアがあり、エロスを理解し、カラッとしている
○『歎異抄』が成立した鎌倉時代の平均寿命は24歳。なぜ現代と比べてかなり低いのかといえば、新生児医療が未発達で赤ちゃんが亡くなりやすい環境だったから
○「女性はたくさん子どもを産む」ことを求められていた時代が長く続いた
○鎌倉時代の庶民は「ワンシーズン経つと、知り合いが死んでいるのが当たり前」の時代に生きていた
○鎌倉時代の庶民の人生観は「楽しいことしたい!」という「享楽的なスタンス」「享楽を求めるスタンス」であり
人々は笑い合い、祭りや収穫を心待ちにし、生きるエネルギーに満ち溢れていた
○子をしつけ、叩く慣習などそもそも日本に無く、少なくとも戦後に生まれた思想
○子をしつけ、叩く慣習は「朱子学」「軍国主義的雰囲気」「戦後の左翼教育の台頭」と関りがあり、それは戦後の日本人の長寿化によるものである
○第2次大戦以前の子どもは「親からのコントロール」が現在と比べるとかなり少なく、それは親(大人)自身が享楽的だったからである
○鎌倉時代は「若者ばかり」で賑やかで活気があった。そして、若者は流行が好きで、ブームをつくり、新しいものに目がないという一面がある
○「あの世に地獄極楽がある」と信じられていた時代、「念仏や題目を唱えるだけで極楽浄土へ行ける」という情報は、享楽的なスタンスの民衆に広く受け入れられた